Archive for the '坂' Category

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最後の海辺 ―盤洲干潟

2018年初夏、海風強し。
ヒッ、ヒッ、と鳴くは、鳥類にしては珍しく一夫多妻のセッカ♂か。
後浜の小流れのなかアシハラガニ走り、砂の丘にはハマヒルガオとハマエンドウの花。
新日鉄施設廃墟浸透実験池外周池に浮かぶはカルガモらし、数羽飛び立つ。
風紋の干潟に潮満ちくれば海の泡、アマモ、ホンダワラの離片を寄せる。
東京湾に残された、最後の自然海浜。

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以下のような文章を理解できる場所は、今ではこのあたりしか存在しない。

 海辺は、寄せては返す波のようにたちもどる私たちを魅了する。そこは、私たちの遠い祖先の誕生した場所なのである。潮の干満と波が回帰するリズムと、波打ち際のさまざまな生物には、動きと変化、そして美しさがあふれている。海辺にはまた、そこに秘められた意味と重要性がもたらす、より深い魅力が存在している。
 潮の引いた海辺に下りていくと、私たちは、地球と同じように年月を経た古い世界に入りこむ。―そこは太古の時代に大地と水が出合ったところであり、対立と妥協、果てしない変化が行なわれているところなのである。私たち生きとし生けるものにとって、海とそこをとりまく場所は特別な意味をもっている。浅い水の中に生命が最初に漂い、その存在を確立することができたところなのだから。繁殖し、進化し、生産し、生きもののつきることのない変化きわまる流れが、地球を占める時間と空間を貫いてそこに波打っているのだ。

 海辺を知るためには、生物の目録だけでは不十分である。海辺に立つことによってのみ、ほんとうに理解することができる。私たちはそこで、陸の形を刻み、それを形づくる岩と砂でつくられた大地と海との長いリズムを感じとることができる。そして、渚に絶え間なく打ち寄せる生命の波――それは私たちの足もとに、容赦なく押し寄せてくる――を、心と目と耳で感じとるときにのみ理解を深めることができる。
(R・カーソン『海辺』 The Edge of the Sea 上遠恵子訳)

近年では地球生物の誕生の場は深海海底火山の高温域と学説が変容したようだが、浅海とりわけ干潟が現生物種のもっとも多様豊穣の地であることには変わりがない。また海幸と山幸では、海幸が断然優位なのである。

さて東京湾の現在は、この100年の人為がもたらした地表の異貌である。
しかしもう半世紀も経ずして、この海陸のはざまは別の相貌に転じるだろう。
ヒトのいかなる欲望も営みも、ついには地表に一時の刻印を残すだけなのである。

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竪の坂 横の坂

渋谷川と目黒川の間の代官山近くの高台は、渋谷川からはなだらかに高くなって行くが、目黒川からは険しい急坂になっている。西郷山の坂、牛啼坂(世田ヶ谷、荏原、目黒から野菜や米を積んだ車を曳いてきた牛が登れなくなって啼く坂)、今も階段で車の通れない別所坂、目黒のさんまで有名な爺ヶ茶屋のあった茶屋坂、千代ヶ崎の坂、五百羅漢の寺のある行人坂など急坂が多い。それだけに、この丘陵から見る西の眺めは広々として遠くまで続きその先に富士が美しくそびえていて、北斎や広重の版画を思わせる。その得難い風景は戦後の高層ビルブームのため無残にも分断、破壊され、武蔵野の高台から富士を眺めることは殆んど不可能になってしまった。富士どころか目黒川沿いの低地もその向側の世田ヶ谷の丘を望めない。

冒頭の文章は、文芸評論家として知られた奥野健男氏(1926-1997)のものですが(『ヒルサイドテラス白書』栞、1995)、ご本人は、ある日同窓会名簿をながめていて、47人いる小学校同級生のなかで、なお生家に寓しているのは自分ただ一人であることに気付き、愕然としたといいます(『文学における原風景』1972)。
たしかに、関東大震災や東京大空襲の破壊を経て、東京オリンピックの都市改造、さらにバブル経済地価暴騰以降の再開発という、都市改変の4つの巨大な波をかいくぐって東京の自家を維持しえた人は、存在自体が稀なのでした。
奥野氏の生家は、JR恵比寿駅から徒歩数分で到達するも現在なおその静かな住宅街にある。
氏の両親が結婚してそこに住んだ1925(大正14)年当時は、東京府下豊多摩郡渋谷町下渋谷原四番地という住居表示だったといいます。そうして、就学前の「原っぱ」遊びの記憶から、近年の住宅コンクリート変容に到るまで、自宅周辺の軌跡を定点観察してきた奥野氏の幾編かの文章は、東京の一地域変容の具体相を記録して、たぐいまれな証言となっているのです。
ところで、冒頭の文章のうち「牛啼坂」とは、江戸・東京にはよくある坂名で、港区は赤坂にも、青山にも現存する。
しかしここでいわれる牛啼坂は、一般には目切坂、別名暗闇坂として知られているもので、渋谷区と目黒区の境から目黒川の谷に下る長い坂のこと(写真)。目切坂の名は、坂上に明治10年頃まで、伊藤与右ヱ門という石臼の目切業者が住んでいたためといいます(石川悌二『江戸東京坂道事典』コンパクト版、2003年)。
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(以上は、「竪の坂・横の坂」(『地図中心』誌連載「江戸東京水際遡行」2012年8月号に掲載予定の冒頭部分)