Archive for 8月, 2010

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江戸の崖 東京の崖 その15

タイトルの一部に「崖」の字がある書物、あるいはトリックや舞台設定の一部として崖を用いた本は少なくないものの、中身が「崖」そのもの、というのはほとんど類書がありません。
『花』(宇野千代編)にはじまり、100冊目の『命』(野間宏編)で1期を終えた「日本の名随筆」(作品社)は、戦後の日本出版史上まれにみる成功シリーズのひとつと思われますが、その100冊ほとんどみな一字のタイトルだけれど(例外『万葉』1・2・3、中西進編)、「崖」というのは見あたらない。ちなみにこのシリーズは「別巻」という名の第二期があって、こちらも100冊。ただし今度はそのタイトルが2字で、例えば94冊目は『江戸』(田中優子編)、最終巻を『聖書』(田川建三編)で完結しています。
実際に「編者」がどのような役割を果たしたかはケースバイケースとして、これだけのものをつくりあげる「裏方」の作業は、大変だったというより、大変楽しかったでしょうね。
ところで、国語辞典に「崖」という項目があるのはあたりまえですが、平凡社や小学館、そしてブリタニカといった日本語で書かれた代表的な百科事典(エンサイクロペディア)をめくってみると、「かけ(賭け)」や「かげ(影)」をみつけることはできても、「がけ(崖)」という項目は存在しないのです(さすがにインターネット百科辞典wikipediaにはありました)。
「崖」と同じく「坂」も、「日本の名随筆」や「百科事典」には出てこない。しかし、「坂」そのものにまつわる出版物は、実は結構多いのです。もちろん個々の坂について言い伝えや伝説は数知れず、「無縁坂」(さだまさし)を筆頭に、流行歌で「坂」をうたったものもまた、即座にいくつか挙げられる。
坂は無言ながら、人を惹きつけ、立ち止まらせあるいは振り返らせる不思議な力をもつ。坂ファンないし坂フェチを生む所以(ゆえん)ですが、坂の場合は「歩く」を基本とした健康的な面が主体なので、さすがにフェチから先のフィリアまでは進行しないようで。それに較べて崖は、惹きつけられた人があるとすると、これはちょっとアブない。むしろ崖フォビア(恐怖症)のほうがまともにみえる。この本の著者は、どうも崖嗜好症(クリフィリア)という病気になりかかっていて、さらにそれを他人に伝染(うつ)したい魂胆、ご用心召され。

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江戸の崖 東京の崖 その14

たしかに「崖の上のポニョ」の崖は固い岩の崖でした。それに対して、御茶ノ水のキリギシや下総国府台の崖地、そして太田道灌の江戸城が建つ台地端斜面は、火山灰や砂泥を主体とした未固結物質の堆積層でできていたのです。
もっと言えば、こと江戸の、そして東京の崖は、それは人間がつくりだしたものでなければ、水の侵食作用が削り出した「土の崖」以外ではありえないのです。
土の崖の、侵食による後退速度に急なものがあることは、日暮里の崖や銚子の屏風ヶ浦の崖が好例でしょう。
厚い関東ローム層を主体とした、武蔵野平野の表層土壌は侵食されやすい。それが崖ならば崩壊は繰り返す。ところが、近世江戸城の基盤は、その未固結のローム層を掘り取って運び、10メートルの盛土としていました。
専門家の間では、何故か「盛土」は「もりつち」ではなく「もりど」という「湯桶(ゆとう)読み」ならぬ「湯桶言い」を原則とします。そうしてこの「もりど」の対(つい)になる言葉は「切土」(きりど)。
傾斜地を平坦にするため「盛土」された土地は崩壊しやすく、家を建てるなら本来の地形をよく調べて、せめて「切土」の上とするのが常識とされます。
江戸城の場合、その盛土する素材がローム層を掘り崩した土であるわけですから、脆(もろ)さにおいてはこの上ない条件がそろっている。
盛土をある程度固密させるには「転圧」(rolling compactionの訳)を加える。現在では重量のあるローラーカーか手動の振動機、かつては「失対」のヨイトマケ(地ならし)が転圧というか地ならし風景の代表でしょう。
古代から近世までの土壁や土壇には一般に「版築」(ばんちく)と言われる、大陸から伝わった土木技法が用いられました。
かつて加藤清正は、日比谷の江戸城石垣造営を安芸広島藩浅野家とジョイント施行するにあたり、浅野側が早々に仕上げて褒められたのを尻目に、基礎部分に蘆や茅を敷き、土砂を被せて子どもたちを遊ばせた後、
期限すれすれに完成させて笑われたという逸話があります。これには後日談がセットとなっていて、完成翌年、慶長19(1614)年の大雨で浅野の石垣は基盤から崩れ、あらためて城づくりの名手清正の見識が話題となったというのです。
「子どもたち」と「遊び」いうところに伝説のミステリアス風味が効いていますが、要は基盤の乾燥と築き立てに許される限りの時間をかけたということでしょう。
ましてそこが日比谷入江を埋め立てた場所であればなおさらのことでした。
江戸城本体においても、土留めの石垣基盤には念を入れた施工があったと考えられますが、盛土そのものについてはどうだったでしょうか。
もしそのままであれば、たとえ土壌流出がおきなくとも、時間の経過とともに、沈下は至るところで出来したでしょう。当然ながら盛土面にも、入念な突き固め作業が加えられたと考えてよいのです。
このように、「天地創造」まがいの「土地創造」を敢えてしてつくられた徳川江戸城でしたが、高温多雨のモンスーン地帯、かつ関東ローム層地のどまんなかに位置するがゆえに、その基盤の堅固さには限界がある。
ちなみに近世江戸城の石垣が崩壊するほどの地震は、寛永5年、同7年、正保4年、慶安2年、元禄16年、宝永3年、安政2年の7回を数え、そのうち最大のものは元禄16(1703)年の地震で、震源は房総半島南端沖合約25キロメートル、
推定マグニチュード8.2。平川口から入った梅林坂の石垣が崩壊したといいます。
近代に入って、関東大震災では二重橋の奥、土手が崩壊した伏見櫓の修復工事中に、土中から直立した人骨が現れて大騒ぎとなった事件が思い起こされますが、なに、あれは人柱ではなくて、近世江戸城以前にそこ(局沢・つぼねさわ)にあった寺院の埋葬地跡に掘りあたっただけの話。
現世的(フィジカル)なテクノロジーと智恵を搾(しぼ)って、辛うじて生き残ってきた戦国末期武士たちの念頭に、迷信ごとは二の次か刺身の山葵(わさび)程度のものだったでしょう。
しかしながら近世版築も、普請担当藩の施行技術を競った石垣も、当然ながら自然の力の前には決して安泰ではない。ただし最大の近世城郭江戸城が皇城(戦後は皇居と改称)であるかぎり、石垣の維持修築に当面不安はないと言うべきでしょう。
明治4年、写真家横山松三郎によって撮影された旧江戸城の写真は、修復差しおかれた城やその石垣の、荒涼として風化に傾いた様を記録しています。
もちろん石垣は、保護被覆であると同時に化粧面ですが、それはあくまで「崖」の一部。
そうして、たとえ硬質の岩盤台地といえども、自然の営力、そして時の力の前に立たされれば、その姿をいかほどに誇ることもできないのです。
ヨーロッパは西の涯、アイルランドのゴールウェー湾に浮かぶアラン諸島、別名アラン島は、イニシュモア、イニシュマーン、イニシィアの三つの島からなっていますが、すべて石灰質の岩盤が氷河に削り出され海上に残された島。
その島における人間の生活は、岩盤を砕き、海藻やわずかの粘土と混ぜ合せて「土をつくる」ことからはじまったといわれます。
イエス・キリスト山上の垂訓何をかいわんや、彼等はその家を岩の上に据えるほかに術(すべ)をもたなかったのです。
そのなかでも最大の観光場所とされるのは、イニシュモア島の「ダン・エンガス」。海面から120メートルの高さにそそり立つ断崖絶壁。
ここには約2000年前、ケルト時代のものといわれる環状石積の城塞遺跡があって、驚くことにその半円はすでに侵食によって海中に没し去っていたのです。
自然の力に抗する人の営為が途絶えれば、岩そのものといえども永くその存在を保つことはできないのでした。