では、「一丁目」を付したのは誤りだったとして、「南神保町十番地」だったらどうなるのか。その位置を拡大図で確かめてみましょう。
この「10」番地を今日の地図で見ると、靖国通り南側の「北沢ビル」の辺りに相当するようです。
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先の近江屋板江戸切絵図に照してみると、どうでしょう。
現代図と比べるために、天地を逆にして、切絵図の一部を拡大します。
左側、田安門先の九段坂を下って、牛ヶ淵の北に沿い、靖国通りは俎板橋を渡ってまっすぐに東に向かうのですが、ご覧の通り切絵図にはそもそも貫通する通りがない。
けれども九段坂から「マナ板橋」のラインを延長すると、「裏シン保小シ」に連結してさらに東に向かう。
つまり、「裏神保小路」が後の「靖国通り」の一部となると言ってよさそうです。
そうして、「神保伯耆守」屋敷はこの「裏神保小路」ではなく、その南側の「表神保小路」に面していて、「一ツハシ通小川丁」と「雉子橋通小川丁」で東西に画されたブロックの一部、松平紀伊守屋敷の裏側にあたるのでした。
この位置関係を明治の番地図に落してみると、神保屋敷は「南神保町」ではなくて「一橋通町」の八番地辺になるでしょう。
さらにこれを現代の地図に引きうつせば、そうですね、「さくら通り」の南側、岩波書店本社ビルの西側あたりに該当する。
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