7月 17th, 2009
【古地図を旅する】 本の街・神保町徘徊 その5
『神田文化史』に紹介されている神保家の由緒書によれば、「小川町」(おがわまち)がというものが古くから存在し、そこから新たに「神保町」(じんぼうちょう)が分岐した、あるいは「神保町」は「小川町」の一部である、つまり「小川町」は「神保町」を含む広域地名である、ということになります。
地名というのはやっかいなもので、そもそも、なぜ「おがわまち」であって「おがわちょう」ではいけないのか。逆に、「じんぼうちょう」は「じんぼうまち」ではいけないのか。いくつかの原則があげられるようですが、索引をつくる身になってみれば、現旧の「町」の「よみ」ほど確認に手間どるものはほかにありません。
けれどもとにかく、現在では「小川町」は駿河台下に一丁目から三丁目、「神保町」はその西隣に一丁目から三丁目が存在し、今日ではそれぞれ頭に「神田」を冠(かぶ)せられている。
つまり、「小川町」と「神保町」は、地名としては同格の別物である。
ちなみに、現在の神保町をとりまく近隣地名をあげてみれば、小川町の北には「駿河台」(するがだい)、反時計廻りに「猿楽町」(さるがくちょう)、「西神田」(にしかんだ)、「三崎町」(みさきちょう)、「九段北」(くだんきた)、「九段南」(くだんみなみ)、「一ツ橋」(ひとつばし)、「錦町」(にしきちょう)ときて一巡する。
このうち、旧神田区を示す「神田」を頭に付けるのは、先にあげた小川町と神保町のほかに、錦町がある。
現在、地表平面に同格で並んでいるこれら「地名」も、その来し方を時間の地層に探ってみれば、また別の相貌を露出するかもしれません。
そうして、人間も建物も、現在ほどひしめいていたわけではない近代以前にあって、地名が指し示す地域の範囲は、あるいは漠然とし、もしくはおおらかで、そもそも「住所・地番」という微細な土地所有あるいは行政区画表示は存在しなかったという事実も、「地名の時間」を探る場合には念頭におくべきでしょう。
ともかくも小川町が神保町を含む広域地名だとして、しかしながら今度はその小川町自体が、『御府内備考』では、元来が三崎村付属の「田畑」で、江戸開府後幕府の鷹匠(たかじょう)が多く住んだために「元鷹匠町」と呼ばれ、元禄6年(1693)9月11日に「小川町」と改称されたとされているのです。
先に挙げた『神田文化史』の記述とは大いに矛盾する。なにせそこでは「小川町」が長禄すなわち太田道灌時代からの地名だと主張している。けれどもその根拠が示されているわけではない。