JR東日本は国分寺市の要請を受けて、2017年3月4日から国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディーを変更した。
国分寺市のサイトでは以下のように説明する。

JR国分寺駅・西国分寺駅を発車する「中央線」・「武蔵野線」の発車メロディを、JR東日本八王子支社のご協力を得て、国分寺市ゆかりの曲にしました。
国分寺市は日本を代表する作曲家である信時潔(のぶとききよし)氏が半生を過ごした地です。その間、現在も歌われている数多くの曲を創作する傍ら、地域に根差した活動も行っていました。その一つに、国分寺市立小中学校の校歌作曲があります。15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌が、信時氏により作曲されました。約6万人の子どもたちがこの校歌を胸に刻んで卒業しています。
この度、信時潔氏の功績を称えるとともに、地域活性化も図るため、地元商店会等の要望を受け、代表曲である「電車ごっこ」と「一番星みつけた」を中央線の発車メロディとして選定しました。

「電車ごっこ」は1932年(昭和7)に「文部省唱歌」として登場し、戦後しばらくも口ずさまれた、「運転手は君だ、車掌は僕だ、あとの四人は電車のお客・・・」というあの歌である。
作詞は文部官僚の井上赴(いのうえたけし)。
なぜ運転手が僕でなく君なのか、疑問を起こさせるところが面白いといえば面白い。

しかしながら信時の代表曲といえば、文句なく「海ゆかば」である。
この曲はいわゆる戦後世代はほとんど知ることがないが、戦時中このメロディーはラジオで頻繁に流され、それは「玉砕」報道にはつきものの軍歌、否、戦時歌謡だったのである。

しかしながら最近では、インターネットのyoutubeなどを見ると少なくないサイトにこの曲がオンされ、「第二国歌」「準国歌」などという惹句が付されて、一部の(若い?)人々の間でもてはやされている、らしくもある。

「海ゆかば」の歌詞は、奈良にあった山戸(ヤマト)部族政権の軍事担当家系に生まれた大伴家持がつくった「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首」(『万葉集』巻18)の一部で、以下の末尾「と異立て」を省略した部分である。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て

凄惨な敵味方死体散乱の光景を、奴(ヤツコ=ドレイ)のマゾヒズムに転嫁させた詞と言っていい。

信時が作曲したのは、日本政府が1937年(昭和12)に国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲で、NHKの嘱託を受けたためという。
指定された歌詞を相手に、信時はたじろぎ苦心しつつ曲をひねり出したと思われる。
それならば「死屍累々だが、死ぬは本望」などという、顚倒しグロテスクでさえあるこれらのことばを「国民精神総動員」歌詞としてもち出した者は誰か。

勇壮な出だしと高揚のあと、曲はあっけなく尻切れトンボに終わる。感動が尾を曳く前にぽきりと折れ、音はさっと切り上げられるのである。もちろん指定された音数の規定性によるのだが、東アジア太平洋戦争における二ホン軍緒戦の勢いとその後の急速な敗退を象徴した観がある。

坂口安吾が言うごとく、戦後特攻隊の生き残りは「闇屋」になった者もすくなくなかったろう。
死ぬためにではなくて、生きるためにである。
大城立裕の短編「夏草」にみるように、死への誘惑を棄て、実際にカバネ累々の地上戦を生き延びた沖縄の人たちもいるだろう。
それまでの「当為としての死」は否定され、戦後の価値は「生きる」ことそれ自体に存在した。

戦後70年を経たいま、高齢化社会、高福祉社会への疑念と否定的情念が、戦後的価値を揺るがせているようだ。
死そしてそれに伴う暴力ないし殺戮へのひそかな欲望が、若い人々の意識の基底を浸潤している様子もうかがえる。
この短絡を、時の政府がまた利用せんとネット上の情報操作や印象操作に莫大なカネを投下しているフシもある。

しかしながら現政権とそのお友達グループが称揚する「美し(い・かった)日本」の正体は、この戦時歌謡が明示しているように、奇怪な死のドレイ・カルト(教団信仰)であって、ドレイたちが立たされたのは自滅への道に他ならなかった。
カルトとは結局のところ閉鎖、排他集団である。
「鎖国性が日本文化の主要な傾向であるあいだは、それによって日本は今日日本のもっている問題と効果的に取り組むことはできないでしょう」(鶴見俊輔「鎖国」1979『戦時期日本の精神史』所収)。

「日本」文化の鎖国性つまり夜郎自大は、江戸時代ではなく先の大戦時(つまり「昭和」期)に最も典型的に顕現した。
それは「万邦無比」であり、「国体」であり、「皇軍」であり、果ては「神兵」という言葉に象徴された。
これらは、劣等意識が転じた奇形な島国ナルシズムと言うことができる。
言い換えれば一億総カルト化(「転向」)であるが、その「空気」による強制力は、危機や衰亡の兆しに比例するのである。

1995年に「国民の祝日」となった「海の日」は、1876年の明治天皇の海路「東北」巡幸つまりは薩長による奥州制圧の完成を継承する。「海ゆかば」はその「制圧」の延長としての自滅(玉砕)歌謡であった。
ニッポン・カルト(抑圧された劣等意識)の根源にある島国性、つまり「普遍:外来×特殊:内在」の構図は、万年を単位とする地学的時間によってのみ無化されるのかも知れぬ。

One Response to “「海ゆかば」  ―グロテスクなカルト歌謡”

  1. 岩内 省on 28 7月 2017 at 11:41:29

    たいへん興味深い考察だと思いますが、まず些細な誤り?を一点。「電車ごっこ」「海ゆかば」ともに1937年とされていますが、前者は満州事変後の昭和7年版『新訂尋常小学唱歌 第一学年』に掲載された、まさにイケイケの軍国少国民行進曲、一方後者は日支事変が泥沼化する昭和12年の「時代閉塞」状況下での英霊レクイエムとして、ともに時代状況を反映しているところにこそ信時潔の「才能」を見るべきではないでしょうか。信時を安易に全否定して切り捨てるのはどうかと思います。部分と全体、木と森、A面とB面を併せて弁証法的に見る必要があるのではないでしょうか。
    「海ゆかば」について、歌詞自体は信時の作ではなく、一字一句の加除変更も容れられない所与の前提条件であり、さらに戦意高揚の趣旨から長調をも半ば強制されながら、短調にも勝る荘重な悲歌、鎮魂歌に仕上げたところは歴史状況からもプラス評価できませんか。私は「君が代」と併せ、ブルックナーのホ長調第七交響曲という長歌に匹敵する長調による短歌として、もちろん歌詞はダメですが、メロディーとして傑作で、歌詞抜きなら国歌、第二国歌でいいと思っています。モーツァルトの歌劇を、その歌詞が児語にも劣る故に全否定する者だけが信時を切り捨てる権利があります。つまり、今様のシンガーソングライターは詞と曲と声が弁証法的に統一した歌曲に全責任を負いますが、詞・曲分業で既成の詩詞にメロディーをつける場合、作曲家に言語の思想性を直接には問うべきものでなく、作曲家信時としては曲の音楽性のみ評価されるべきなのです。ただ、人間信時としては作曲を断るか否か、受けるなら古典詩を現時において如何に理解して語と音の弁証法を構成するかが問われ、「海ゆかば」を受けたのは指弾されざるを得ないと思います。
    赤ままの花を歌え(中野重治「歌のわかれ」)、徐州会戦を書け(火野葦平「麦と兵隊」)、アッツ島玉砕を描け(藤田嗣治「アッツ島玉砕」)と指示されてできた作品の評価は、素材となる事柄の価値でなく、結果としての作品の出来映えによって順に〇、×、△が付くでしょうが、戦犯性の判断はそれほど単純ではありません。
    また、人は歴史の制約のもとで変わるものですから一時・一事の過失・成功を断罪・称揚して固定評価すべきではありません。不来方の城跡に寝転んで空と戯れていた15の少年が長じて東海の小島の磯で蟹と戯れ、やがて花を買い来て妻と戯れ、最後は病床でココアを啜りながらテロリスト(幸徳秋水?、安重根?)の悲しい心に思いを寄せる啄木の価値は部分か全体か。多数の戦争煽動歌をものして、それを戦後の岩波版全集ではなかったことにした茂吉の『赤光』、「記憶せよ、十二月八日。この日世界の歴史改まる。」なんてはしゃいでいた光太郎の『智恵子抄』はどうする、さらには「戦犯作家」で稼いでいる岩波って何だ、と話は広がります。
    隠蔽するなら暴露してやりたいところですが、信時は「海ゆかば」を隠しているわけではないので、許してやりましょう。
    参考文献: 柴谷篤弘『われらの内なる隠蔽』(径書房,1997年)

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