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芝 道 その2

『港区史 上巻』では「吉良氏は蒔田領主で柴村は蒔田領分であった」とする。

奥州管領として陸奥多賀城に拠り足利政権奥州統治の要を担った吉良の家系は、室町から南北朝を経て戦国時代に滅亡しかかるも、足利将軍の「御一家」として武蔵国に拠点を確保する。
そのひとつが武蔵国久良岐郡の蒔田(まいた)城(現神奈川県横浜市南区蒔田町)で、築城年代は不明も 15世紀末頃裔吉良成高あるいは吉良頼康の代には蒔田の地を領有し、「蒔田御所」と呼ばれたとする(横浜市歴史博物館 『蒔田の吉良氏-戦国まぼろしの蒔田城と姫君』2014)。

「太田道灌状」には「吉良殿様御事、最初より江戸城に御籠城、彼下知を以て城中の者ども働数ヵ度合戦せしめ、勝利を得候」とあり、原註に「吉良三郎成高、公方一族、世田谷殿トモ蒔田殿トモ云」を加えるという(『新修世田谷区史』上巻)。吉良を「殿様」と尊称した太田道灌資長が主君扇谷上杉定正に謀殺されたのは、文明18年(1486)7月であった。
このころまで、吉良氏は確かな戦国領主の一人なのであった。

現在横浜市南区に横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の蒔田(まいた)駅が存在する。
そこは大岡川の右岸で地表は標高3メートル前後だが南は標高30~35メートルの高台で、川とその沖積地を眼下にする北端、現横浜英和学院の所在地が吉良氏の蒔田城跡とされる。

そうして先の印判状にもあるように、吉良氏はいつの代からかわからないものの、芝(現港区の海岸側、JR浜松町駅から田町駅付近)にも所領を具していたのである。

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