9月 11th, 2010
江戸の崖 東京の崖 その16
「ここらは昔、海だったんですってね」
歴史の仕事をしていると、こんなことばをよくきかされる。質問というよりは、確認、あるいは同意を求められる、といったほうがよいかもしれない。
私の答は決まっている。
「そうですね、ここらは、たしかに昔は海でした」
実は、どんなところでそういわれても、答えはいつもこうなる。つまり、昔は、どんなところでも海だったからだ。ただ、内心では、これは少し注釈を加えなければいけないな、と思う。
(俵元昭『港区の歴史』昭和54年)
この文章の著者俵元昭氏は、「坂学会」の重鎮。飯田龍一氏との共著『江戸図の歴史』は大冊で、これは版行図を中心に、確認できる江戸古地図をすべて調べ上げて、系統を明らかにした労作です。また氏は、長谷川伸賞を受賞し、「重ね地図」の先駆として知られる『港区近代沿革図集』の中心的編集者でもありました。その方がこのような感慨をもらしておられる。けれども、加えなければならない注釈は、本来「少し」ではとても済まない。もし、少しで済ませるなら「時代によるよ」とでも言うほかありません。
それから先の注釈は、とりわけ台地と坂、低地が複雑に入り組んでいる港区だから、「ここら」(場所)と「いつごろ」(時間)によって、ごく狭い町域でも隣り合って海と山とを変えることがある、という具合に錯綜する。
既述のように、縄文時代が流行しているらしい昨今ですから、「縄文時代にかぎって言えば」とする方法もあるだろうけれど、その時代幅は一万数千年もあり、とても江戸時代や奈良時代、というわけにはいかない。まして明治・大正・昭和・平成は、引括って「東京時代」としても150年に満たず、まだまだ短い。
「滄海変じて桑田となる」あるいは「蒼桑の変」という言い方があって、『広辞苑』(第四版)で「滄桑」(そうそう)を引いてみると、「滄海桑田(そうかいそうでん)の略。桑滄。」とあり、つづけて「滄桑の変」として「桑田変じて滄海となるような大変化。世の変遷のはげしいことにいう」としています。周囲の激変をいうのだから、田圃が海、海が田圃、どちらでもいいと言えばいいのでしょうが、こと地形のうえでは正反対。この出典について、デジタル大辞泉は「滄海変じて桑田となる」とし、儲光羲の『献八舅東帰』を挙げている。 goo辞書は、「滄桑の変」を『神仙伝』からとしている。
漢文教育で知られた石川正久氏の「漢字の世界」(112)ではちょっとちがって、タイトルを「桑田碧海」とし、『神仙伝』の話で、麻姑(まこ)という仙女が、「私は東の海が三べん桑田に変わったのを見た」と語ったことにもとづくとし、また唐の劉庭芝(りゅうていし)の詩に「己(すでに)見る松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)となるを、更(さら)に聞く桑田の変じて海となるを」と詠(うた)い、「年々歳々花相い似たり、歳々年々人同じからず」とつづけたと紹介しています。ううむ、結局どっちが先か、よくわからない。
海退かせて市街地となす「滄街」の変は、「世界でもっとも人工による改変の著しい」(貝塚爽平)東京湾にみることができます。
余談ながら埋立てと干拓は同じような結果となるけれど、造成手法と目的が異なり、一方は文字通り土水面・湿地に土砂などを投入して陸化すること、他方は水面(海面)を仕切り、水を抜き去って農業用地(水田)とすることを言う。この2語は英語では区別して対応する単語がなく、合せて動詞形をリクレイムreclaimという。ただしこの語の原意は「呼び返す」というのであって、野生というか自然界そのものである水域をドライ・アップして「文明化する」、という意味を下敷きにもっているのですね。
底生藻類やゴカイ類、アサリ、シオフキといった貝類、ヒラメやカレイなどの魚類、そして大型渡り鳥のガン類まで、「野生」の豊饒(ほうじょう)な生命をはぐくんでいた旧江戸川河口の「大三角」(おおさんかく)干潟約1平方キロメートルが埋立てられ、一大遊興場(TDL)に化けた昭和58年(1983)4月は、戦後東京湾「滄桑の変」のひとつのピークでした。干潟埋め立ては大三角だけでなく広域におよび、実際にはこの何倍もの干潟が一気に消滅しました。東京湾に「雁(かり)が渡る」ことはなくなったのです。こうした「リクレイム」が「文明化」にあたるかどうか、そもそも「文明」とはなにか、結末はあと数十年以内に露出してくるように思われます。