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敗戦と原発 ―御厨貴氏に

ベアテ・ゴードンさんは、1923年10月のお生まれだから、今年88歳。
女性の年齢を言うのは失礼にあたるが、近年は来日のニュースを耳にしないけれども、まだ矍鑠(かくしゃく)として、ニューヨークの自宅にお住まいだろう。

現在の「日本国憲法」制定作業に携わり、そのプロセスを証言する、今日では唯一の「生存者」となった。
父親は、山田耕筰に請われ東京音楽学校教授となった著名ピアニスト、レオ・シロタ氏で、ベアテさんの少女時代、一家の住まいは赤坂の乃木邸近くにあった。
だから彼女は、戦前の日本女性の、美徳も、家財道具にも等しい無権利状態も、つぶさに目にし、耳にして育った。

アメリカの大学に進み、戦争が終わるまで、日本の両親のもとに帰ることはできなかった。
厳寒の軽井沢に隔離され、やせ細った両親と抱き合った日は、1945年のクリスマスだった。

占領軍の軍属として来日した彼女は、ケーディス大佐の下でGHQの日本国憲法制定作業を担い、とりわけ第24条(「男女平等」条項)の実現に力をつくしたことで知られる。

「日本国憲法」をめぐる、あれこれの論議にはいま触れない。
しかし、憲法問題調査委員会委員長松本烝治国務大臣の案を基本とする日本政府側の「憲法改正要綱」(「大日本帝国憲法」の改正案)がGHQによって一蹴され、「マッカーサー草案」を元とした「日本国憲法」が実現したことは事実である。

日本の政治家たちは、敗戦を機にしてなお、新たな国家イメージを形成することがなかった。
旧憲法の一部手直し、可能な限りの現状維持、そして既得権維持をはかることが、目の前の最大課題になっていたからである。
もちろん「政治」は、男どもの専管領域だった。

今回の、人類の歴史に類をみない、巨大な原発事故は、第二の敗戦である。
「スリーマイル島事故の、レベル5」から、「チェルノブイリなみのレベル7」に引き上げられ、しかしその放出された放射性物質の量は「レベル7」を超える。

歴史は繰り返す、というより、日本は、日本人自身は、あの敗戦からさえ何も学んでおらず、何も変わっていなかったのだ。
パニック回避という名目の情報統制、そして後出し、日本国内でしか通用しない「暫定基準」の引上げ、といった、ご都合主義優先の陋劣きわまりない「大本営発表」は、われわれの眼前で、政権交代した「民主」党政権のもとで、いまなお腐心中である。

「発送分離」などという首相発言にもかかわらず、政府の「新成長戦略実現会議」は「原子力を最重要戦略」と位置づける。
東京、福井、青森の選挙では、それぞれ原発推進派の知事が再選された。

これだけの「敗戦」にもかかわらず、「島内空間」においては学習能力ゼロであり、ために自分の力で自らの未来をきりひらくことができないのだ。
自然災害の集中する弧状列島にあって、膨大な量の放射性物質を漏出し、拡散させている日本政府は、すでに国際的には科人(とがにん)であり、日本の原発は重要な監視対象である。

このままでいけば「日本の政治」は、「世界の孤児」となった挙句、国際管理という名の「第二の占領」が必要となるだろう。
「黒船」と「占領」は、「外圧」なしでは変ることのできない「列島政治」の象徴であった。

日本近代政治史専攻の東京大学先端科学技術研究センター教授御厨貴氏は、東日本大震災復興構想会議議長代理などという、あやふやな仕事は即座に断るべきだった。

彼の本領は、この稚にして惨な「日本の政治」の病弊そのものの解析に向けられるべきたっだのである。

One Response to “敗戦と原発 ―御厨貴氏に”

  1. モンブラン 手帳on 27 6月 2013 at 22:01:33

    そのモンブランボールペンについて、少し考察を混ぜて紹介していきたいと思います。

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