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第3の敗戦について

『週刊東洋経済』の最新号(2019年7月6日号)をめくっていて、驚いた。

特集の1は「ソニーの復活」であるが、それとは別に数ページにわたって知人が取り上げられていたからである。
数十年前、時間と空間をほんの少しの間だが共にした高橋公(たかはしひろし)。
早稲田大学本部を占拠した、ノンセクト黒ヘル集団「反戦連合」の親玉だった。
いまではすっかり好々爺、いや、水木しげるの子泣き爺(じじい)の風情。
《「地方移住」のパイオニア ふるさと回帰支援センター理事長》として「ひと烈風録」に紹介されていたのである。彼が学生運動を離れ、生活に追われながらも友人たちと「神道夢想流」(杖道)の道場を建てたこと、先の津波でいわき市小名浜の実家が流されたことなどもはじめて知った。
しかしこの高橋氏と表題の「第3の敗戦」はまったく関係がない。

関係があるのは、コラム「グローバル・アイ」のほうで、こちらは小原凡司という笹川平和財団上席研究員、元は駐中国防衛駐在官を経て海上自衛隊第21航空隊司令だった人の書いた「中国動態」である。
可変翼を備え衛星の測位データと極超音速滑空技術を駆使する中国の中距離弾道ミサイルと、従来の抑止力という概念から離陸したロシアや中国の低出力戦術核兵器に触れて戦慄的である。
またこの記事ではないが、いまやその生産および技術大国となった中国のドローンの、軍事への応用は目を見張るものがあるという。

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列島の現政権の浅慮は「防衛力」拡充に腐心邁進、標的となるばかりの空母に執着、またステルスではあっても有人事故付の馬鹿高い飛行機、それにミサイル迎撃システム(THAAD:低空飛来のドローンには無効)を、国内防衛産業への支払いを繰り延べてまで買い続ける。「赤ネクタイの大ボス」へのご機嫌取りでもあるが、リアルな認識と政治が意図的および無意識に回避され、かつて巨大戦艦に執着した愚が繰り返されている。
しかしながら今日の「戦争」は、その戦闘レベルにおいては宇宙空間のハイテク戦に軸足を移し、その防衛力レベルにおいては地表の食料自給率が命運を握っているのである。

極東の列島は、ここ1世紀以内に2つの大敗戦を経験した。もちろん第2の敗戦とは、核発電所の爆発事故とその対応処理のための悪夢のような泥沼作業、そして稼働停止にかかわらず垂れ流される途方もないそれらの保持費や解体費の現状を言うのである。

戦争も敗戦もほとんど知ることなく、いま存在するそれに気付かない人も少なくないが、それ以上に近未来の敗戦を想定しえない者は多いだろう。
標的となるのは空母めかした「自衛艦」や有人飛行機だけではない。54基の在列島核発電装置も、それら飛翔体の格好のターゲット以外ではないのである。

そうして東アジア政治のレベルにおいては、極東の島国は近代の「植民地支配」と「侵掠」の負債からいまだ抜け出すことができず、国際的な地位低下にもかかわらずいやそれ故に、過去を美化して内向きに居直ろうとする。

「アメリカの傘」も「自主防衛力」も、もはや頼みにできるものではない。現在ただひとつ確実に言えるのは、われわれがもっぱらひとりよがりあるいは美意識を頼みとするならば、その先にあるのは第3の敗戦でしかないという、冷厳な「格率」である。飢餓と核汚染のなかで「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍」ぶこと自体が不可能となるのは、そのときである。

もっとも「格率」ならざる「確率」に言い及べば、第3の敗戦のさらに高いそれとして想定される事態は、列島のメガシティとメガロポリスを直撃する巨大地震とその結果である。
この近未来に「国土強靭化」と「軍備増強」で対するならば、それは愚かとしか言いようがないのである。

One Response to “第3の敗戦について”

  1. 岩内 省on 06 7月 2019 at 15:08:42

    芳賀様、
    退職後の生活はいかがでしょうか?
    当時の記憶はあいまいで時系列は錯綜しているが、黒ヘルの高橋のアジの後景にあがた森魚「赤色エレジー」コンサートの横断幕が揺れていたのははっきり覚えている。そういう状況の下で同級生で文学部にいたT男は原作を書いた林静一に私淑してあがたの見当はずれの詞をなじっていた。さらにすごいのは同じく商学部に入ったK男は日下某教授?の会計学に心酔してあの喧噪下にもゼミに参じていた。前者は長野に帰って出版社を興し今も継続中、後者は会計士になって東証に就職、上場審査で犯罪すれすれをかわして今は中大の教授か何かに収まっている。そして高橋たちが排除されて一変した早稲田の政経に三浪して入ったN男はひたすら効率的に「優」を収集して三菱商事に入社、バブルで巨利を稼ぎ出し、今では鴻池組関連の正体不明の会社の役員として青山の社にいる。当時3号館地下で革マルが逃げ出し、オジサンのような青解やブントが戻ってきたサークル室で集められる限りのアジビラを後年の歴史資料として整理していた小生は,その作業を出発点に出版界の校正マンになっていった。
    あのバリケードの中で歌われた『赤色エレジー』(1972)、南こうせつとかぐや姫『神田川』(1973)、さくらと一郎『昭和枯れすゝき』(1974)にそのままずばりの『四畳半襖の下張』も含め、連合赤軍のあさま山荘事件から東アジア反日武装戦線の三菱重工爆破への期間、突出する「事件」の基底には、確かに四畳半文化として括れる過渡期の時代状況があった。
    あがた森魚も高橋公も当時の立場の違いを払拭して同じような好々爺の顔つきになったが、南房総に居を求めてきたある程度の異端たち、加藤登紀子&藤本敏夫、白土三平、藤原新也らも皆丸くなっているような……

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