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うたの位相 その1 

彼その終局をおもはざりき 此故に驚ろくまでに零落たり (『エレミアの哀歌』第1章9節)

以下に掲げる五七調の16行は、1942年(昭和17)11月に現インドネシアのジャカルタ(当時オランダ領バタビア。日本軍が占領)で出版された大木惇夫著『海原にありて歌へる』のなかの「戦友別盃の歌―南支那海の船上にて。」と題されたうたである。

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビアの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字星を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

このうたについて、wikipedia「大木惇夫」の項では根拠を示さず「日本の戦争文学の最高峰ともいわれる」と書いている。「も」付の伝聞体が、書いた本人がそう思っているにすぎない事情を語って笑止であるが、このうたに心揺るがせられた者はすくなくないだろう。しかしwikipediaの記述としては、もちろん失格である。
さて、次のうた(「海ゆかば」)はどうであろうか。

海行かば 水漬く屍 
山行かば 草生す屍 
大君の 辺にこそ死なめ 
かへり見はせじ

こちらは『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」の一部で、大伴家持が大伴氏と佐伯氏の家祖家系を言上げした部分である。
これに曲をつけたのが東京音楽学校教授であった信時潔で、1937年(昭和12)にNHKの嘱託を受けたものという。
しかし阪田寛夫の「海道東征」(『文学界』1986年7月)によると、「海ゆかば」には明治初期に東儀季芳が作曲した雅楽ふうのものがあり、それは「軍艦行進曲」の一部をなすという。つまり一般に知られる「海ゆかば」は戦時期の「国民精神総動員体制」用改曲であった。
この新しい「海ゆかば」は、負け戦感が濃厚となる1943年(昭和18)5月以降、大本営の玉砕(全滅)ラジオ発表の冒頭曲とされて人口に膾炙し、戦時中は「第二国歌」ないし「準国歌」とも称されたという。
「戦友別盃」同様(戦時期の日本列島と旧植民地の、そしてそこからアジア大陸と太平洋島嶼に散開させられた)人心の多くにくい込んだうたで、「日本人によって作られた名曲中の名曲」という評もある(新保裕司『信時潔』2005)。

しかしながらいずれの「うた」も、まだ大戦緒戦の景気のよい時期につくられたにもかかわらず印象は暗く、悲壮というよりも悲愴な「無理やり」感がある。新曲「海ゆかば」の最終部「かへり見はせじ」の唐突急激な高揚部はとくにそうである。

それは Wir müssen sterben (われわれは死なねばならぬ)、つまり自分あるいは他者の死を絶対的に強制する戦争という極限状況にあって、それを諦念とある種の高揚感で無理やり受け入れ、生への執着を断ち切らんとする不自然で奇怪な心性を前提としているからである。
「戦友別盃」の最終行は「雲」という自然現象を引き合いに、「黙々と」運命に従うことが指し示される。
これはほとんど「阿Q」(魯迅)の論理であり、奴隷の心性であって、心理的にはマゾヒズムと等価である。

ある者は「海ゆかば」をして「決して「勝利」への行進曲ではない、「偉大なる敗北」の歌である」と言う(同前)。しかし「敗北」に「偉大」を付けて美化するとすれば、結局のところ「精神勝利法」と変わるところがない。

One Response to “うたの位相 その1 ”

  1. 岩内 省on 17 7月 2019 at 16:21:00

    芳賀様、
    信時潔については貴ブログ2917.7.25の激越な『海ゆかば』弾劾にやぶにらみコメントを寄せて歌詞は不可だが曲(メロディー)は可としたいようなことを述べました。
    今回は歌詞自体に責任を負うべき大木惇夫と〔その詞に曲を付けたことは非難されても〕歌自体には責任のない信時を並列評価したのはいささか錯誤的に感じますが、それはともかく大木についてもすっぱり「これって好戦歌でしょ!」では済まされない問題があると思います。信時が勝っていれば『電車ごっこ』のマーチを、負けて戦死者が出ると『海ゆかば』のレクイエムをつくり分けられたのと同様に、大木は白秋真似の抒情詩から出発して戦争詩に狂い、浪江村で「終戦」を迎えて戦犯詩人として冷や飯を食わされた後は再転反戦平和主義で広島平和公園の「祈りの像」に鎮魂詩を刻み、一方「大地讃頌」が中・高卒業歌の定番になるまでの揺れ幅が同一人の中でどう統一されているのか、普通人の私にはわかりません。西田佐知子が鎮魂歌『アカシアの雨がやむとき』の翌年『コーヒールンバ』を踊り、数年後には耽美歌『赤坂の夜は更けて』と目まぐるしく変身するのは芸能人という着せ替え人形による商売と見れば納得できますが、曲がりなりにも芸術家とされる人間には……。
    実は大木自身と長男新彦(原子力関係学者)は文献上の人ですが、3人の娘さん(と言っても末娘も78ですが)とは多少実人生を見ていました。長女は松本清張の名義を借りて「現代史の会」を主宰した藤井忠俊氏と結婚、文春編集者を経て今は北九州市の松本清張記念館館長をしている康栄(やすえ)さんで、しばらく一緒に『季刊現代史』の編集を手伝っていました。次女は中公初の女性編集長の名を馳せた宮田毬栄さん(高齢出産の息子浩介さんは英語詩人?)、この人は敷居が高すぎて覚えていただけるほどの交誼は得ていませんが、大部の『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』(中公新社、2015)は未読ですが大木を語るには必読でしょう。三女の章栄(ふみえ)さんはいきさつは失念しましたが深夜一人で私の下宿に来るような変わった女性でしたが、後年なぜか早大で私の一つ下で横浜市職員になった平凡な?吉本信一郎という男と結婚して吉本章栄として現在に至っていますが、大木あまりという俳人として知られています。作品はやはり奔放で、たとえば「花こぶし汽笛はムンクの叫びかな」とか。
    3人とも父親の女性遍歴に比して実生活は実直堅実ともいえますが、夫に対して自分の世界を確保している点は家庭を顧みず「芸術」に没頭した父の気質を引いているのかもしれません。
    なお、先のコメントでは触れ忘れましたが、信時の『海ゆかば』の評価については、山東功『唱歌と国語―明治近代化の装置』(講談社選書メチエ、2008)が末尾で「唱歌と国文法の絡み合った歴史の戦前の到達点」という趣旨の評価をしています。ぜひご参照ください。
    ところで、オリンピックやスポーツの式典では「国家演奏」と称して管弦のみの歌詞抜きなので選手がアップで移されると実に醜く「もごもご口」になっています。一方、甲子園で勝者の栄誉を称える「校歌演奏」は必ず男声斉唱ですよね。『海ゆかば』が玉砕放送のBGMだったことは知っていましたが、迂闊にもそれはメロディーだけだったのか、歌詞付きだったのか確認していません。私はオケだけだと思い込んでいたので、貴説のごとく「人口に膾炙」するはずない、せいぜいハミングだろうと思ったのですが……。

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