「坂」の上の雲
1970年1月に初版の出た、横関英一(よこぜきひでいち)氏の『江戸の坂 東京の坂』を嚆矢として、現在まで20点を超える、江戸ないし東京の「坂本」が刊行されています。
もちろん、改訂版や文庫版化を計上しての数字ですが、2年に1冊という点数は、おおむね東京山手線内という狭いエリアについての記述であることをかんがえると、むしろ異常に多いアイテム数とみてよいのです。
日本人は、と敢えて一般化して言いますが、好きなのですね、坂が。

対して海外では、起伏に富んだ都市として知られるサンフランシスコやリスボン、ナポリですら、坂道が固有名詞をもつとは聞いたことがない。
坂はストリートないしアヴェニューの一部、傾斜地形の特定部分にすぎないのであって、傾斜部だけを取り出して名辞やら物語やらを付与するエートスは、どうやら日本語世界に特有のもののようなのです。

しかし、江戸っ子がとくに坂好きであったかというと、かならずしもそうではない。
それもそのはず、天下の総城下町における工商階級の住まいは、武蔵野台地下の沖積地にあったのですから、そこ(下町)に坂は存在しえない。
台地の上のお屋敷町や寺社には商売やお使いで、あるいは遊山に際し上り下りするものであって、江戸っ子の日常のランドマークは「橋」。坂はまずもって、他所(よそ)の土地の、単純に傾斜のきつい場所という認識でした。
そうして、今日と大きく異なるのは、傾斜地に武家屋敷や商家、まして住宅が建つことはなかったから、台地と低地の境界領域である坂は人気(ひとけ)のない場所。つまり坂は好まれるどころでなく、むしろ難儀な、厭(いと)うべき、「地形の特異点」だったのです。
坂が文字として現われた初例が、「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」(『古事記』)であったように、警戒すべき変異(シフト)地点に付与されたのが、この地における坂名の発生でした。

ところが、明治時代に入ると、坂と坂名のもつ意味合いは逆転というほど大きく変化していきます。
それはもちろん、封建城下町であるがためにエリア閉塞を原則としていた江戸が、一転して個々にひらかれてゆく過程と軌を一にしていたわけですが、長きにわたり徒歩か駕籠か、せいぜい騎馬程度だった列島上の陸上交通が、馬車を手始めに戦後のモータリゼーションに至るまで劇的に変転し、それにやや遅れつつ、坂自体のかたちも急激な変容を見せはじめるのです。

さらにまた、そのひらかれた首都に、「偉く」なりたいあるいは「一旗」上げたい若者たちが列島の隅々から続々と「上京」します。その多くが住まうのは、台地というよりも文字通りの山の「手」。旧武家屋敷地一角の借家か下宿で、つまり坂になじんだ台地縁辺の仮寓でした。
だから、その青雲の志の成否如何が、坂の上下というトポグラフィックなありようと照応し合う心理構造が形成されるのは自然の成り行きでした。

つまり、坂が一種独特の、過剰な思い入れをもつ「地形」として活字に登場するようになるのは、明治期以降の出来事といっていいのです。
そのもっとも極端な例は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という作品タイトルでしょう。「登って行けばやがてはそこに手が届く」と思われた「近代国家の理想」あるいは「理想の近代国家」は、昨今はしなくも露呈したように、よじのぼった先にあって、届くはずもない幻の存在だったと気づいたとすれば、それは痛切きわまりない逆説でした。かつて山村暮鳥が北関東の地から「おうい」と呼びかけた白い雲は、行先定まらぬ汚染源に転じたのです。

さて、司馬は「国家」の現在・未来にまつわるイメージを「坂」になぞらえたわけですが、それとは逆に、個々の「来し方、行く末」つまり人生過程を坂に重ねる方法が存在していて、どちらかというとこちらが一般的でした。

(以上は、日本地図センター発行『地図中心』2012年1月号、通巻472号掲載文の冒頭部。このあと「無縁坂」「坂の文化史」「坂の生成と構造」「竪の坂・横の坂」「盛土坂」「複合坂、そして橋梁坂」とつづく)

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