collegio

評林 白泉抄11

「敗戦」を「終戦」、「占領」を「進駐」、果ては「事故」を「事象」と糊塗するごとき「精神勝利法」(『阿Q正伝』)の亜流に異ならず、大陸はいざ知らず斯くの如き欺瞞今日の列島に通用せること怪しき様なり。然れども当1945年(昭和20)、32歳の白泉「終戦」と前置し次の句をものしたり。

新しき猿又ほしや百日紅

此の句につき、銅版画家にして詩人なる橋本真理その著『螺旋と沈黙』(1978、大和書房)に「埒もない木登りをしては失墜する猿に天皇制を託した暗喩」の誤読を認(したた)む。而して中村裕氏「その読みも可能だ」と誤釈を肯んぜり。曰く「「猿又」は、「猿股」と「猿、又」の両様の解釈ができるようにこれをつくったのではないだろうか」と(『疾走する俳句 白泉句集を読む』2012年、70頁)。

然(さ)り乍(なが)ら此れ全くの誤読なり。敗戦当座列島世相は「神州無敗」「大日本帝国教(カルト)」崩壊に茫然自失、解離症に陥りしこと、俳壇の大ボス高浜虚子の「秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ」てふ無惨なる終戦句に明らかなり。そも「新しき猿」とは何ぞ、新種の猿人ならんか。「国体」すなはち「天皇制」護持され、退位もせず、「失墜」もとよりなし。白泉斯の如き政治少年少女の「深読み」と元来無縁なり。

「猿股」は江戸時代より列島に着用ありし男子の短ももひきにて、当句においては「娑婆」の象徴なり。その対極にありしは陸海軍入営時1人3本給さる「制服」越中褌(ふんどし)にて、当褌を含め官品紛失は営倉ものにて候ひき。「猿又」(=猿股)は、1944年6月横須賀海兵団に応召入隊、函館黒潮分遣隊にて敗戦の「玉音」を耳したる白泉の胸中に湧き上がりし「物象」に他ならず。

然してサルマタよりサルスベリに直行する駄洒落諧謔、日本教(カルト)の愁嘆場を無化、脱化、茶化して余りあり。これひとり生理或は生活上の皮膚感覚を梃に「終戦」に対し得たりと言はざるべからず。「大衆の原像」(吉本隆明)なるものありとせば斯かる諧謔にこそ其の裳裾を見ん。「8・15」を率直と卑近に現前せしむ名句と存じ候。 

【関東造盆地運動 Kanto basin-forming movement】
 関東平野の中心部が第三紀末以後、とくに第四紀に盆状に沈降し、平野周辺が隆起してきた地殻運動。1925年に矢部長克は関東平野の段丘面の高度分布や平野周辺の鮮新世―更新世の地層の傾きから関東平野は一つの構造盆地と考え、関東構造盆地(Kanto tectonic basin)の名を与えた。これは日本の陸上では最大の曲降盆地であり、それを埋めた堆積物により関東平野が形成されている。
 地質学的研究によると中新世の沈降帯は関東平野の西縁を南下して三浦半島・房総半島南部に続いていたが、鮮新世には黒滝時階の変動以後沈降の中心が房総半島中東部に移り(上総層群の堆積で示される)、その後さらに北西に移動して更新世中期には東京湾の東北部に位置し、関東造盆地運動とよぶのにふさわしい形となった(下総層群の堆積で示される)。下末吉面の高度分布によると、更新世後期には沈降の中心が東京湾北部と古河付近に生じたことがわかる。どうしてここに造盆地運動が生じたのか、またどうして沈降中心が移動したのかは明らかではないが、ここが東北日本弧と伊豆―小笠原の夾角にあたることや、この地域の南のプレート境界とみられる相模トラフがあることと関係があると思われる。なお関東造盆地運動による中心部の沈降速度は、更新世を通じてほぼ1m/1000年であった。(貝塚爽平執筆項目。町田貞ほか編『地形学辞典』1981)

「盆地」ねえ。
「地形」は地表を見ていただけではわからない。
 建築系の景観論者のダメさ加減は、「見えている」「現在」への依存度に拠る。
 地形は地下にもとづき、さらに海につづく。否、海からつづく。
「関東造鉢(ぞうはつ)運動」のほうが、言葉のイメージとしては適切だ。
「基盤岩」をたどれば、関東平野全体が浅鉢のかたちを成していることがわかる。
逆に言えば、最深部で地下3キロほどにある基盤岩の層をイメージできないと、この概念は理解できないことになる。
 今日放映のテレビ番組(テレビ東京「車あるんですけど」2017年7月30日)の「絵」を見ていてそう思った。
「盆地」では、イメージは地表の「凹凸」で止まってしまって、肝心のところまで思考が及ばないのである。
 ただし「東京の地下3000メートル」は沈降の中心部の基盤岩までの深さなのであって、その上に乗る「上総層群」や「下総層群」はずっと浅いところにある。番組では説明不足でした。
 江戸・東京は沈降の中心だから岩がない。崖があるとしても窪みにたまった土の崖だから、岩に彫り付ける「磨崖仏」も存在し得ない、というメッセージは伝わったかな。

 もっとも、番組中最大の失態は「アカテガ二」のことを「ベンケイガニ」と言ってしまっていたことだが。
 彼女、あがっていたのかな。
 車のなかでは耳にタコができるほど「アカテガ二、アカテガニ」と言っていたのに、どうして間違えるかな。
 収録後の「編集」でトチッたかな。
 他のカニとくらべて標高が高いところに棲息するアカテガニこそ、「猿蟹合戦」の主役なのです(これは私の説)。

 番組の最初のほうで私が言った「崖は動く」というテーマは、日暮里と銚子屛風ヶ浦で説明する仕掛けを考えていたのだけれど、屛風ヶ浦に車が着いたときはすでに日が暮れていた。
 投光器を使って撮影はされたが、結局カットされてしまった。
 まあいいか、そこまで言うと私だけが「立ちすぎる」からな。

 今度は単独でアカテガニに会いに鵜原まで、またちょっと足をのばして、崖地形の名勝「おせんころがし」まで行ってみよう。安房勝浦はおもしろいな。隆起と侵食でできた「風隙」(wind gap)もたくさん見られるようだし。

JR東日本は国分寺市の要請を受けて、2017年3月4日から国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディーを変更した。
国分寺市のサイトでは以下のように説明する。

JR国分寺駅・西国分寺駅を発車する「中央線」・「武蔵野線」の発車メロディを、JR東日本八王子支社のご協力を得て、国分寺市ゆかりの曲にしました。
国分寺市は日本を代表する作曲家である信時潔(のぶとききよし)氏が半生を過ごした地です。その間、現在も歌われている数多くの曲を創作する傍ら、地域に根差した活動も行っていました。その一つに、国分寺市立小中学校の校歌作曲があります。15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌が、信時氏により作曲されました。約6万人の子どもたちがこの校歌を胸に刻んで卒業しています。
この度、信時潔氏の功績を称えるとともに、地域活性化も図るため、地元商店会等の要望を受け、代表曲である「電車ごっこ」と「一番星みつけた」を中央線の発車メロディとして選定しました。

「電車ごっこ」は1932年(昭和7)に「文部省唱歌」として登場し、戦後しばらくも口ずさまれた、「運転手は君だ、車掌は僕だ、あとの四人は電車のお客・・・」というあの歌である。
作詞は文部官僚の井上赴(いのうえたけし)。
なぜ運転手が僕でなく君なのか、疑問を起こさせるところが面白いといえば面白い。

しかしながら信時の代表曲といえば、文句なく「海ゆかば」である。
この曲はいわゆる戦後世代はほとんど知ることがないが、戦時中このメロディーはラジオで頻繁に流され、それは「玉砕」報道にはつきものの軍歌、否、戦時歌謡だったのである。

しかしながら最近では、インターネットのyoutubeなどを見ると少なくないサイトにこの曲がオンされ、「第二国歌」「準国歌」などという惹句が付されて、一部の(若い?)人々の間でもてはやされている、らしくもある。

「海ゆかば」の歌詞は、奈良にあった山戸(ヤマト)部族政権の軍事担当家系に生まれた大伴家持がつくった「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首」(『万葉集』巻18)の一部で、以下の末尾「と異立て」を省略した部分である。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て

凄惨な敵味方死体散乱の光景を、奴(ヤツコ=ドレイ)のマゾヒズムに転嫁させた詞と言っていい。

信時が作曲したのは、日本政府が1937年(昭和12)に国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲で、NHKの嘱託を受けたためという。
指定された歌詞を相手に、信時はたじろぎ苦心しつつ曲をひねり出したと思われる。
それならば「死屍累々だが、死ぬは本望」などという、顚倒しグロテスクでさえあるこれらのことばを「国民精神総動員」歌詞としてもち出した者は誰か。

勇壮な出だしと高揚のあと、曲はあっけなく尻切れトンボに終わる。感動が尾を曳く前にぽきりと折れ、音はさっと切り上げられるのである。もちろん指定された音数の規定性によるのだが、東アジア太平洋戦争における二ホン軍緒戦の勢いとその後の急速な敗退を象徴した観がある。

坂口安吾が言うごとく、戦後特攻隊の生き残りは「闇屋」になった者もすくなくなかったろう。
死ぬためにではなくて、生きるためにである。
大城立裕の短編「夏草」にみるように、死への誘惑を棄て、実際にカバネ累々の地上戦を生き延びた沖縄の人たちもいるだろう。
それまでの「当為としての死」は否定され、戦後の価値は「生きる」ことそれ自体に存在した。

戦後70年を経たいま、高齢化社会、高福祉社会への疑念と否定的情念が、戦後的価値を揺るがせているようだ。
死そしてそれに伴う暴力ないし殺戮へのひそかな欲望が、若い人々の意識の基底を浸潤している様子もうかがえる。
この短絡を、時の政府がまた利用せんとネット上の情報操作や印象操作に莫大なカネを投下しているフシもある。

しかしながら現政権とそのお友達グループが称揚する「美し(い・かった)日本」の正体は、この戦時歌謡が明示しているように、奇怪な死のドレイ・カルト(教団信仰)であって、ドレイたちが立たされたのは自滅への道に他ならなかった。
カルトとは結局のところ閉鎖、排他集団である。
「鎖国性が日本文化の主要な傾向であるあいだは、それによって日本は今日日本のもっている問題と効果的に取り組むことはできないでしょう」(鶴見俊輔「鎖国」1979『戦時期日本の精神史』所収)。

「日本」文化の鎖国性つまり夜郎自大は、江戸時代ではなく先の大戦時(つまり「昭和」期)に最も典型的に顕現した。
それは「万邦無比」であり、「国体」であり、「皇軍」であり、果ては「神兵」という言葉に象徴された。
これらは、劣等意識が転じた奇形な島国ナルシズムと言うことができる。
言い換えれば一億総カルト化(「転向」)であるが、その「空気」による強制力は、危機や衰亡の兆しに比例するのである。

1995年に「国民の祝日」となった「海の日」は、1876年の明治天皇の海路「東北」巡幸つまりは薩長による奥州制圧の完成を継承する。「海ゆかば」はその「制圧」の延長としての自滅(玉砕)歌謡であった。
ニッポン・カルト(抑圧された劣等意識)の根源にある島国性、つまり「普遍:外来×特殊:内在」の構図は、万年を単位とする地学的時間によってのみ無化されるのかも知れぬ。

声大き人は恐ろし夏の月

掲句は2017年7月9日(日曜日)の「東京新聞」1面左上の「平和の俳句」欄に掲載されたもの。
津市の田中亜希紀子さんの作。

季語「夏の月」は、日中の暑さをようやく逃れたシンボル的な扱いであるから、東京で言えば先週のうるさい選挙期間が終わってほっとした様子を想起しても見当はずれではない。

しかし、ラウドスピーカーでの絶叫連呼が象徴するのが「選挙戦」で、それがこの列島の「民主主義」の根幹に設定されているとすれば、あまりに素寒貧、というよりこれ以上の反語はない。

なぜならば、大きい声は、反デモクラシー(反民主主義)のエートス(習俗)にほかならないからである。
そうして、「論破」という行為も同じく、デモクラシーの破壊習俗である。

19世紀頃まで日本列島に遍在していたデモクラシーの根幹は村の自治であり、「寄合」であった。
それは人々が膝を交え、声高を抑え、事実と論拠を持ち寄り、何日もかけて合意を形成する、おそらくは縄文のムラからつづく「習俗」であった。

ネットによく見かける《論破する技術》などという手合いは、最初から聞く耳をもたないのであって、結局は相手を「言い倒す」暴力の謂いなのである。
このようなギャングは初手から相手にしないのが、「オトナの社会」である。

だから、いまだ見たこともなく、これから見る気もないが、「朝まで生テレビ」のような声高論破の見世物が受けるとすれば、それは檻の内と外が逆転している芝居のような書割社会にならず、見物人が座っているのは檻の中に設えられた衆愚桟敷なのである。

ついでに言えば、JR山手線ラッシュ時ホームの耳を覆うような拡声は、「東京コドモ国家」の象徴である。

collegio

評 林 ・ 白 泉 抄 10

資 料 在 処 に 赴 け る 折 な き た め 、 以下暫く は 中 村 裕 氏 『 疾 走 す る 俳 句 白 泉 句 集 を 読 む 』 の み に 依拠 し て 概 述 せ ん 。
や は ら か き 海 の か ら だ はみ だ ら な る
中 村 氏 句 尾 に「 昭 和 一 〇 年二 十 二 歳」と 付 記 す 。 無 季 17 文 字 に La Mer の 官 能 如 述 し て 余 り あり 。

こ の 歳「二 ・ 二 六 事」前 年 、 明 後1937 年7月7日 盧 溝 橋 、12 月8 日 南 京 と「皇 軍」遮 二 無 二 大 陸 に 侵攻 し つ つ 翌38 年4 月1 日 国 家 総 動 員 法 を 公 布 す 。 列 島 根こ そ ぎ 駆 り 立 つ「空 気」横 溢せり 。

日 の 丸 の は た を 一枚 海 に や る は1936 年 の 作 に て 、「海」卒 歳 の うち に そ の 官 能 を 蔽 ひ 隠 し 、 つ い と「は た」一 枚 を 呑下す るの み 。 そ れ 試 み に「や ( 遣)」り し 者 は 白 泉 な り 。

此「日 の丸」句 、「 太 郎 さ ん が ゐ る 世 界」てふ連句なり。 前 に は 折 る ふ ね は 白 い 大 き な 紙 の ふね 、 つ づ く は 兵 隊 が 七 人 海 に 行 進 す と 。

太郎 と は 西 東三鬼 の 長 男 な り 。 然 し 乍 ら三句 並 べ ば 次 第 に 近づ く も の を 見 る 。 柿 と 書 籍 戦 場 ま ぼ ろ し に青 き38 年 の 句 作 に て 、 こ の 年 ま で 戦 火 対 岸 の観 あ り し か 。 然 し て 無 際 限 に 広 が る 青鈍色 の 水 塊 夥 し き 鉄塊 と 人 肉 骨 を「藻 屑」に す る ま で 幾 何 も な き。

前項について知人から投稿があって、カリーズではなくて「カレーズ」と習ったとのこと。
ウィキペディアをみると、カナートはカーリーズ、カナーともいい、北アフリカではフォガラ、ハッターラ、カタラと称し、ウイグル語で カリズ、中国語では 坎児井(カンアルジン、甘粛省等)となる、らしい。
呼称の地域変化について、理解するのは結構難しい。

ところでカフェ・カリーズの床窓から覗くと、地下のスペースに1メートル弱四方の木の井戸枠が設置されていて、その中に塩化ビニールのパイプが突っ込んである。小型の電動ポンプで汲み上げ、「御茶の水」としているらしい。被圧地下水が湧き上がってくるわけではなく、あくまで汲み上げる水である。震災による停電でポンプが機能しなくなった時は、ロープ付バケツでも放り込んで地表まで水を引き上げるほかに方法はないだろう。そのバケツの水は、脇に置いてある脚立兼用のアルミ梯子を使って1階まで持ち上げられて、ようやく使える水となるのである。「サライ南麻布」はたしかに井戸付マンションだが、手動ポンプ付でないところが泣き所だ。

「井戸水」には、重労働がついてまわる。昔は「水」を使える状態にする作業が日常生活で大きなファクターを占めていた。水汲みと水運びにどのような労度が費やされたかは、現存する「まいまいず井戸」に行き(青梅線羽村駅の近くにある)、石ころだらけの渦巻き路をたどって底に降り立ち、また地表に上ってみてようやく予想がつくのである。

「阪神大震災」以降、大都市のライフライン破断は回復までに最低1月を要すると考えるのは常識となった。電気、水道、ガス、下水のうち、比較的早く復旧されるのは電気である。これは長くて1週間から10日。上水道は2週間から1カ月以上。都市ガスは1カ月から2カ月をみておくべきだろう。下水施設は、地盤が液状化すれば完全復旧までにどれだけかかるか予測がつかない。

現存しかつ稼働中の手動式の井戸ポンプは、大地震から10日ほどは「お宝」以上の存在となるのである。

ところでカフェから仙台坂を麻布十番側に渡れば、すぐそこは名刹麻布山善福寺の参道。左右に塔頭が並ぶなか、右手中ほどに柳の木が立ち、その足元に伝説の「柳の井戸」はある。

013.jpg

井戸とは言うものの自然の湧水で、しかも都心にはまことに稀な現役の湧き水。チロチロとではあるが、絶え間なく水は流れ出している。
参道正面、段丘崖の斜面を開削して境内とした善福寺の背後の台地上には、巨大キノコに似た「元麻布ヒルズフォレストタワー」(地上29階地下3階、2002年竣工)がそびえるが、湧水は辛うじて命脈を保つ。
95年前(震災)や72年前(戦災)は、トウトウ(滔々)に近い水量だったはずだ。
少なくない数の人が、この水で命をつなぐことができたという(傍に立つ港区教育委員会の標識による)。

015.jpg

地元「山元町会」の「かわら版」(2017/6/8)によれば、「柳の井戸」は現在10秒間に約1.5リットルの湧水量があるという。こうした地元市民による測定、計量はまことに重要にして貴重である。
一方、日本地下水学会のウェブサイト「都内湧水めぐり」は、柳の井戸の湧水量は降雨条件(季節)によって変化するが、2011年4月13日の測定では1分間に5リットルとしている(http://www.jagh.jp/content/shimin/images/wakimizu/20111002/arisugawamiya.pdf)。この数字は10秒では0.83リットルに相当する。
両者を勘案して、仮に10秒1リットルの値とすると、1分で6リットル、1時間では360リットル、1日で8,640リットルの水がひとりでに地表に噴き出しているのである。
国連は「人間らしい生活」のために必要な最低限の上水量(1人1日あたりの飲用を含む生活用水の量)を50リットルとしているというが、その数字を用いれば、柳の井戸の湧水量は約173人分に相当する。

けれども現在、行政が災害断水時に配給を予定しているのはとりあえず「飲料水」のみで、それも1人1日あたり3リットルなのである。それも基本的には区、市にそれぞれ2、3ヶ所ほどしか存在しない「災害時給水ステーション」に足を運び、何時間も並んでようやく手に入れられる(かどうか)という水である。
トイレ用水を筆頭とする生活上の雑用水の対応については、区や市それぞればらばらの対応で、実質用意なきに等しいかきわめてプア―な面が見受けられる。各地から給水車が駆け付けたとしても、巨大な首都圏人口に対しては「焼石に水」に近い状態となろう。
これに反して、都の水道局が発表している、都民1人あたりの、現今の水道水消費量は、1日平均約219リットル(トイレや風呂、洗濯、調理、洗車、ガーデニング用の水を含む。一般的なバスタブは約200リットル)と莫大である。
3リットルと219リットルの間にある目の眩むような落差、そして「その時」の対応を日常感覚の延長(normalcy bias)と個々の備蓄や自助に委ねる構図の背後には、戦前戦中、敗戦直後の日本の亡霊が透けて見える。

人、いや生きものすべての存在の根幹にかかわる「水」に関して、実態はかくの如しである。仮に「避難所」に頼るとしても、自分や家族の生病老死が懸かる(「分配」などをめぐっての)トラブルや諍い、心身の動揺や疲弊に無縁であることはできないだろう。その時まかせ、あるいは行政や役人の想定や対策・計画に任じたままでは、生存すら危ういと肝に銘じるべきだ。
「首都圏」では、「そのとき」に220リットルの10分の1、つまり1人1日22リットル(大きなペットボトル11本分)でも確保できれば不幸中の幸いと言うべきだろう。しかしこの水量では、悪くすれば死に至る「トイレ我慢」が伴うのである。

とまれ、マンションに地下水を利用できる「井戸」が備えられているとしたら、それも手動のシリンダーポンプ付深井戸だとしたら、お宝以上の「まことの幸い」なのである。

collegio

井戸カフェ・井戸マンション

「カリーズ」というと、何か新規な事柄かと思ってしまうが、なんのことはない高校時代に地理で学んだ「カナート」のこと。
アフガニスタンやパキスタンあたりではカリーズと呼ぶらしい。
砂漠地帯の「地下水道」で紀元前から存在し、長さ数十キロにおよびものがあるという。
カナートは古代ペルシャ帝国の繁栄の根幹に存在していた。
それにくらべると、わが神田上水や玉川上水などは文字通り「ひよっこ」の類。

でカリーズだが、南麻布仙台坂下に「カフェ・カリーズ」という「400年前」つまり仙台藩下屋敷時代の井戸の水を使ってお茶をたてている喫茶店がある、という記事を仙台市のサイトでみつけた。
こちらも仙台藩士の末裔だし、井戸は現今の主題であるので、ともかくも行ってみた。
http://www.city.sendai.jp/tokyojimu/shise/tokyo/masamuneko/shimoyashiki2.html

055.jpg

「地下水コーヒー」の旗が立つ、ガラス張りの新しいお店。
同年配と思しきママさんは、おしゃべりな若者を相手にしていたが、こちらを向くと「テレビで見たの?」とのたまう。
何度もテレビ取材を受けているらしい。
「テレビは棄てたので」というと、何やら不要領な顔。
ともかくもお茶を頼んで、床面のガラス下に見える井戸を撮影させてもらった。

062.jpg

紅茶は香り高く、結構おいしい。
注意すると床ガラス窓の貼紙に「伊達政宗下屋敷の湧水井戸 麻布の地下水 This spring water has been flowing from underground for over 400years」とある。
現韓国大使館敷地を含む南麻布の一画が仙台藩の「麻布本村屋敷」となったのは1661年であるから、1636年に死去した藩祖の名を出されても困るし、井戸も400年はオーバーにすぎる・・・。

店内を見まわしていると、ママさんに自家製らしい印刷物(無料)を勧められた。
手に取れば、六本木・麻布を中心にした各国大使館案内地図である。
ただし右下に「文明の恥じ(ママ)とは何か」というコラム記事入りで、そこで老子とレーニンと荒尾精を並列推奨しているのには恐れ入りました。
裏面はさらに念が入って、タイトルに「日本の近代・現代160年を辿る」とある。
店名の由来、参勤交代、何故麻布に大使館が多いのか、産業革命と植民地から黒船来航までが日英両文並記。
下辺欄外に「老いの青春音読の勧め」(¥350)、「認知症の家庭対策SOSリング」(価格表示なし)の広告入りである。

支払いの折に井戸について尋ねたが、結局以下のようなことらしい。
この地所はお連れ合いの自邸敷地で、8年前にビルに建て替えるときに掘ったら井戸が出てきた。
その水を使って、カフェは8年前からやっている。
かつての家の裏手には大きな古井戸があった。
建替で埋めたが、神主を頼んだ。
使っている井戸の水面は地表下10メートルで、水深は不明。
台風などの大雨時には井戸口から水が溢れるという。

なぜ「カナート」でなく「カリーズ」としたのかは、訊き洩らした。

ネット検索では、ビルの名は「サライ南麻布」、2010年1月竣工。
10階建ての高級賃貸マンションで、18戸が入居している。
カフェやちらし、貼紙のことはさておき、案ずるに、「サライ南麻布」は入居者にとってまことに心強い「(防災)井戸付マンション」なのである。

collegio

縄文の月や岬に貝の水

035.jpg

昨日2017年6月4日の東京はおだやかな晴天の日曜日。
東芝エレベーターのPR誌「FUTURE DESIGN」(季刊)の連載記事取材で、いつものように和服の堀口茉純さんとスタッフ計4人、田町駅から品川駅まで歩いた。

高輪を通る古東海道(尾根道)と海食崖をテーマとして案内したのだが、どうでしたろうか。

一応、私が堀口さんの「師匠」という想定になっているらしい(彼女が文章でそう書いている)のだが、だとすればまことに心もとない師匠である。
なにせ相手は殺陣や日本舞踊をきわめ、江戸文化歴史検定(1級、ガイド資格も有り)、実用英語技能検定2級,中国語検定3級,ドラえもん検定博士号で、あの膨大な『徳川実記』は何遍も通読している(らしい)つわもの。
検定や資格に縁ないというより試験や勉強が嫌いな当方としては、足元を見透かされているような気分である。

ともかくも、午後1時、田町駅の喫茶店ルノアールで集合、打合せして出発。
ルートは

札の辻→元和キリシタン殉教碑(住友不動産ツインビル、ラ・トゥールの奥の斜面緑地内)→御田八幡神社脇の階段(比高14.3cm×100段)→亀塚公園→三田台公園→高輪大木戸跡→幸田文旧居跡(三井家跡地:現NTTデータ三田ビル本館下)→高輪牛町標識(願生寺門前)→高輪二丁目16番地の崖(撮影ポイント)→泉岳寺(門前のカフェ・ゴダールの甘酒で休憩)→伊皿子坂→承教寺(二本榎の碑、英一蝶墓、「件」の狛犬)→ブーランジュリーセイジアサクラ(パン屋。カレーパンなど購入)→高輪消防署二本榎出張所前(高輪原の古戦場?)→桂坂→洞坂→東禅寺→高輪公園→品川駅

最後は品川駅近くの喫茶店ルノアールでまとめ。ルノアールにはじまりルノアールに終わったが、ルノアールの絵にはついに無縁。

亀塚公園は古墳あり、『更級日記』の竹芝伝説の地とも言われ、お隣の三田台公園には縄文時代の貝塚の剥ぎ取り展示や住居の説明展示もある。
タイトルに掲げた拙句は、三田台公園にちなんだもの。「季刊」雑誌であるため、秋の季語(月)とした。
このあたりは潮見崎・袖が崎・大崎・荒蘭崎・千代が崎・長南が崎と並び、江戸七埼のひとつ「月の岬」の地。
縄文時代のある時期までは2、3㎞先の崖裾を波濤が崩し、江戸時代には水平線から月が上るのを目にし得たのである。

もっともうれしかったのは、華頂宮邸敷地であった折の井戸が現役で三田台公園に存在していたことである(写真上)。
説明板(写真下)には、水面まで7.5m、水底は12mと。
台地の尾根筋にしつらえられた浅井戸だが、水はいまでも十分に汲み上がる。
関東大震災の折には大変役に立ったという。
現在、行政が管理する手動井戸の注意書きには「飲用不可」が一般的でこの説明も同様だが、その後に添えられた但し書きのほうはまことに適切である。
036.jpg

collegio

訂正

本欄5月10日の《「メガシティ」におけるマンションと井戸》で紹介した「国分寺マンション防災井戸について」(「マンションニュース第44号」)の「はじめに」の部分「提案は同事業として取り上げられることなく、「地域連携事業として別途継続検討とする」旨の回答があっただけでした。これと比較しても、実に果断な措置と思います」は、今般東京経済大学創立120周年記念事業の一環として「防災井戸の掘削」が掲げられたことが判明したため、「提案は同事業として取り上げられましたが、それに比べても俊足果断な措置と思います」と訂正します。

防災井戸(手動の井戸)付きマンションは、昨今珍しいものではなくなったらしい。
マンション不況時代、それを売りものにする業者が出現するようになったからである。一部では、新築マンションは防災井戸設置が「標準仕様」とまで言われるようになったという。浅井戸であれば、井戸を設置する費用はマンションの広告費ぐらいにしかならないからだ。
兵庫県加古川市や埼玉県川口市などでは、住人たち自身でマンションに井戸を設置した例もある(朝日新聞2015年3月23日夕刊「高層マンション地震に備え井戸」)。

地表における代表的な「変動帯」に位置する日本列島中心部、世界に冠たるメガシティ(巨大都市圏)のマンション住民にとって、実はそこに井戸があるかないかは、文字通り死命を決する重大な岐路なのである。
私の棲むマンションは、駅前億ションの走りで、バブル期に中古で買ったばかりにいまもローン支払いに苦しんでいる。
しかもそこは自主管理で、法人格を得、土地についても事後的にであるが取得したというきわめて注目されるマンションなのだが、以下は私が住人として書いた文章である。
これは幸い私の意図通りに「マンションニュース」に掲載されたが、現実に井戸が掘削されるかどうかはわからない。
しかし、21世紀初頭日本列島キャピタルシティの、一マンションの記録として、とりあえず掲示しておく。

         ★          ★           ★

マンションニュース第44号用 国分寺マンション防災井戸について

はじめに
 憶えておられる方も少なくないと思いますが、私が国分寺マンション管理組合総会において、電気に頼らない手漕ぎの「防災井戸」の設置を提案したのはたしか2年前、2015年春の総会だったと思います。今般「マンションニュース第43号」2017年5月9日号で、国分寺マンションの地下防火用貯水槽を利用して、手漕ぎの「井戸用ポンプが設置」されたことを知りました。
総会提案から数えて2年、まことに迅速な対応で、それを実行された管理組合理事会と関係者の皆さん、それを牽引された理事長に対し、あらためて敬意を表するものです。
 私が勤める東京経済大学でも、創立120周年記念事業として地域の震災対策用浅井戸(手漕ぎポンプ)の設置を提案しましたが、提案は同事業として取り上げられることなく、「地域連携事業として別途継続検討とする」旨の回答があっただけでした。これと比較しても、実に果断な措置と思います。

シミュレーション
 さて当防火用貯水槽の規模は、同ニュースによれば長さ14m×幅3.5m×深さ2.1m=102.9㎥=102.9トンといいます。1トンは1000リットルですから、国分寺マンションの地下防火用貯水槽は約10万リットルの貯水能力があるわけです。いま10万リットルの水が確かに貯水されているとして、震災時にどれだけ役にたつか、シミュレーションをしてみましたのでご紹介します。
 仮に震災時のマンション居住者数を200人とし、この貯水槽から1日1人あたり少し大き目のポリバケツ(10リットル)3杯の水を供給するとします。
 10万リットル÷30リットル÷200=16.666・・・ですから、約17日間つまり2週間プラス2、3日は今回設置された「ポンプ」の水が役にたつ計算になります。
 この1人1日30リットル、また200人という値については、それが妥当かどうか議論があるところと思いますが、水洗トイレの1回の洗浄水量は、古い型で13リットル、近年の節水型で6リットルが一般的であることを考えると、あながち外れた設定でもないでしょう。
そうして、この防火用貯水槽の水の用途は、ほぼトイレ用水に限定されるのです。なぜならば、地下の防火用水貯水槽の溜り水ですから水カビなどが繁殖していることは確実で、飲用水としてはもちろんのこと、洗面、洗濯、掃除のための生活雑用水としても、まず使えないと思っていいからです(生活雑用水には、各戸の風呂の残り水―バスタブ満タンで約200リットル―を利用すべきでしょう)。

計算の大前提と大地震直後の排水系統確認について
 ただし以上の計算には留意すべき大前提があって、それは❶消防用貯水槽が満タンであった場合、❷消防用水として使用されなかった場合、❸地震によるコンクリート水槽の亀裂漏水が起きなかった場合、という3つの「場合」をクリア―してはじめて可能な数値であるということです。
 これらの条件が満たされてはじめて、断水中のトイレ用水については2週間はまず大丈夫ということになります。逆に言えば、その期間の飲用水と生活雑用水については、すべて各戸の備蓄水ないし公共機関の災害給水施設に依存することになりますが、さてどうでしょうか。
人口約3500万人が集中する世界最大のメガシティ(巨大都市圏)にあって、緊急時の公共機関の水供給が実際にどれだけ可能かについては、未知の領域に属する事柄です。ちなみに1人1日あたり生理的に必要な水分の最低補給量は2~3リットルと言われています。では、首都圏の大地震による断水はどれくらいの間つづくと考えればよいでしょうか。
 ところで、大地震直後のマンションの最大の懸念事項は、給水よりもむしろ排水系統のパイプのズレや破断が起きていないかどうかという点にあります。大地震直後のマンションでは、一時すべての排水系統を使用禁止とし、状態点検後に使用可能な部分からそれを解除していかなければなりません。したがって、トイレやキッチンの水使用については、一時的に地階に集中する事態を想定しておくべきでしょう。いずれにしろ「井戸端」は国分寺マンションの場合、地階に出現せざるをえないのです。

震災経験と被災想定
 さてしかし、そもそも断水状態がどれくらいの範囲で何日つづくかは、とりわけ広域で巨大、それもコンピュータ制御のシステムに全面的に依存している首都圏では想定がむずかしく、「起きてみないとわからない」とすら言われます。
 それでも一応の指標はあり、都の「首都直下地震等による東京の被害想定」(最新版)は、上水道のライフライン復旧には「阪神・淡路大震災以降に発生した既往地震災害時には、いずれの地震時にも断水被害の復旧に1カ月以上を要している」と記します。ちなみに下水道については同様の1カ月とし、ガスに関しては「1~2カ月程度」と約2倍の復旧期間が示されています(74ページ)。
 さらに、立川断層地震におけるライフライン被害総括表では、国分寺市の上水道断水率については、68.7%とかなり高い数値が示されている点は要注意でしょう(172ページ)。
 以上の被災想定は、6年前の3月11日の東日本大震災における本格的被災エリアのうち最大の都市域であった仙台市(人口約110万人)における被災経験に関する、私の聞き取り調査にも符合するものです。
 首都圏を襲う大地震においては、すくなくとも断水は1カ月間つづくことを前提に、私たちはものごとを考えなければなりません。飲用水にかぎって考えてみても、公共機関の災害給水ステーションが稼働していて、全国から給水車が駆けつけ、給水量が十分と仮定しても、何時間も行列して待つことやそれに伴うトラブル、それなりの距離を往復して水運びする労力を避けるわけにはいきません。しかしマンションに「本物の井戸」の備えがあれば、水を得るために地階(自転車置場)に下りまた上る労力だけで済むのです。

結論 ―これからのことおよび経費について
 繰り返しますが、今回の国分寺マンション地下の消火用貯水槽井戸設置はまことにありがたく、トイレ用水に関して一安心できる施設ができたことを率直に喜びたいと思います。しかしながら、以上のシミュレーションと想定に照らすならば、今回の「ポンプ」設置はあくまで暫定措置と考えるべきであって、大地震に対応できるものでないことは明らかです。
「本物の井戸水」は地下水です。その量や用途には原則として制限なく、飲用にもそのままあるいは加熱すれば十分に役に立つのですから、これに優るものはないのです。そうして「本物の井戸」は、実質的な「コミュニティ」を生み出す源でもあるのです。
 土地取得で注目を浴びた国分寺マンションが、今回の「ポンプ」設置から一歩すすめて防災用の本物の井戸を持つとなれば、注目度はいやがうえにも高まり、実際的な価値は測り知れないものとなるでしょう。
 ニュースでは「井戸の掘削には相当の費用がかかる」として具体的な数字を示していませんが、2年前に私が業者見積もり(複数)をとった例から言えば、掘削およびポンプ設置の経費は、地下15mの場合200万円、同40mで300万円ほどと見込まれます。
 国分寺マンション管理組合理事会におかれては、是非「本物の井戸」の実現に努力していただきたいと思います。場合によっては募金や出資によってでも、それを実現するべき価値ないし必要性はあると思われます。

2017年5月10日

« Prev - Next »