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世田谷の地面から「江戸以前」の余薫が零(こぼ)れ出る。
時空と地形にわたる、ひとり街歩きのモデル誕生!
古地図・旧版地形図計32点、写真57点を収載。

谷山敦子 著
ISBN978-4-902695-36-6 C1025
A5判 180ページ 地図・索引付
並製 本体2000円+税

目 次
1 鉤の手と寺院の配置  ―世田谷新宿と矢倉沢往還         
2 楽市のころ ―続・世田谷新宿と矢倉沢往還
3 用賀口を過ぎて ―三本の矢倉沢往還の盛衰を測る                        
4 常盤塚を過ぎて ―四本の芝道を考える            
5 塚めぐり ―「境界」への小さな旅                
6 此岸と彼岸をつなぐ橋 ―熊野信仰の空間を行く
7 そして熊野神社は残った ―熊野先達満願寺と檀那吉良氏
8 坂の太子堂 ―善光寺聖の足跡を訪ねる 
9 武士の城館と道と川 ① ―洪水に流された?木田見館
10 武士の城館と道と川 ② ―地侍大平清九郎の天地
11 生と死をめぐるトライアングル ―北沢川流域の生と信仰
12 続・塚めぐり ―「境界」への小さな旅、再び          
付 街道と並木の話
                  
あとがき
参考文献
索 引

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怪しい地図記号 その4

怪しい地図記号(触角+黒窓付四角)から触角を取り去った黒窓付四角の記号は、輯製二十万分一「東京」の1906(M39)年図では停車場を表していた。「国有鉄道法」は1906年の3月31日公布で、地図は同年11月30日の発行であるから、「東京」図における地図記号の変化は法と連動していたとみるのが自然である。
この年、日本列島上の主要な鉄道(レール)や汽車・列車のみならず駅舎も改札口も「国有物」となり、職員は官員となった。
だからそれ以前の1888(M21)年図では、記号の様相はまた違っていたのである。
下掲はその一部だが、鉄道に関連して3個所に黒窓付四角が描かれている。

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右上、不忍池の東側の「停車場」と右下は新橋の「停車場」、それぞれ山手線の当時の「終点」に、黒窓付四角が見える。そして形は多少異なるものの、左下「中渋谷」近くにも黒窓付四角を指摘できる。
上野と新橋はターミナル(終端)を表したものと推測できるが、この渋谷付近の記号は何をあらわしたものか。ちなみに東京駅(計画では「中央停車場」)の開業は1924(T13)年、最後まで残った未接続上野-神田間が開通して現在の山手線が環状運転を開始したのはその翌年で、この図の37年後である。ついでに触れておくならば、東京駅東側の八重洲口の開設は1929(S4)年のことであった。

実は上掲範囲外の「東京」図幅には、ターミナルの黒窓付四角記号は横浜停車場にも描かれている。当初の横浜停車場は現在の桜木町駅の位置にあり、後の東海道本線に対して小脇に突き出した盲腸のような存在となった。この当時、列車は横浜停車場でスイッチバック運転を行っていたのである。
そうして渋谷型の黒窓付四角記号は、北から順に蓮田、上尾、大宮、赤羽、王子、板橋、目白、大崎、大森、川崎、戸塚、藤沢の各停車場と目される位置の鉄道記号の片側、すなわち左右ないし上下のいずれかに見出すことができる。
つまりこれは当時の停車場そのもので、鉄道記号に付された位置は改札口のある側を表したものと考えることができる。当時停車場の改札は、原則1ヵ所だったのである。だからこの記号そのものは、四角は建物を、黒窓は出口をあらわしたものと推測できる。そうしてよく目を凝らせば、内藤新宿の青梅街道と甲州街道の股の内側に、ほんの申し訳程度であるが、停車場はたしかに描かれているのである。

『地図記号のうつりかわり』には、渋谷型の記号は鉄道等の節の迅速図式に「小憩場」、仮製図式に「停車場」とあり、また明治28年式の項を見れば、今日に一般的な旗竿式鉄道記号の中央に白い四角で駅を表わすのはその時以降であるとわかる。近代初期は、地図記号も試行を重ねた時期で、それ以降に埋もれ、忘れ去られた記号類も少なくなかったのである。

すくなくとも「東京」図幅に関するかぎり、1888年図では、ターミナル以外の停車場は線路をあらわす「旗竿」記号(白黒だんだら)の改札口のある側に外付するかたちで表現されていたが、1906年図においては停車場はすべてターミナル型に変わり旗竿線の中央に位置するようになった。それがやがては今日に一般的な白の横長四角に変化する記号変化のプロセスが存在した。それは言うなれば停車場の具象型から、より抽象化された駅記号への歩みであった。
ちなみに、鉄道が白黒交互の旗竿式で表わされるのは明治24年式からで、旗竿の「国鉄」、ゲジゲジ状の「私鉄」の区別は昭和30年式からと『地図記号のうつりかわり』には記載されている。南海鉄道(現南海電鉄)は国有化されることなく最古の私鉄として知られるが、輯製二十万「和歌山」の1941年(T3)発行図を見ても、路線記号は国有鉄道と違いのない旗竿式である。「明治24年式」図式に発するとされるこの独特の旗竿式記号の由来について同書にとくに注記はない。
巷間には鉄道建設測量の標尺(ポール)や国旗掲揚の旗竿(白黒だんだら)に由来するといった説があるようだが、地図記号としては同年式の鉄道の「建築中」を示す記号、つまり節付二条線(梯子ないし竹棒状)とのセットで、その開通区間は節ひとつおきに墨入れすれば原板をそのまま利用できるという利点があったと思われるのである。
鉄道国有化1906(M39)年、国鉄分割民営化は81年後の1987(S62)年、JRは今や民間企業で「私鉄」にほかならないのである。今や旗竿式は「怪しい地図記号」と化した。意味不明の地図記号を旧套墨守する必要は、さらさらないのである。

一方ターミナル型の停車場記号全盛期、とは言ってもそれは列島の近代地図史上一瞬のことに過ぎなかったが、「国鉄駅」記号に陸軍所轄を表す「М」を被せて旧陸軍施設を表そうとしたのはどのような意図が存在したかは依然として判然しない。ただしすべての停車場をターミナル型で示した輯製二十万分一「京都及大坂」(1908年再版)図には、大坂城の東に「М」の記号を付し、南に「練兵場」と文字記載するのみで、触角付の怪しい地図記号は見つけることができないのである。

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怪しい地図記号 その3

前回並べて明らかになった地図記号のエボリューションだが、それはあくまでも「陸軍兵営」を示した「旗」である。
実は陸軍そのもの、というより「陸軍家屋」ないし「陸軍所轄」を表す記号が存在し、それ自体が「進化」していたのであった。
以下の通り、上から順に「迅速図式」、「仮製図式」および「測図図式」、「明治24年式」~「昭和17年式」である。

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さて、ここに至ってようやく本項「その1」の冒頭で示した「怪しい地図記号」に立ち返ることができる。
つまり、かの記号の上半分「仮面ライダーの触角」にあたる図形は、上掲なかばの「М」字にほかならないことが判然とするのである。
しからばその下の黒窓付箱型は何であるかといえば、これがいまひとつわからない。

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上掲は輯製二十万分一図「東京」(1888:M21輯製)図の一部で、現在の北区赤羽付近である。
3本の道のうち、真中は二条線のうち片側が太く描かれた国道で中山道、板橋宿から分岐するのは二条線の県道川越街道、東側で鉄道が沿い赤羽と岩淵を通るのは県道の旧日光御成道である。
岩淵や赤羽に見える斜線付き丸記号は「(人口)五百(人)以上」の「村落」を示しているが、岩淵の丸から南西、中山道本蓮沼(単純な丸記号は「五百以下」の村落)の北に向かう一条線(里道)の途中に、中野で見たのと同様の「怪しい地図記号」が鎮座している。
『新修北区史』(1971年)によれば、これは「明治五年ごろ武庫司によって建設せられた火薬庫を前身とする」「陸軍火薬庫」で「約三万四千百坪の地積を有していた」という。中野犬小屋は約16万坪というから、犬小屋の方が5倍以上広かったのである。明治末期の地形図によれば、旧陸軍火薬庫の位置は現在の北区桐ヶ丘1丁目全域に相当するようだ。

『中野区の歴史』(1979年)は、その犬小屋跡について「明治三〇年(一八九七)に初めて陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵営がこの地に創設された。そして交通兵旅団司令部も置かれたが、その後、鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称した」と記す。

さてもうひとつ、実は本項その1で示した1906年図の右下、「中渋谷」の文字に接して「怪しい地図記号」が存在していた。この位置は当時の代々木練兵場ないし衛戍監獄(陸軍刑務所)にあたる。衛戍監獄だとすれば現在の渋谷区役所および神南小学校の場所である。

結局のところ「仮面ライダー」触角下の黒窓付四角形は、陸軍施設ではあるもののその類別を特定しないということになる。
すでにお気づきの向きがあるかも知れないが、触角を取り払った「黒窓付四角」は「怪しい地図記号」の右下「なかの」停車場を示す記号にほかならず、「於ほくぼ」「しんじゆく」「しなのまち」「しぶや」も同様の記号で描かれているのである(本項その1の1906年図参照)。

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怪しい地図記号 その2

1909年つまり明治期の終り近くからある間隔をおいて大都市部に作成された、1万分の1地形図のシリーズがある。20世紀末のバブル期以降は作成されなくなった地形図群だが、日本列島都市部約100年の変遷を詳細に語るきわめて貴重な地図資料である。
以下はそのなかの1枚、1909年(M42)測図東京近傍19面のうち「中野」図幅の青梅街道中野本郷付近である。

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中央を東西に走るのはもちろん青梅街道で、図の上辺には桃園川の谷が水田化されているのがわかる。
中央やや西寄りに宝仙寺がみえ、また図の東寄りに「宝仙寺三重塔」として知られる江戸時代初期に建設された塔(戦災で焼失)が記載されているが、これについては後に触れるとして、ここで指摘しておくべきは宝仙寺の境内に描かれた丸印は、中野町の町役場であるということに関してである。

右下の「本郷」や左上の「仲町」という字が示す通りここは中野の中心地で、江戸時代には高札場も置かれていた。当然ながら明治期には、町役場から青梅街道をへだてた南側に、郵便局も設置されたのである。
この図では丸の中に〒の地図記号が見えるが、前述『地図記号のうつりかわり』によれば、「明治42年式」では丸に〒は「郵便電信(電話)を兼る局」の記号という。

1888年(M21)の輯製二十万分一図「東京」図では、丸に一本棒の中野の郵便局記号は青梅街道の北側に付されているが、そこは道路ではなく集落記号の「宿駅市街」(「(人口)一千(人)以上」)で閉塞されているから、道の北も南もなくともかくも「このあたりに郵便局あり」の表示なのである。

さて、肝心の「怪しい地図記号」であるが次の図をご覧いただきたい。

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この図は上掲図の北に接続する「新井」図幅の一部である。
ここでは東西に走行するのは青梅街道ではなく中央線(甲武鉄道は1906年(M39)に国有化)で、鉄道線路の白黒だんだら記号は真ん中に細線入りだから、もう複線化されている。

地形図では真っ先に地形のことに触れておきたいので言うのだが、図の右端、鉄道線の北側に見えるのは桃園川の支谷である谷戸川の谷頭部で、「田」の記号につづいて「濶葉樹林」が描かれ、谷最先端の窪地は中野停車場の北まで伸びている。また図の右下は桃園川本谷、左下は別の支谷で、それぞれ「田」記号が付されている。

さて、中野停車場北からその西側にかけての一帯長方形の区画内に、「電信隊営」と「気球隊営」の文字が並んでいる。「気球隊営」の左下に「圍」(かこい)の文字があるが、これは江戸時代17世紀末から18世紀はじめにかけて存在した「中野犬小屋」地区の記憶をとどめたもので、現在中野サンプラザから中野区役所、そして明治大学と帝京大学の中野キャンパスが広がる一画は広大な「御囲」ないし「御犬囲」だったのである。

ここで問題にしたいのはそれぞれの「隊営」文字の頭に掲げられた「へ」の字の旗で、これは陸軍兵営を表している(「明治24年式」から「昭和17年式」まで共通)。
ところがこの「へ」は、それ以前は少しひしゃげた「М」ないし山形が二つ並んだ形で(「仮製図式」)、さらにその前は山形が三つ並ぶ旗(「迅速図式」)だった。それを時系列的に並べれば以下の通りとなる。

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初期の複雑型から省略型に向かった、記号シンプル・エボリューションの典型である。
この記号の場合、「へ」の形は「陸地」ないしそのシンボルとしての「山」を表したものと見ることができる。

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怪しい地図記号 その1

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上掲は陸地測量部の地図に実際に使用されている地図記号だが、これまで誰も触れたことがない。
「建設省国土地理院監修」と銘打った『地図記号のうつりかわり ー地形図図式・記号の変遷ー』(編集発行日本地図センター)が刊行されたのは1994年の春(年度末)で、それは旧日本陸軍(陸測)・現地理院系の地図記号を図式年度別に網羅した労作(索引がないのが残念)だが、そこにも見当たらないのである。

古い地形図の類を丹念に見ていくと、上掲にかぎらず旧陸測図にも今日知られざる地図記号が時々見つかることがある。

さてこの地図記号、上部の角が昆虫の触角めいて「仮面ライダー」の顔を想起させ怪しい雰囲気であるが、その正体や如何に。
この記号の出典は下の図であるが、どこにあるか多分すぐお分かりと思う。

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輯製二十万分一図「東京」(1906:M39修正)図の一部

「輯製二十万分一図」は旧陸軍の陸地測量部が日本列島全域をはじめて地図にしたもので正式測量以前であるからかなりラフな内容を特徴とするが、そのうち首都圏部分は二万分一の迅速測図をもととしているため例外的に描図が精細である。
この図でも細かいケバ方式により、段丘面の開析谷やその谷壁がよく示されているのを見ることができる。図の左下(南西)から図をほぼ二分するように北上し、上端で妙正寺川と合流(落合)するのは神田川である。
内藤新宿で分岐するのは甲州街道と青梅街道。甲州街道は玉川上水が沿う尾根道で、方や青梅街道からは五日市街道が分岐しているのがよくわかる。

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輯製二十万分一図「東京」(1888:M21輯製)図の一部

上図の18年前である。
五日市街道はこの図では一条線の「里道」記号で描かれているが上図では二条線の「県道」であるから、この間に「昇格」したらしい。ちなみに青梅街道も二条線の県道、それに対して甲州街道は二条線の片側が太い「国道」であるのは変わらない。
一方、鉄道は1885年に開業した日本鉄道の品川―赤羽間支線(現山手線の一部)は見えるものの、甲武鉄道(中央線)はまだ描かれない。甲武鉄道新宿―立川間の開業は1889年(M21)だから、この図の翌年である。
たとえば青梅街道北の桃園川の谷を念頭に両図を見比べると、鉄道が描かれることによって地形表現がどれほど駆逐されたかがわかるだろう。
怪しい地図記号も存在しないけれども、桃園川谷と青梅街道(尾根道)の間、「中野」の「中」の文字の右下に、下掲のような地図記号が記入されている(上図では鉄道記入のためか、この記号が存在することは確かだが一部消えかかって明瞭ではない)。

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これは怪しいと言っても正体は明示されていて、『地図記号のうつりかわり ー地形図図式・記号の変遷ー』では「郵便局」とし、その註に「郵便運送馬車や郵便収集車の旗の図案」と書いてある。しかしそうだとしても旗の図が何故このような「ひとつ串団子」なのかわからない。
ネット情報によると、この記号はそもそも白地に赤の太い横線を伴った大きな丸で、郵便配達員の制服や制帽、旗に用いられたものらしい。左右赤帯付の日の丸とは、日本列島右行き左行き(右往左往)ということなのか、結果として1884(M17)年の太政官布告により、これが正式に「郵便徽章」と定められた。
お役所徽章が地図記号と相成ったのだが、「明治24年式」からは一目で理解できる角封筒のマーク(✉)に変えられたのである。折角の改正であったものが、「明治42年式」にこれまた理解不能の〒マークに変えられて現在に至る。

「2020オリンピック」を契機に、この日本列島ひとりよがり記号〒を✉に変えようとする動きもあったが、それもうやむやとなった。現代にひきつがれたひとりよがり地図記号はこのほかにいくつも挙げらる。インターネットサイト「意味不明!覚えにくすぎる「地図記号」、どうしてこうなった!?」などで指摘されているのがその代表例だろう。
非常口マークを代表とする屋内外のサインやシンボル、ロゴマークと異なり、地図記号はかつては旧軍が、現在は役所が「告示」するものであるため合理性の検討に欠け、逆にそれを伝統として誇るような傾きをもつのである。古い地図記号のいくつかは、サインデザインの専門家や市民のパブリックコメントの点検を経て、生まれ変わる必要がある。

さて郵便がなぜ〒なのかといえば、それは1887年の逓信省告示で「本省全般の徽章」とされたからという。これまたお役所徽章であるが、その由来については逓信省の「テ」からという説ほかいくつかあって、確定していない。逓信省は郵便のみならず電信、電話ほか交通通信全般を管轄していた、いわば大お役所であった。

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麻布「がま池」の正体 補遺

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上掲は参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」全9面のうち、「東京南西部」(1887年出版)の一部。前回掲げたのは原図でこちらはその印刷図にあたる。
モノクロ図だがスキャニングの精度を最大限としたので、細部の読取りが可能である。
「蝦池」の隅から細流が北東に下り(築堤は半ば暗渠)、水田の端から後は道路脇のドブ板下の溝あるいは暗渠とされたであろう、弓なりに古川の一之橋方面に向かうのがよくわかる。
原図に記入されていた測線と水準点および水準点の標高(数値)は払拭され、この図がいわば清描であることがわかる。それだけに原図の測線と水準点情報は重要で、原図複製の安易さが悔やまれるのである。

さて、「宮村町」と「宮下町」の文字の間の弓なりの道は谷道で両端は坂下、「宮村町」の下の交差部から東南東に上る直線道は「狸坂」という。
その反対側、「宮下町」の「下」の文字が掛かる道の傾斜部は今日「暗闇坂」として知られているが、この図では「於化坂」(おばけざか)の注記が見える。於化坂途中の邸宅のあるあたりは、現在ではオーストリア大使館の敷地である。
この二つの坂下は標高10メートル以下、坂上は20メートル以上であることが、等高線から明瞭に読み取れる。

図の右端「徳正寺」の文字の掛かるあたりは「大黒坂」の一部。その左下暗闇坂と狸坂の交差部は麻布の一本松として知られる名所で、そこから南西に下るのが「一本松坂」である。

さて、両端に坂下をもった弓なりの谷道であるが、以下2つの文章に目を通されたい。

 十月十二日の時雨ふる朝に、わたしたちは目白の額田方を立退いて、麻布宮村町へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、(略)、裏は高い崖になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押寄せていた。/崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢をいっている場合ではない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多に空家のあろうはずはなく、さんざん探し抜いた挙句の果に、河野義博君の紹介でようようここに落付くことになったのは、まだしもの幸いであるといわなければなるまい。(『岡本綺堂随筆集』Ⅳ十番雑記、一 仮住居) 

 「狸坂くらやみ坂や秋の暮」 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通じる横丁の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなり高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推量(おしはか)られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名が一層幽暗の感を深うしたのであった。(『岡本綺堂随筆集』Ⅳ十番雑記、二 箙の梅)

前の文の「日蓮宗の寺」とは、上掲地図上辺に見える三宇の寺(卍マーク付)のうちもっとも上端寄りの日蓮宗安全寺で、今日でも露地奥に寺堂をみることができる。
岡本綺堂は父親の仕事の関係上イギリス大使館裏、すなわち麹町台地の元園町に自宅があった。だから関東地震当日家が潰れることはなかった。三度、四度の余震の後「しかしここらは無難で仕合せでした。殆ど被害がないといってもいいくらいです」と町内で言い合っていたものの、夜になって降りかかってきた火の粉を防ぐことはかなわなかったのである。
麻布の崖下に家を見つけ仮住まいとすることができたのは、この一帯が奇跡的に被災しなかった、つまり焼けなかったからである。

そのあたりの様子を『新修港区史』(1979) では次のように記載している。 

 この大震災のため、日本橋区や本所区、浅草区、神田区は九〇%以上の焼失、京橋・深川の両区が八五%以上の焼失という火災による被害が震災を上回る被害であったにたいし、芝区は二四%の焼失、赤坂区は七%の焼失、麻布区に至ってはほとんど焼失被害は零に近かったといってよい。下町に比べて、山の手の火災被害は軽かったが、飛びぬけて、牛込・四谷とともに麻布区の被害は軽かったといえる。(第1編第6章、近代、p.580)

しかし不燃建築物が都心の大部分を占める現代では事情が異なる。
最近刊行の『港区史 自然編』(2020)が警告するように、麻布谷底低地には「湿地にみられる「泥炭層」という、未分解の植物遺体がスポンジのように水を含んだ層が堆積しており、局地的に軟弱地盤をつくっている」ため、大地震時の振動は台地上の比ではないのである。
がま池の「土手」底部は水田だったとは言え谷頭部だから滞水域とはならず、泥炭層も形成されなかったろう。しかし尾根道をはさんで反対側、笄川の開析谷壁にあたる有栖川宮記念公園の谷がそうであるように、目に見える湧水が涸れたとは言え、じわじわと浸み出す地下水は健在である。その上に形成された近世初期の盛土部つまり人工地形が、大地震にいかなる動きを見せるか、注目しどころのひとつなのである。

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写真はがま池を造成した際の土手部で、路が盛り上がっているのがわかる。写真手前ががま池の北端べりで、奥が旧水田地帯。道を下れば宮村児童公園脇を通り、その先は狸坂下につづく。

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麻布「がま池」の正体

「芝道」については書かなければいけないことをまだ残しているが、忘れないうちに東京都港区元麻布二丁目の「がま池」について記しておく。

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上掲は参謀本部陸軍部測量局「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」および「東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊島郡下渋谷村近傍」(いずれも1883年:明治16測図)の一部。図の下辺中央の道交差部は「仙台坂上」で坂は右(東北東)に下る。左下の三角形は現港区立有栖川宮記念公園の角地。等高線を見れば道はここではすべて尾根道で、「蝦池」は一の橋に下る古川の一支流の、W字型をした谷頭部の一つを堰き止めてつくられた人工池であったことがわかる。「蝦池」を堰き止めた土手の北には「水」とありそこは水田である。水田の東側に「蘆」(アシ)の字が記入された草色の細長い区画があるが、その一部は現「宮村児童公園」として残されている。

水田の中に破線が走り、小さな丸印が描かれているが、それは測線と水準測量点を記したものである。しかし拡大しても水準点に添えられた数字を読み取ることは不可能である。これら数字のみならず描図要素すべてが拡大に耐え得ない。デジタル化(東京時層地図)にあたって原図とした複製印刷図が高精細でなかったことに主因があるのだが、この図群は「地図の宝石」(前田愛)とまで言われた近代初期測量地図の傑作でもあり、まことに残念と言わざるを得ない。地図の複製印刷およびデジタル化の「悪例」として指摘しておく。

さて、都内の「池」について概観すると、「不忍池」は都内に存在する自然の池の代表で、縄文海進による侵食(海成段丘の形成)と堆積(侵食された土砂の砂州化)による河口(古石神井川)閉塞によって形成された(松田磐余『対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』2013)。

自然の池に対して人工の池が存在するが、実は都内の公園の池の多くはそれであって、例えば東大本郷キャンパスの三四郎池や新宿御苑の玉藻池は旧大名庭園に由来し、堤を築いて谷地を閉塞するか(玉藻池)、段丘面を掘り窪めて湧水を溜めるか(三四郎池)、海面の埋立を一部残すもしくは埋立後の掘り込みで汐入の池とする(芝離宮・浜離宮)か、いずれかの方法で造成されたものである。

そうして形成時期は自然の池ほどは遡らないものの、大名庭園よりもさらに古い人工の池というものがあって、それは溜池である。
近代初期に埋め立てられ地名にのみ残る現千代田区の「溜池」は、近世初期の上水水源として鮫ヶ橋谷などの開析谷から下る水流を堰き止めてつくられたダムであった。

麻布の「がま池」も実はダムなのだが、その本来の姿は水田灌漑用の溜池である。池の造成には江戸以前および江戸初期の耕作者(百姓)の切実な願望が存在したのであって、それは例えば麻布七不思議がま池伝説の「どのような日照りでも涸れることがない」という一節に反映されている。がま池は、麻布台地を開析した谷のさらにその支谷の谷頭部に堤を築いて近世初期に造作されたのである。

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そのことを物語る近世初期図を、ひとつだけ掲げておこう。上は「寛永江戸全図」(寛永19:1642年頃)の一部である。右下に見える水流は古川の二之橋付近で、両岸部はすべて水田、支谷の谷頭まで水田である。後の仙台坂の道が破損欠落しているが、中央右下寄りに「全(善)福寺」、左手「浅野内匠頭」とあるのは後の南部藩下屋敷で現在の有栖川宮記念公園だが、それと「柳生但馬守下屋敷」との間の二又の谷(水田)のうち小さな「百姓地」の文字の足元の谷頭部が「がま池以前」の姿である。

近世初期の人工地形でかなり埋立てがすすんだとは言え、「池」は都心高級住宅密集地に遺された貴重な自然である。私有のマンション敷地として囲い込まれてしまったのは、行政の怠慢とも、なさけなさとも言える。かつては隣接した敷地の駐車場からその水面を垣間見ることができたが、いまはそれもかなわない。駐車場が敷地目一杯のコンクリート邸宅に変わったからである。

この近世のダムの土手(築堤)上には、人材派遣会社パソナの’迎賓館’と言われ、時に黒塗りの大型車が並ぶ「仁風林」が鎮座している。政財界の隠微な疑惑の場としてしばしば噂に挙がるところだが、何の因縁かその入口脇にがま池怪奇話説明板がぴったりと寄り添っている。
その説明板冒頭の「江戸時代には」というくだりだが、「江戸時代末期には」とでもしないと正しいとは言えない。江戸時代とは、蒸気鉄道の敷設(1872)から核反応施設爆発(2011)までの近・現代約140年間よりよほど長い、約260年スパンをもっていたのであって、そのなかでとりわけ江戸の市街変容は大きかったのである。

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芝 道 その2

『港区史 上巻』では「吉良氏は蒔田領主で柴村は蒔田領分であった」とする。

奥州管領として陸奥多賀城に拠り足利政権奥州統治の要を担った吉良の家系は、室町から南北朝を経て戦国時代に滅亡しかかるも、足利将軍の「御一家」として武蔵国に拠点を確保する。
そのひとつが武蔵国久良岐郡の蒔田(まいた)城(現神奈川県横浜市南区蒔田町)で、築城年代は不明も 15世紀末頃裔吉良成高あるいは吉良頼康の代には蒔田の地を領有し、「蒔田御所」と呼ばれたとする(横浜市歴史博物館 『蒔田の吉良氏-戦国まぼろしの蒔田城と姫君』2014)。

「太田道灌状」には「吉良殿様御事、最初より江戸城に御籠城、彼下知を以て城中の者ども働数ヵ度合戦せしめ、勝利を得候」とあり、原註に「吉良三郎成高、公方一族、世田谷殿トモ蒔田殿トモ云」を加えるという(『新修世田谷区史』上巻)。吉良を「殿様」と尊称した太田道灌資長が主君扇谷上杉定正に謀殺されたのは、文明18年(1486)7月であった。
このころまで、吉良氏は確かな戦国領主の一人なのであった。

現在横浜市南区に横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の蒔田(まいた)駅が存在する。
そこは大岡川の右岸で地表は標高3メートル前後だが南は標高30~35メートルの高台で、川とその沖積地を眼下にする北端、現横浜英和学院の所在地が吉良氏の蒔田城跡とされる。

そうして先の印判状にもあるように、吉良氏はいつの代からかわからないものの、芝(現港区の海岸側、JR浜松町駅から田町駅付近)にも所領を具していたのである。

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芝 道 その1

以下は『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』(2021年3月)のカラー口絵のひとつだが、本文には読みも内容もとくに触れてはいない。

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『新修港区史』(1979年)の本文にはこの文書の粗末なモノクロ写真が挿入されており、その翻字と読みは以下の通りである。

 制 札
右柴村新宿為不入立之候
間若横合非分有之ニ付而者
可遂披露由被仰出者也 仍而
如件

戊子         奉之
 七月廿四日 江戸近江守

  柴 村
    百姓中

 制 札
右、柴村新宿は不入(ふにゅう)のため之(これ)を立て候
間(あいだ)、若(もし)、横合非分(よこあいひぶん)、之(これ)あるに付而者(ついては)
披露(ひろう)を遂(と)ぐべきの由(よし)、仰せ出される者也(ものなり)、仍而(よって)
件(くだん)の如(ごと)し

狭義の古文書(一次史料)は文書に差出人と受取人が明記されているものだが、この場合の受取人は芝村の百姓、差出人は江戸近江守だがその名の脇に「奉之」(これをうけたまわる)とあり、近江守はいわば家来。
誰の家来であったかというと、それは大きな朱印が示していて、これは世田谷に城をおいていた吉良氏の印という。
その家来の江戸は、太田道灌が江戸城をつくるよりも大分以前にそこに城館をおいていた江戸氏の末で、江戸近江守こと江戸頼年。

吉良家というと上野介吉良義央(きらよしなか)のイメージが前面にでてくるので面倒だが、吉良の姓はいまの愛知県に存在した荘園吉良荘(きらのしょう)にちなむもので、足利尊氏の遠祖、鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏が、三河国幡豆(はず)郡吉良荘の地頭職を得たことにはじまる。
義氏の二子は吉良荘を本貫地とし、兄は三河吉良氏、弟は奥州吉良氏の祖となり、忠臣蔵で悪役をつとめるのは前者の裔、世田谷の吉良氏は後者の子孫。吉良は足利一門のなかで重きをなし、近世は高家と見做された。

『新修港区史』は、「戊子」(つちのえね、ぼし)が相当する年号は戦国時代では享禄元年(1528)か天正16年(1588)で、江戸近江守という名から後者の文書であるとする。
天正16年は、後北条氏が滅亡し家康が江戸に入る2年前である。

この文書は創建が寛弘2年(1005)と伝える芝大神宮(古くは飯倉神明宮、芝神明宮と称した伊勢神宮の地方出張所)の所蔵で、『港区史 上巻』(1960年)や『芝区史』(1938年)にも写真版付で触れられている。

文書の内容は、「柴村に新宿を設けるにあたり、もし横合非分(ほかから妨害などをしてくること)をなすものがあったら、その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」(『新修港区史』)としているが、これでは「不入」の意味が理解できない。

ここは「みかじめ料」というやくざ用語を用いるとイメージしやすいだろう。
「新宿」とはいうものの、これはむしろ町場の謂いと思われる。
町場の本質は交易つまり商いの空間であり、それは市場と言い換えてもよい。
その場で新参者に「誰に断って商売をやってるんだ」と因縁をつけ巻き上げるカネがみかじめ料で、一種のショバ(場所)代である。それが現在のやくざであろうと、中世の何らかの権力であろうと同じである。
そこでは自由な商売は成り立たず、特権的同業者団体(座)の支配は商品経済が拡大するにつれて、その足かせと見做されるようになる。

「不入」とは国衙郡衙の介入し得ない古代の私権エリアつまり荘園に発する用語だが、中世には荘園以外さまざまな場に不入すなわちアジールが存在するようになる。
つまり一定の場所において(何らかの)権力(的観念)を無効とし、その立入りを排除すること、とくに商売自由を保障することを意味するようになる。
つまりそれは楽市の保障で、今日の世田谷ボロ市にまで至る歴史をもつものなのである。

世田谷デジタルミュージアムには下の古文書の写真を掲げ、「天正6年(1578)、小田原北条氏四代の当主・氏政が、世田谷に宿場(世田谷新宿)を新設し、楽市を開いた時に発した掟書。このとき開かれた楽市は、そのかたちを変えながらも、今も「世田谷のボロ市」(東京都無形民俗文化財)として存続している」と添え書きしている。
今のボロ市とは異なりご覧のように月6日の典型的な六斎市で、経済活発を目指したものであることがわかる。
上掲制札の10年前である。

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しかし、世田谷は本来吉良氏の「城下」だったはずである。
そうしてこの「新宿」は、吉良城下の宿すなわち「元宿」に対する称である。
小田原北条は吉良氏の存在を無視したように、マチもミチ(矢倉沢往還)もあらたに設置したのである。

上掲の吉良氏印判状について『新修 世田谷区史』(上巻、1962年)に従えば、吉良氏はこの時すでに小田原北条の高位家臣の地位に甘んじており、小田原からはその家臣(陪臣=江戸頼年)に直截下命していたとみられる。つまり「新宿」を「立て」たのは小田原北条氏と考えるべきで、「その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」という『新修港区史』の記述は当を得ないということになる。
今日のボロ市につながる楽市が世田谷「新宿」にひらかれたとき、「元宿」を足下としていた吉良氏はその「城」を去っていた可能性も否定できない。

中世の土地支配は重層性を特徴とし(職〈しき〉の体系)、その実態は流動的である。
これらの文書からは、戦国大名北条氏支配下の吉良氏所領のありようが垣間見える。

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江戸最古の坂 その3

『更級日記』は高等学校で古典として習うことが多く、その冒頭(「門出」)はよく知られている。
平安時代の中期、作者(菅原孝標女)後年の回想とはいえ、古代東国の記録としても貴重である。
冒頭ではないけれど、それにつづく「竹芝寺」の段は以下のようにはじまる。

今は武蔵のくにになりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、泥(こひぢ)のやうにて、むらさき生ふときく野も、蘆荻のみたかく生ひて、馬にのりて弓もたるすゑ見えぬまで、高く生ひしげりて、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、らうの跡のいしずゑなどあり。いかなる所ぞととへば、これは、いにしへたけしばといふさか也。

上掲末尾に注目されたい。
作者の「ここはどこ」という問いに対する答えが、「竹芝という坂」である。
ネットの現代語訳を見ると「坂」でなく「所」としているのもあるが、はっきり「さか」と書きつけているのだからそれは曲説というものだろう。
それでも「さか」ではなく「さう」の誤写として荘園としたり(「荘」は旧仮名で「さう」)、「姓」(旧仮名では「さう」)と解いて竹芝を人名由来地名とする向きもあるらしい(『新編日本古典文学全集 26』p.283の頭註30)。
しかしそれは「さう」であれば解釈に都合がよいというだけの話。解釈はかぎりなく蜃気楼の迷路に彷徨する。
ともかくも、「竹芝の坂」である。

これは前回引用した聖坂標柱説明文の末尾「竹芝の坂と呼んだとする説もある」に対応する。
説明文は「『更級日記』の竹芝寺の段で「竹芝という坂」と言っているのはこの坂のことと考えられるか」と書きたいのだがそれでは長すぎるし、「説もある」とするのが無難で便利なのである。

「竹芝」の芝は、港区の前身のひとつ「芝区」の芝で、道興の『廻国雑記』に「芝の浦」として登場、中世末期には吉良氏(本拠地世田谷)の所領「芝村」でもあった(芝大神宮文書)。
『大日本地名辞書』(吉田東伍)は芝の生えた土地であったからとするが、海食崖下波食台上の砂堆の地であるからその説は肯んじ難い。まして『更級日記』言うように、蘆荻の高く生い茂った土地である。
古来爺さんは山に柴刈り、婆さんは川で洗濯、と言う。
ここは「柴」(低木類)と解して、塩屋の煙(『廻国雑記』)の燃料でなければ、海苔採取のため海中に立てるひびの「柴」が本字とみておきたい。さすれば「竹柴」の語も合点がいく。
聖坂は、その竹柴の浦を眼下に見下ろす古往還のサカであった。

標柱の年記は2004年12月でそう古いものでもないが、区の最新の刊行物(『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』2021年3月)ではこの坂を一部とするミチについて「古代の官道」の見出し(p.155)で次のように書いているのである。

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 高輪台から三田台を通り、聖坂を下り切った辺りから北上し、赤羽橋、飯倉を過ぎて虎ノ門付近に至る往還を中原道に比定する見解がある。中原道は、江戸時代に東海道が整備されるまでの東西を結ぶ主要幹線道であっただけではなく、『更級日記』の記述などから、とくに高輪台から三田台にかけては古代の官道であった可能性が指摘されている。じつはこの道筋に沿って、先述の信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡、港区No.123遺跡、承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡、伊皿子貝塚遺跡などの古代の遺跡が数珠状に発見されているのである。なかでも信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡、承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡で検出された、一辺が七メートルを超える竪穴建物跡は、この時期の竪穴建物跡としては大型で、これらの建物を備えた集落が官道に面して形成されていた可能性を高めている。さらに時代を遡れば、この道筋には弥生時代後期後葉から古墳時代にかけての集落が列をなし、現在の三田済海寺の隣接地には古墳と考えられる亀塚が築造されている。
 こうした考古学的事象に、三田済海寺付近が『更級日記』にみえる竹芝寺伝説の故地の一つに想定されていることを加えると、高輪台から三田台に至る尾根筋上に古来主要道が整備されていた可能性は低くないといえる。       (大西雅也・高山優)

歴史を書き換えるのは物証である。考古学の成果は著しい。
聖坂が古代にまで歴史をさかのぼり得、「江戸最古のサカ」のひとつであることは、疑いのないところと言える。
ただし、芝・高輪が「江戸」に併呑されるのは、もちろん近世以降の話である。
いずれにしても、拙著『デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖』の「コラム11 江戸最古の坂」(pp.114-115)は訂正を要するのである。 

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