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拙著『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』(2013年初版、二見書房)が出てから6年半。
2刷の際にいろいろ訂正もしたのだが、その後の研究の進展もあって、近年この本は絶版とし自分のところではじめからつくりなおすつもりでいた。

しかし版元としては書店に置けばコンスタントに売れる本の絶版は回避したいらしく、増補改訂も可の意向を示したため、先月は何日かかけてその改定差し替え部と増補部の原稿を作成した。
それがどのようなものであるかは仕上げを御覧じろというほかないが、増補部は「ミチとサカ」「まっすぐミチ 地形ミチ」「江戸のサカイ」「ガケの構造とサカの5類型」などの私見エッセンスとし、さらに「23区微地形分類表」の付録もつけたいと思っている。

そのうち「まっすぐミチ 地形ミチ」については、『東京人』(2013・8)に「道の権力論」として活字化し、その前後からあちこちで触れてきたので繰り返すことはせず、ここでは付けたりとして「多摩湖自転車歩行者道」と「玉川上水路」の2者比較を紹介しておきたい。
両者とも巨大都市に飲料水を供給するためのインフラストラクチャーであるが、前者は近代につくられたまっすぐミチで、後者は前近代の地形ミチの典型である。

一般に「多摩湖自転車道」として知られる前者は、行政名を東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線といい、多摩地区は東村山市の西武多摩湖線武蔵大和駅付近(標高約84m)と同西東京市新町(同約63m)の間21.9 kmをむすぶ都内最長の直線道路である。
ちなみに国内最長の直線道路は、明治初期樺戸集治監収容政治犯を酷使して開通した札幌と旭川をむすぶ国道12号の、美唄-滝川間29.2km、世界一の直線道路はオーストラリア南岸のEyre Highway(エアー・ハイウェイ)146.6kmという。

東京の最長直線道路が自動車を通さないのは地表下に水道幹線を埋設しているからだが、世田谷区喜多見と杉並区梅里をむすぶ23区の荒玉水道道路8.979kmが同様のまっすぐ水道道路であるにもかかわらず自動車通行可(ただし重量制限などあり)としているのとは対照的である。

近代の水道道路がまっすぐであるのは、中央集権国家がその権力と資力をもって地形を無視、というよりそれを局所改変することが可能であったからである。
この多摩湖自転車道でそのことがもっとも明瞭に視認できる場所は、「馬の背」と俗称される小平市花小金井南町3丁目の石神井川谷底低地との交差部(上掲photo)である。(次回につづく)

「経済 vs 生命」の場合の「生命」は本来「人間」で、また「経済」も「利潤」ないし「資本」とするのが正確だが、理解し易いように上掲とした。

2020トーキョーオリンピックを念頭に、アベ某とその一派は新型コロナウィルス検査不作為をもっぱらとし平静を装ってきたが、世界情勢はそれを許さず、ついにオリンピックは1年先延ばしとされた。しかしその「来年」があるとは誰も確言できず、むしろ中止となる可能性が高い。
さてアベらがこだわったのは、結局のところオリンピックは「経済」だったからである。

ついで「緊急事態宣言」に至るわけだが、海外の評は「すでに(ジャパンは)手遅れ」が圧倒的である。
その「宣言」に踏み切るにあたって、アベの盟友アソーは「経済がガタガタになる」として最後まで牽制した。アベも本来見識(らしきものはもともとないが)はアソーと同然であった。
そのことは、トーキョー知事で野心家パフォーマンサー、知事再選を狙うカイロ大学卒業論文疑惑のコイケ某との「自粛要請」をめぐる攻防に端的にあらわれている。
すなわち「経済か、危機管理か」の2項対立である。
アベvsコイケの対立にかぎって言えば、決して「経済か、人の命か」ではないのである。

「経済」は資本主義勃興期の三角貿易すなわち奴隷交易を典型として文字通りヒトを喰いものにしてきた(’Amazing Grace’ !)し、近年では「貧困(者)と人間の命」こそがグローバル経済の好餌と見做されている。
それは「医療保険」であり、「水道法改正」であり、コロナどさくさ紛れに提出された「種苗法改正案」であり・・・と、直近の実例も限りない。
「経済」という、無限成長怪獣が地表においてヒトの命を喰いあらしている、というイメージが浮上するとしたら、それは正解である。

「社会距離」(Social Distance)に関連して『かくれた次元』(E・T・ホール)を読み返し、あらためてその確信を強くした。
ただしそこで言われている「社会距離」とは、「その限界をこすと動物があきらかに不安をはじめる心理的な距離のこと」で、現在の使用法とはベクトルが逆なのである。
つまり、その「間」をを維持しなければ社会そのものが崩壊する可能性のある距離、というふうに意味が逆転したといえる。
これは都市生活を基本とする文明社会史においては巨大な逆転だろう。

ホールはおもにヒトの住環境にかかわる「文化」を強調したが、文化というよりはさらに切迫した生物種としての生存条件と言い換えた方が適切であったろう。
「経済」はこの生存条件を餌として、さらに世界を呑み尽さんとしている。
極限まで縮められ、侵食されるのは「時間」と「距離」そしてヒトである。
ホールが著書の冒頭でレミング(の死の行進)の例を挙げているのは象徴的で、予言的である。
現在の世界お籠り状態は、「経済」による距離と時間そしてヒト侵食の一時的停止とみることができるだろう。
◆ ◆ ◆
quarantine(クアランティン、検疫)がラテン語の「40」に由来するとはよく言われる話である。
すなわち中世アドリア海交易における伝染病対策、つまり入港後40日間の離島隔離の意である。
武漢のロックダウンは、その倍の約2ヶ月半を必要とした。しかしわれわれの感染のピークはむしろこれからである。実質quarantine状態がこの先何週間、何か月間つづくか誰もわからない。
ただ市中感染が衰え隔離が一段落したとき、アメリカに重心をおいた世界のgeo-politicsの様相が、それまでとはまったく異ったものとなっていることだけは確かなのである。

collegio

「日本」の正体

3・11でも同様であったが、日本のニュース、マスコミの論調の内部にいると、肝心のところが見えてこない。
それは自分をとりまく「世間」の姿である。
換言すれば、「日本の正体」となろうか。

「中央日報」は韓国の保守系マスコミだが、その日本語記事はたいへん参考になる。
本日の該当部分を以下に引用する。

◆ ◆ ◆

「日本もう滅茶苦茶、安倍氏の宣言は手遅れ」…「東京崩壊」警告も

日本で新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)の感染者が急増しながら、安倍晋三首相が7日、東京都など7都府県に緊急事態を宣言したが「時すでに遅し」という懸念が出ている。

7日(現地時間)、米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)は「日本が新型コロナで緊急事態宣言、時すでに遅し?」というタイトルの記事を通じて「今回の措置がこれまで採択したコロナへの対応方式がこれ以上うまく回らないことを暗黙的に認めたようなもの」と伝えた。

特に同紙は渋谷健司・英キングス・カレッジ・ロンドン教授(国際保健)とのインタビューを通じて「日本はすでに滅茶苦茶だ(Japan has been screwing up)」とし「感染者はまだ氷山の一角にすぎず、患者が急増すれば東京医療システムは崩壊するおそれがある」と警告した。

日本集中治療医学会によると、日本は人口10万人当たりの集中治療室(ICU)病床は5床にすぎない。これはドイツ(30床)、イタリア(12床)に比べて非常に少ない。

日本では先月20日に感染者が初めて1000人を超えてから18日で感染者数が5倍以上に増えた。最近の新規感染者のうち感染経路が不明な人は半分以上となっている。

前日、安倍氏は緊急事態宣言を出してウイルス検査件数を一日2万件ずつに増やすと発表したが、実際そのような能力があるのか疑問視されている。厚生労働省によると、5日基準で日本国内の検査件数は計8万件余りにすぎない。

緊急事態を宣言したものの、多くの措置には強制性がなく履行効果がないという指摘もある。ほとんどが市民の自発的な外出自粛にかかっていて、これを違反した場合、処罰がないためだ。公共交通は依然として正常運行しており、保育園なども一部開いているところがある。

小池百合子東京都知事は在宅ワークを励行して夕方の外出自粛を呼びかけたが、国土交通省の調査によると、在宅ワークの割合は8人中1人だという。

北海道大学の西浦博教授は、日本経済新聞とのインタビューで「現在の東京都は爆発的で指数関数的な増殖期に入った可能性がある」とし「早急に自粛より強い外出制限をする必要がある」と話した。

collegio

Is it too late ?

今朝のCNNニュースのトップヘッドラインは
’’Is Tokyo next the New York ?”
とし、つづけて
’’There are fears a coronavirus crisis looms in Tokyo. Is it too late to change course?’’
と述べていた。
アメリカ大使館は、日本の感染統計はあてにならないとして、在日アメリカ人に帰国を促している。
危機管理センサー欠如脳の帰結というべきか。

collegio

井戸底の裸王子

「日本の闇」は春の朧に似、能天気な未成年者の脳にも似る。
今朝の新聞は以下のように報じた。

≪「感染者統計にゆがみ」 シカゴ大・山口一男教授 日本の少数検査に苦言≫

「実際には感染しているのに把握されない『暗数』の割合が大きく、統計がゆがんでいる」
「各国の状況との比較や政策の判断には使えない」

日本では感染者数の公表値が最近増えているが、世界各国と比べて圧倒的に少なく、海外メディアなどから「不可思議」とみなされている。欧米など各国は世界保健機関(WHO)が呼び掛けた検査の徹底を進めた結果、感染者の把握が急増しているからだ。

「検査数を絞ったことで感染者を把握できていないからで、この結果(水面下の)感染を拡大させた」
「検査数を制限することでどの程度感染者数が少なく出るかの情報がなく、他国との比較もできない」

この問題について安倍晋三首相は三月二十八日の記者会見で「水面下で実際は感染が広がっているのではないか」と問われ、「日本が感染者数を隠しているという議論は違う。死者の数は多くない」などと説明。現状の感染状況には「ぎりぎり持ちこたえている」と従来の見解を繰り返した。

以上、東京新聞記事から。

山口氏は総理府(現内閣府)統計局勤務を経て、コロンビア大公共衛生大学院助教授などを歴任、シカゴ大社会学科長を務め、現在経済産業研究所客員研究員としてEBPM(証拠に基づく政策立案)研究プロジェクト主査、社会疫学の研究経験を持つ統計学の専門家である。

日本という井戸の底、サクラの花びらを着けて「持ちこたえ」ふんぞりカエルは裸の王子、シンゾー・アベなのであった。

collegio

恐るべき隠蔽

コロナウィルス対応で、休校による混乱ばかりが話題となっているが、実はそれは大した問題ではない。
現政府がいま力を注いでいるのは、感染者の把握ではなく、その真逆の隠蔽にほかならないからだ。

中国から提供された検査キットも活用せず、検査体制を国立感染症研究所に限定化し、韓国より1桁以上少ない1日1000人未満の検査体制にして感染者数値の上昇を妨げている。

不作為(意図的なサボタージュ)手法による、情報操作である。
2日、WHOからその積極的な対応が評価された韓国からは、大統領のウィルス対応協力の呼びかけがあったのだが、もちろんアベとそのお友達および子分たちは馬耳東風をきめ込んだのである。

このような小手先技は、国際的な信用失墜に直結する。
信用失墜はしかしクルーズ船の例ですでにはじまっていた(「日本政府の対応は、公衆衛生危機の際に行ってはいけない対応の見本」ニューヨーク・タイムス)。
情報操作と隠蔽はそもそもこの連中の十八番、「政治家」としてもっとも腐心するところなのである。

もしいままともな検査体制が敷かれ稼働していれば、初期対応失敗の結果として日本列島の感染者数は間違いなく桁外れに上る。
隠れ感染者や公表されざる感染スポットは、すでに身近に存在するかも知れないという疑心は当然である。

極東の列島の愚かな政策と対照的に、同極東の島台湾では、真摯にして迅速、賢明な感染症対策が功を奏し、支持率をも飛躍的に上昇させた。

中国は多大な犠牲をはらい、ウィルスの蔓延をほぼ湖北省内に封じ込めつつある。

列島におけるの感染者捕捉のサボタージュ状態がつづくならば、オリンピックどころの騒ぎではない。
「コロナ」と指さされ、軽侮されつつ隔離ないし排除されるのが日の丸国とその住人となる可能性はきわめて高く、それはすでに始まっているのである。

公衆衛生上の対応策は、結局のところ感染源(感染者)を発見(特定)し、それを公表周知させ、ゾーニング(隔離・封じ込め)することに尽きる(『感染地図―歴史を変えた未知の病原体』) 。繰り返すが、隠蔽はその真逆である。
「行ってはいけない対応」は、この愚かな政権を許すかぎりつづくのである。

【追記】
マスコミも隠蔽の実態にようやく触れるようになった。
以下は朝日新聞デジタル版2020年3月4日22時22分の記事の一部である。

「新型コロナウイルスの感染を判定するPCR検査をめぐり、日本医師会は4日の記者会見で、医師が必要と判断しても保健所が認めずに検査を実施できなかった例が全国で30件あまり確認されたと明らかにした。(略)新型コロナウイルスのPCR検査は現在、感染症法に基づく「行政検査」とされ、保健所が認めないと実施できない。日本医師会によると、保健所が認めなかった理由は「重症ではない」が5件、「濃厚接触者ではない」が1件などで、大半は理由が不明という。」

collegio

363年目

気候変動や地殻変動に加え、ウィルスが現代ヒト社会の存立構造を侵食しつつある。

極東島の裸王Aは自己統率を示す機会とみたか、クルーズ船対応混沌遅鈍から突如転じて無理無要の全国休校を宣い、混乱に拍車をかけているのは笑ってしまう。
自然現象やウィルスよりも怖いのは、実は隠蔽政治や集団的憎悪、パニックに陥るヒト社会である。

ところで世界のメガディザスター史のなかでも突出して、犠牲者10万人を数うとされる明暦の大火は明暦3年1月18日から20日にかけてのできごとで、江戸東京時代400年のうち関東大震災、東京大空襲にならぶ巨大画期であった。
ただしその日付は旧暦であって、西暦になおせば出火は1657年3月2日の午後2時頃。
したがってそれは明日でちょうど363年目にあたる。

偶々長崎のオランダ商館長が将軍への拝謁のために在府していて焼け出され、その日記がオランダに送られていたため、同日の日付のあるリアルタイムの記録が残された。
昨年末に出た講談社現代新書『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(F・クレインス著、2019年12月刊)にその一部が小出しに紹介されている。

明暦の大火については浅井了意著と目される『むさしあぶみ』(万治4・1661年刊)が著名だが、伝聞脚色を主とした回想体の仮名草子ないし浮世草子で、網羅的記述ではあるもののリアルドキュメントとは言い難い。
浅井了意の著であることが明白な『江戸名所記』(寛文2・1662年刊)は、その回向院の項が『むさしあぶみ』の要所抜粋で同域を出ない。

講談社現代新書の紹介はその意味で大変重要なのだが、京都の日本文化研究センターの准教授だという著者が書いたものとしてはまことに不満である。
なぜならば、学者の仕事としてまずは本来のドキュメント全容を日本語にして公開する仕事に取り組むべきで、軽々に新書を書くのは後先が逆なのである。
本書における江戸の災害は舐めた程度にして、筆を京都や雲仙・普賢岳の災害に転じているのには憤懣さえつのる。タイトルの「江戸」が空間と時間の両方にわたることを使った羊頭狗肉の類とさえ言いたい。

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その過少な明暦の大火の記述で、著者がわが『明暦江戸大絵図』(書籍版、2007年1月刊)を紹介、利用して論をすすめたのはよろしいとして、大目付井上政重上屋敷跡を現在の東京法務局附近としているのはさらにいただけない。
東京に土地勘のない著者であるためだろうが、編集や校正担当者は東京在住者に違いない。だからその誤りに関しては責は版元編集に帰せられるのは、大阪在司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ第36巻の嗤うべき「平川」誤記と同等の構造である。

いずれにしても近々、この新書と商館長日記を利用したA・モンタヌスの『日本志』および『むさしあぶみ』、そして『明暦江戸大絵図』のそれぞれ該当部を参照しながら、コロナウィルス渦中363年目の跡地を、文京区、千代田区、台東区と歩いてみるつもりである。

現代都市が中枢部を含めてほとんど焼尽するような明暦大火並みの大規模火災は現実的ではないが、大地震や噴火となればその基礎インフラ全体の脆弱性は逆に火を見るよりも明らかである。
そうして極東列島の「避難所は体育館」というきわめて劣愚な「常識」が、その場にウィルスとストレスを充満させ、個々人の死に至るプロセスに「加油」することも間違いない現実なのである。

なにがそれほど強く父を動かし、他に誰もしないような行動をとらせたのか、父に訊ねました。
「お前と同じだよ」という答えでした。
なにを指して同じというのかわかりませんでした。「どういうこと? このことで、これっぽちも話したことないし、なにも知らなかったんだ」
すると父がこう言ったのです。
「かなり以前のことだ。ある日、おまえが一冊の本を手に、泣きながら帰宅したときのことを憶えている。広島についての本だった。「お父さん、この本を読んだんだ。こんなひどいこと、はじめて知ったよ」と言っていた」
ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』〔邦訳は法政大学出版局刊〕に違いありません(書籍として発刊されてすぐに読みました。1946年8月に雑誌『ニューヨーカー』に掲載されたとき、私は入院中でした)。ただ、父に渡したことは憶えていませんでした。(ダニエル・エルズバーグ『国家機密と良心 私はなぜペンタゴン情報を暴露したか』p.82、2019年4月)

ダニエル・エルズバーグが如何なる人物か、そしてその父親との会話の顛末をここで紹介しようとは思わない。
それは調べようとすれば、誰でもわかる事柄である。
しかしいまの日本の目を覆うような「政治」に浸かるわれわれにとって、彼の行動がもっとも参照されるべきであることは確かである。
そうして現代世界に生きる人間、とりわけ東アジアは極東の日本列島に住む者すべての必読の「古典」が、J・ハーシーのこの著述であることも確かなのである。

‘EVERYONE ABLE TO READ SHOULD READ IT’(およそ文字読めるほどの者、皆これを読むべし)
このことに気付いていれば、大学生を前にしていたときに、その一片でも紹介し、また部分的にでも原文で読ませるべきであったと悔やんでいる。

それは網野善彦が『「日本」とは何か(日本の歴史00)』の冒頭、第一章「「日本論」の現在」で述べたように、われわれは「人類が自らを滅しうる」核の時代のただ中を生きており、この決定的な時代条件を無視ないし軽視した如何なる言説も無意味だからであり、J・ハーシーのこの本は空前にして絶後ではなかったその阿鼻無間と生き残った人間の姿を記録したからである。

今日この本が日本の出版界において文庫化されていない状況を惜しむのは、私だけではないだろう。

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『武蔵野』の古地図 その14

さて、万葉歌No.3378にちなんだ土屋文明の「入間道の大家が原の古へを尋ね来て武蔵野の秋にあへるかも」に関してであるが、この歌は『土屋文明歌集』(岩波文庫、1984年)の「武蔵野」4首に該当なく、またその武蔵野4首が採歌された元本の『往還集』(1930年)の「武蔵野」10首(1926年)にも見あたらない。
ただし『現代短歌分類辞典』(新装版第55巻)p.277に「新萬葉集八」として10首挙げたうちの3首目がこの歌なのであるから二次的ながら出典は『新萬葉集』(巻8、1938年)で、つまりこの歌は1926年から12年以内に詠まれたものと推測できる。

一方、土屋は1941年(昭和16)9月から翌年8月まで雑誌『短歌研究』に「万葉紀行」を連載しており、それは単行本『万葉紀行』としてまとめられた。本は1943年(昭和18)改造社初版、1946年養徳社版、1969年白玉書房版、1983年筑摩叢書版の4種がある(以上、筑摩叢書版の「序」による)。
その『万葉紀行』は「豊前鏡山」からはじまって「防人と豆」まで26節が並び、そのなかほどに「万葉集武蔵国歌」としてとくに「武蔵野」以下8項が、また「武蔵国歌続稿」として「いはゐづら」以下6項が設けられていたのである。ただし土屋の「入間道」の歌は、この本にその片鱗もあらわすことはない。

『万葉紀行』の「万葉集武蔵国歌」第2項では、独立して「おおやが原」が論じられている。
そこでは冒頭にNo.3378「入間道」の歌を掲げつつ、「大家が原」を川越街道の大井村かとする契沖(『萬葉代匠記』六)などの旧来の説に疑問を投げかけ、「川越街道の大井村は江戸、川越が発達し、両者を結ぶ街道の通じた室町時代以後のものとみるべきである」といい、「第一あのあたりでは耕して食うべき田がない。粟麦を食うとしても全く水田のない所には古い村は発達すまい」と主張する。
つまり太田資清・資長親子の名こそあげてはいないが、川越と江戸および川越街道は彼らの存在以降のモノダネとし、また水利を得ない段丘面に古村の存在しえなかった理の当然を説くのである。
そうして「いはゐづら」は「蓴菜などではないか」と推論し、さらに次のように私見を披瀝する。

「じつをいうと私は入間川町の北、高萩村(高萩は鎌倉、府中、上野邑楽、新田を結ぶ街道上の一部落として鎌倉時代にもあらわれている)の南に下大谷沢(しもおおやさわ)、大谷沢などの部落のあるのを、ひそかに「おおや」に擬せんとしているのである。そしてその附近にいくつもいくつも散在している池沼を、ひそかに蓴菜すなわち「いはゐかづら」の産地ではないかと心頼みにしているのである」。

上掲のパーレン内注記に「鎌倉」という文字が2ヶ所に出現するため鎌倉街道のような誤解を与えやすいが、この文は実は今言う「東山道武蔵路」つまり古代官道を示唆していて、群馬県邑楽(おうら)は足利郡衙方面、新田(にった)は新田郡衙方面と、武蔵路の東山道Y字接続肢につながるのである。

土屋の「ひそかな大家が原」のある高萩村は現在の埼玉県日高市の大字で、JR川越線には1940年(昭和15)開設の武蔵高萩駅が営業中、駅南方2キロほどは大字大谷沢で、そこは越辺(おっぺ)川支流の小畔(こあぜ)川左岸、開析谷が入り込むエリア。
そうして、東山道と武蔵国衙(府中)を結んでいた「武蔵路」は、この大谷沢の東方約1里(4キロ)で入間川を渡河しつつほぼ南北に通じていたと推定されているのである(『地図でみる 東日本の古代』2012年。下掲。p.137。基図は5万分の1地形図「川越」1907年測図。赤破線は推定古代官道)。

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80年以上前、すでに土屋によって以上のような不羈独立の考究がなされていたことは発見であった。
さらに土屋は文献歌読みだけの人ではなかった。
「埼玉県入間郡高萩附近の池沼に、現在、蓴菜が自生しているか否かを、尋ねようとして出かけた。地図で見るとこのあたりには小さい池が多く、想像が働いてくると、まだ見ぬうちからそこらの池は蓴菜で充満しているようにさえ幻覚される。」(『万葉紀行』「武蔵国歌続稿」いはゐづら)

この場合の「地図」とは、参謀本部陸地測量部「誉の五万」つまり5万分の1地形図「川越」の1939年(昭和14)版と思われる。出掛けたのは戦時下も1942年(昭和17)9月26日。
土屋の「入間道の大家が原の古へを」の歌の成立を1938年以前とすると、この時は再訪の「秋」だったことになるが、さて。

ともかくも、下車したのは高萩よりひとつ川越寄りの笠幡駅。地図に見える池を目指し、また土地人に蓴菜を尋ねいくつかの池を目指すが「今日は運悪く私は蓴菜の生えているようすを実地に見ることはできなかったが、ノト池にしても仙女が池にしても、条件は明らかに蓴菜の生ずるに適している」ことを確認し、さらに「実地について知り得たことは、大谷沢附近はいわゆる谷田が非常に発達して、思いがけぬ所にひろびろした水田が稔っていたことであった」と言う。
ただし上掲図に見られる池は、すべて開析谷の谷頭を堰き止めてつくられた水田灌漑用の溜池で、「谷田」(やた、たにた、たにだ、やつだ、読み不詳)も今は「谷戸田」(やとだ)と言うのが一般的である。しかしこの図の範囲だけでも「隠ヶ谷戸」「猿ヶ谷戸」「戸ヶ谷戸」「半澤」「下大谷澤」「大谷澤」と、水にちなむ地名は6を数えるのである。
そうして後日、土屋は土地の青年が大谷沢附近で採取した蓴菜の標本を手にすることになる。

「しかし「いはゐづら」が蓴菜である積極的な証拠は、依然として私の手に入らない」とはこの項末尾に置かれた文章で、土屋文明はどこまでも探求の人だったようだ。ただし日高市大谷沢は引かばぬるぬる「大家が原」の歌碑が建立されて然るべき条件は十分に備えていて、JAいるま野高萩南農村研修センター直売所駐車場の碑がそれである。上掲旧版地形図の左下、「大野澤」の文字の付近にあたる。

もっともこの一帯はすでに入間川を越えて西、その支流越辺川のさらに支流小畔川も貫流し、丘陵めいた地形には小規模ながらたくさんの谷戸田が開かれ、平坦高燥な乏水地帯「武蔵野」とはあきらかに別ものなのであった。

collegio

『武蔵野』の古地図 その13

万葉歌No.3378「入間道」を解釈するには、「入間郡」そのものの概要をおさえておく必要がある。
『新編武蔵風土記稿』の「入間郡之一」冒頭は「入間郡は國の中央にて江戸より西北の方七里許にあり」とし、ややあって以下のように記す。

「又当郡古は多磨郡に通じて茫々たる原野なり、都て是を武蔵野と号し、後世分ちて入間野と記せしもあり(東鑑に於入間野有追鳥狩と記せし類なり)、又三芳野の鴈(伊勢物語に見ゆ)、堀兼ノ井(枕草子及千載集俊成卿歌の類)、の如き、郡中の地名縉紳家の歌枕にも入しゆへにや、郡名も自づから世にいちじるし、後世に至りて郡中の曠野多くは開墾して悉く田畝となり、人家も従て出来にければ古とは大にことなり、又中古より郡中を二分して入東・入西の唱あり、これ多磨を多東・多西と別ちしに同じ」。

武蔵国22郡を図にしてみると、右下にずり落ちた罅割(ひびわれ)鏡餅の態、入間郡はまさにその重心に位置する。

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それに接する餅の底部は多摩郡である。重要なのはその多摩郡の東偏に国衙(府中)が置かれ、上野国を東西する東山道にT字(精確にはY字)型に接続する、縦(南北)の官道(支道)が国衙を目指し、入間郡を貫いてまっすぐに通っていたことである。
現在の発掘文化財用語で「東山道武蔵路」と称するルートである。
武蔵国はその後(宝亀2・771年)東海道に転属となり、この道は中世には廃絶する。

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万葉集の成立は759年から780年頃までと見られているため、「入間道」と言えばまずはこの「東山道武蔵路」そのもの、あるいはその入間郡を通る部分を指すと考えるのが順当であろう。
それでも歌碑が各所散在するのは、「入間道」が「武蔵路」のさらに枝道とする見方、あるいは「入間道」と言って入間郡全域を指した可能性も否定できないからである。

しかし根幹である「東山道武蔵路」そのものは、現代の地図にはもちろんのこと、江戸時代の道にも痕跡を残さない。
つまり、江戸時代に現役であった道とそれに結ばれた村落をたよりに古代の歌枕を追ったのでは、初手から誤ることになるのである。

また古代における高麗郡と新羅(新座)郡の新設および中世における高麗郡の東方進出により、入間郡域は近世までに大きく変容した。『新編武蔵風土記稿』の入間郡2図、すなわち正保年中改定図および元禄年中改定図も、ともに極端にくびれた形で、国立公文書館が公開しているデジタルアーカイブズの天保国絵図のうち「武蔵国」図でもそのことは容易に確認できる。
言われるところの入間郡「入東・入西」(にっとう・にっさい)の別と、多摩郡「多東・多西」の別とは様相が異なるのである。

上掲上図は『武蔵国分寺のはなし』(国分寺市教育委員会、2002年改訂)による古代武蔵国郡の概要で、入間郡はまだふっくらとしていて「入東・入西」以前である。
下の図は、国分寺市・坂戸市合同企画展パンフレット「東山道武蔵路を探る ――路でつながる古代の国分寺と坂戸」(2015年)の一部だが、こちらの入間郡は高麗郡にその中央部を大きく侵食されているから、「入東・入西」以後の様相である。

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