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洗足池 その2

旧中原街道「桜坂」の復習は、以下の地図から始まる。

1881年(明治14)5月測図の2万分の1地形図「東京府武蔵国荏原郡下池上村」(所謂迅速測図原図)の一部である。

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図の右上、北東から南西につづくのは中原街道で、段丘崖を下ってからすぐ西に折れ丸子の渡しで多摩川を渡河する。段丘下、中原街道沿と坂下道の交わる付近にある「東光寺」は、「東光院」として立派に現存する。また坂下道に沿って、現在では東急多摩川線が通り、東光院の南には沼部駅が存在(1923年目蒲線丸子停留所として開業)する。

中原街道は段丘崖を上下する際、傾斜を低減するため崖端の侵食谷を利用したように見える。その谷状地形が人工によるものであるか、自然な開析谷を利用したものかは措くとして、この時期の坂道(現「桜坂」)の傾斜をしらべるために、地形図にスケールをあて、ご覧のように鉛筆で書き込みをしている。

縮尺2万分の1地図上で、中原街道を横切る10メートルと20メートルの等高線の間隔は約6ミリメートルである。すなわち水平距離約120メートルが10メートルの標高差をもっていることになる。
これらの数値から求められる平均傾斜角は約4.7度で、道路縦断勾配としては8.3%に相当する。8%は現道路構造令によれば、設計速度時速30キロメートルの急勾配である。

しかし当時は車と言えばもっぱら荷車や人力車、舗装されているわけでもなく、復路は重量ある下肥を積んだものが多かったのだから、とりわけ雨季の泥濘坂を上下する難渋は筆舌につくし難いものがあったろう。

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森と海と   2聯ソネット

森へ

梅雨の隙(ひま)

空には光

天の際

刷毛の薄藍

雲少し

浮び躊躇(ためら)ふ

尾根外れ

羊歯(しだ)葉の間(あはひ)

谷地下り

なほも下れば

かの光

かなたし梢枝(こずゑ)

知らぬ鳥

此彼啼き交はす

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海へ

葦原に

蛇柳(じゃやなぎ)点じ

半夏生

花穂並(な)む湫地(くてち)

榎枝

木陰休らひ

いにしへの

干潟過ぐれば

入江はや

上げの漣(さざなみ)

岩棚に

散り群れる蜷(にな)

踏み避(よ)けて

波食窪(はしょくくぼ)触(ふ)る

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〔前面は波食台。波食窪は右端中央上側。小網代湾にて〕

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洗足池 その1

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大田区立洗足池公園の一画に、小さな「中原街道改修記念碑」が建てられている。

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碑文は以下の通りである(掲示に際し改行し、句読点およびルビ(読み仮名)を補った。〔   〕は解読者の補注)。

 我中原街道ハ郡〔荏原郡〕ノ中部ヲ縦貫シテ神奈川県下二通ズル大動脈ニシテ、交通上無二ノ要路タリ。然ルニ従来沼部石川千束等ノ急坂、相前後シテ中間二起伏シ峻屹嶮難、往来ノ苦困名状スベカラズ。沿道諸般ノ事業ハ為ニ時代ノ進運二伴フコト能ハズシテ、文明ノ恵沢二浴セザルモノ甚寡カラス。
 府会議員森田節氏深ク之ヲ憂ヒ、奮起卒先シテ是ガ改修ノ事に膺(あた)リ、或ハ府庁当局卜折衝シ或ハ関係町村有志ヲ策励シ、拮据(きっきょ)経営着着エヲ進メ遂二忽ニシテ這(こ)ノ壮業ヲ完成シ、坦坦砥(といし)ノ如キ現在ノ道路ヲ見ルニ至ラシメタリ。
 回顧スレバ府制実施以来悠悠四十年、其間府政二参画シタルモノ頗ル多シ。而モ未ダ曽(かつ)テ一トシテ本街道ノ嶮難ヲ顧ミタルモノ無ク、長ク沿道庶民ヲシテ徒二怨嗟ノ声ヲ伝ヘシメシガ、今ヤ幸ニシテ同氏ノ恩眷二接シ宿昔ノ憂患ヲ除ク事ヲ得夕ルハ真二長夜ノ夢ヲ破リテ初メテ曙光ヲ仰グノ感二堪ヘズ。
 沿道ノ地方一帯二於ケル諸般ノ事業是ヨリ応(まさ)二必ズ発達進展ノ実ヲ挙グペシ。豈(あに)欣快ノ至ナラズヤ。乃チ茲(ここ)二此事蹟ヲ録シテ厥(そ)ノ慶福ヲ記念シ以テ之ヲ不朽二伝フト云爾(のみ)。
                          大正十二〔1923〕年四月

『大田区史』(下巻、1996)によれば、中原街道はこの碑文の道路改修完成後も地域ごとに拡幅改修され、1935年5月には「現在の桜坂を抜ける中原街道にかわって、田園調布郵便局先から丸子橋に至る新中原街道が開通」したという。

桜坂については以前も触れ、あちこちで話もした。
上掲2行目の「沼部石川千束等ノ急坂、相前後シテ中間二起伏シ峻屹嶮難、往来ノ苦困名状スベカラズ」に関し桜坂の復習も含めて、いささか展開してみようと思う。

それはまた「洗足池」の創生ともかかわる話である。

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鎌倉河岸

「腑に落ちない」ことはひとりひとり異なるだろうし、その持ち数もそれぞれだろう。
世の中腑に落ちないことばかり、と言ってしまえば「左様」で会話は途切れる。

面映ゆい、といった皮膚感覚からはじまって、歯が浮く、及び腰、腹芸・・・と数ある現代日本身体語のなかでも「腑」は身体奥部に属し、「納得できない」といったシリアスな表現の近縁にある。

さて、今回「腑に落ちない」のは以下のような記事である。

本橋左岸下流側に、江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり、鎌倉河岸と呼ばれた。付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ[1]、本橋も鎌倉橋と称するようになった。現在の橋は関東大震災の復興事業で架け替えられたコンクリート製アーチ橋で、1929年(昭和4年)4月25日に完成した。欄干には、1944年11月に米軍による爆撃と機銃掃射を受けた際の銃弾の跡が残っている。

以上はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉橋(日本橋川)の「歴史」からの部分引用である(20190605)。
中頃の「震災復興事業で架け替えられ」のところは論外(震災復興事業で創設)として、最後「銃弾の跡」はそれとおぼしきところを下の写真に撮ってきたので、そこは合格。

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本来は警視庁鑑識課の領分だろうが、この弾痕を計測して射出角度とその方向、衝撃力を算出する人はいないだろうかとも思うが、いま俎上に載せている問題は、引用文の頭から[1]の前までである。

まず「江戸城建設」だが、よく知られた江戸城建設者には太田道灌と徳川家康の二人いて、その建設時期には150年以上の懸隔がある。
どちらの事績を指しているのかあるいは両方を言うのか、この文では不明で、wikipediaの表現としては失格である。

[1]の出典にあたると「家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ・・・」(千代田区・町名由来板:神田鎌倉町・鎌倉河岸)とあるから、江戸時代初期のことらしい。

いずれにしても、「鎌倉橋」という名称が成立するためには、①鎌倉河岸→②鎌倉町→③鎌倉橋というプロセスが存在したと言う。
しかしそもそもの「鎌倉河岸」の地名由来は、千代田区サイトでは「鎌倉から来た材木商たち」、wikipedia「鎌倉橋」の項執筆者によれば「鎌倉から運んだ木材や石材」にちなむとしており、人間と木石では中身が大分異なるのである。つまりwikipediaの書き手が典拠を[1]以外に挙げ得ないとすれば、この記事は根本的なところで捏造を行ったことになる。

「鎌倉石」は凝灰岩質砂岩、軟質で加工しやすいためかまど石(竈・へっつい)などによく用いられた。
これに対し、安山岩の「伊豆石」は硬質であり、大型建設の石材に適していた。
江戸城建設に「鎌倉石」がどれほど役立ったのか、「腑に落ちない」理由のひとつはそこに発する。

しかしもっとも「腑に落ちない」点は、「鎌倉河岸」の地名発祥を両者とも家康江戸築城期と明記するにもかかわらず、確かな根拠を示し得ていないところにある。

鎌倉河岸の旧地は現在の千代田区内神田一丁目の一部である。
鎌倉橋の上流約230メートル、神田橋あたりをオリジンとした神田は江戸の「本家下町」で、一定規模以上の集落地神田エリアが「家康以前」から存在したことは、発掘報告書『一ツ橋二丁目遺跡』(1998年)にも明らかである。

江戸が鎌倉ともっとも強い絆で結ばれていたのは太田道灌の江戸築城以降、鎌倉扇ガ谷に本拠をおいた関東管領一族の上杉氏が健在だった時代である。
扇谷上杉家臣太田道灌は中世東国の都鎌倉に生まれ、鎌倉五山に学び、江戸に城を築いて後も本拠地は鎌倉にあった。
鎌倉には太田道灌の邸跡と称するところが残され、その墓すら存在する。

近世までは水運が物資輸送の基本だったことを勘案すると、鎌倉河岸地名の発祥は中世の江戸、日比谷入江最奥部に臨むのこの地にこそ相応しい。
ちなみに関東の一郷邑江戸にとってもっとも重要であった「上位の場所」は、上方・西国を除けば、古代においては武蔵国府(府中)、中世前半分は鎌倉、その後半期になれば小田原で、水陸のミチは各々の時期、まずもってその間を繋結するものであった。江戸城桜田門は、家康入府当時まで小田原門と呼ばれていたのである。

江戸鎌倉河岸が中世に遡る蓋然性については以上の通りである。

そうして鎌倉河岸地名起源に関する文献らしきものとして、『風俗画報』臨時増刊203号新撰東京名所図会神田区之部下巻之一(1900年〈明治33〉1月)の「鎌倉町は徳川氏築城の時鎌倉より取り寄せし石材を此の河岸より陸揚げせしをもって名くといふ。当時已に水路ありしことは長禄並に慶長七年古図に就て徴すべし」以外を見出すことができないのである。

板垣囲ム

汝ガ家前ハ

白樫小藪

曲ル瀬ノ渦

吾ガ家裏ハ

櫻ノ小川

 木橋ニ腹這ヒ

 見詰メテヰタ

 水面瓣渦(ミヅモハナウヅ)

立チテ指呼セン

雙水ノ閒

木立家影

茫々タリ黄

菜ノ花ノ渦

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4月に早世した初恋の相手宅を望む生家裏、60年前の記憶。自宅旧住所は仙台市南小泉八軒小路92-10。用水路を隔てて旧伊達家の農園「養種園」がひろがっていた。貨物鉄道敷設にかかり、1958年同南小泉字屋敷14-22に転居。写真は用水堀沿いの道と分水堰標柱。2019年5月撮影。

共和制すなわちrepublicとは、意思決定が元首の裁量ではなく、議会等において十分吟味された成文法にもとづいて行われる、政治制度のことである。
ここにおいて「法」は、権力者の恣意性や権力の濫用をコントロールし、民人(たみびと)の共同性を担保する普遍性をもつ。

翻訳語「共和」は中国の『史記』に記載された史実と元号にちなみ、その元年は紀元前841年にあたる。

「令和制」とは、政権政党の党首の裁量が、「閣議」を梃子にしてほぼそのまま政策決定化する、現日本列島の政治体制のことで、官界財界等においては制定法を無化する「忖度」が普及、一般化する。

これを「属事主義」の対極たる「属(上位)人主義」の蔓延と言い換えてもよい。
属人主義は、とりわけ官僚たちを、上目づかいの薄っぺらな魚(ヒラメ/カレイ)の類に変容させる。

ここにおいて「法」は裁量の方便すなわち専制の道具となり果てるため、民人の法的地位は「臣民」に陥る。
民人のマジョリティが令和専制を疑わず、議会すなわち選ばれた者たちおよび官僚たちに法を吟味遂行する能力や意志が脆弱な場合、臣も民も等しくドレイであり、裁量専制者は過去の夢想のゆえにハダカの王である。

そうして令和制すなわち仮装立憲政治の行く末は、内戦外戦の有無にかかわらず、また裁量者の主観的な意図に反して、貧困と格差を深化させ、列島国家の衰退と解体を加速させるのである。

掲句「夜の風鈴」(「自昭和三十九年至昭和四十三年」)所収。
当該句の前に「マリが住む地球に原爆などあるな」「浪打の倒れむとして引くも春」の2句あり。

「マリ」句に「わが敬愛する人の長女十二歳誕生日」と詞書(ことばがき)を付す。
今日都市部に稀なる郵便丸ポスト背にしたる子もマリか。健在なれば現今60代も後半ならむ。
然してその父「わが敬愛する人」は、白泉、沼津市立沼津高等学校赴任して12歳を過ぎたればその同僚なるか、詳らかにせず。

「マリ」12の歳より半世紀以上を経、原爆・水爆・原発まして地に遍(あまね)く、列島に新「元号」施行されんとする晩春、愚かさ募りて万愚節三鬼忌にしたためし変形拙歌下掲座興とす。

昭(あきら)けく和して骸(むくろ)の三百萬そのおほかたの渇(かわ)き飢ゑ果つ
いま令(れい)されて和してどうなる

極東の島王エムペラ名乗らせて芋侍ら元号(ゲン)を擔(かつ)ぎて

【評林・白泉抄30】

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万愚節(All Fool’s Day)に

三鬼忌や和を令すてふ馬と鹿

万愚節戦艦夢から醒めぬらし

列島や枠付元号掲ぐひと

吹き曝(さら)し大気に水に傷の花

プレートの端ぞ地獄の花見せん

昭(あきら)けく和して骸(むくろ)の三百萬そのおほかたの渇(かわ)き飢ゑ果つ
いま令(れい)されて和して貧困

極東の島王エムペラ名乗らせて芋侍ら元号(ゲン)を擔(かつ)ぎて

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授業の試みについて

謹啓
列島南西方より開花便りの時節、お変わりなくご清栄のことと拝します。
扨卒爾ながら、小輩この3月末をもって東京経済大学コミュニケーション学部客員教授を退任いたします。
満期4年顧みればまことに須臾の間、為すことすべて試行錯誤であった感を強くいたします。しかしながらそれ不期にして遭遇し得たまたとない学びの機会、さらにサプライズにしてフォーチュンの日々ではありました。お蔭をもちまして大過なく此処に至りましたことをご報告いたし、平素のご指導に対しあらためて御礼申し上げます。
別添はその試行錯誤の一端を認めました東京経済大学紀要「人文社会学論集」(第144号)に所収の拙文(研究ノート)にて、ご笑覧いただければ幸甚に存じます。
201903jugyo.pdf

なお、小輩間もなく古希を迎え、平均健康寿命(2016年男性、72.14歳)に2年あまりとなりますため、モノと書き散らしの整理に重心を移行しつつ、巡検や講座(早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校、中野校など)、また出版(「之潮」サイトブログ不定期更新、季刊誌Collegio発行)も暫し続行の予定です。
自今とも変わらぬご厚誼を念じ上げる次第です。

インフルエンザ(A型)のため数日を床に過ごし、ご報告が遅れました。
貴台におかれましては、どうかご自愛専一にお過ごしくださいますよう。
不尽

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八丁堀と江戸の都市計画

江戸町奉行の執行代名詞のような「八丁堀」は、薩長土肥江戸占領政府に忌避された結果、文字通り無意味(ノンセンス)な「桜川」という名にとって変えられた。
その桜川も現在では埋立てられて水面を見ることはできず、公園や下水ポンプ所の名(ポンプ所の場合は「桜橋」だが)としてのみ遺されている。

ついでに言えば、江戸城をとりまく内堀も元来は固有名詞なくたんに「御堀」(オホリ)と言っていたものが、「皇城」とされて以降「××濠」(ボリ)と濁り、文字も「壕」(ゴウ)に通じるものにイメージチェンジされた。
言葉、文字の地平における、江戸期と東京期の意図的な断絶、イメージ操作は探してみればいろいろな側面に見出されるだろう。

ところでここ何年か、早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校で春と夏の講座を受けもってきた(中野校でも講座をもつが、それは別時期)。
今年の春の授業は終わったばかりだが、受講者30人(限定)のうち数人はご常連(リピーター)で、いつも最前列に席を占めてくださる。
まことにありがたいことではあるが、ために毎回同じ話をするわけにもいかず、準備にはいつも苦しむ。
しかし元来の菲才浅学が無理やり勉強させられるのだから、それを感謝こそすれ厭うのは罰当たりと言うべきだろう。

先般4回の講義のうち最後の1回は巡検とし、八丁堀から新川(旧霊巌島)を歩いた。
その折、説明し忘れた事項をひとつ思い出したので、以下に補足しておきたい。

中央区立桜川公園の一画に設置された説明板がある。

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上掲写真にあるように、「八丁堀(桜川)跡」と題した説明の冒頭は「江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この掘割を「八丁堀」と称していました」とし、つづく地名由来には「慶長十七年(一六一二)漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約八七〇メートル)なるをもってこの名あり」と『京橋区史』を引用しているのである。

「掘割」や「開削」「鑿つ」などの言葉が使用されているが、この説明板の前で『武蔵国豊島郡江戸庄図』(下掲。寛永9年:1632)を示しつつ受講者に指摘したのは、通常イメージされる〈掘削土木工事〉は八丁堀にはあてはまらず、その造成は「海面埋め残し」工事がメインであったという点である、しかしながら同時に指摘するつもりで言い忘れたのは、〈計画地名〉についてであった。

堀の長さが八町(丁)あったから「八丁堀」と言われるようになったのではなく、八町の長さの舟入水路については(都市)計画が先に存在したのであって、そのことは下掲図における「堀」の形と、その真ん中に書かれた「八丁ほり」の文字が明瞭に語っている。

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すなわち、「八町」先の海面までを埋立てるという意志(計画)がまず示される。そこから水運のための水面確保が必然的に派生する。

なぜならば、旧日比谷入江に発する八代洲河岸(八重洲河岸)などの古い江戸湊は、陸蒸気の出現までなお河岸として運輸港湾機能を果たすものであり、これと霊巌島ー佃島間の新江戸湊(霊巌島と佃島の間の隅田川船溜り)を繋ぐ水路は江戸の物流幹線だったからである。日本橋川と八丁堀‐京橋川の二大幹線である。

なお、江戸の〈計画地名〉でこのほかにすぐ指摘できるものに、これまた埋立で姿を消した「三十間堀」がある。

完成され、固定された「江戸の町」のイメージを疑い、その創生プロセスを想起することの重要性を強調しておきたい。

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