5月 10th, 2024
「ガード下」の話 その5
ほぼ同じ範囲を、別の旧版地形図ではどのように描いているだろう。下掲は1万分1地形図「三田」の1909年(明治42)の一部である。
本項その4で掲げた地図は1887年(明治20)、上の図はその22年後である。
渋谷川と大山街道の交差部には橋の記号が付され、その傍らに「16.8」の標高数値がみえる。この場合の単位はもちろんメートルである。左上「宇田川」の文字の右下は、注意しないと見えないがここにも橋の記号があり、それは道の北側に並行して流れ渋谷川に合流していた宇田川の細流に架けたものである。その宇田川とクロスする鉄道の両側には太い単線が2本描かれていて、『地図記号のうつりかわり』(日本地図センター、1994年)によればそれは鉄道の「高架部」(鉄)である。しかし、大山街道を越える部分には何の記号も付されてはいない。図描のみから判断すれば、前回内務省図で見たと同様、汽車は土手上を走ってきて宇田川を鉄橋で渡った後、大山街道を踏切でクロスしている。
ところが、この鉄道と大山街道のクロス部から南南西約1.5㎞、現在恵比寿駅の手前、駒沢通りと鉄道が交差する部分では、下掲のように立派な「高架部」(鉄)をあらわす線分2本が土手つづきに描かれている。ちなみに下の図と上の図は同一図のそれぞれ部分である。
さらに下に掲げたのは2万分1迅速測図「内藤新宿」の一部で、1880年(明治13)測量、1891年(同24)修正再版。上掲2図から18 年遡るが、ここでも2つのクロス部が異なった図描であることを確認できる。一方は平面交差、他方は「橋」記号で立体交差。なお、「下渋谷村」の文字の北側、八幡通りと交差する部分も踏切である。
およそ旧版地形図からだけ判断するに、大山街道と山手線の交差部は、鉄道開設からしばらくの間、踏切であったと考えざるを得ないのである。
また同迅速測図では「新宿停車場」の南北、甲州街道と青梅街道とのクロス部も平面交差すなわち踏切である。
文字記録や写真の裏付が欲しいところだが、ここでは地図史料での指摘にとどめておく。