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「ガード下」の話  その6

主要街道と鉄道の交差部が踏切であったとは今日では考え難いが、明治期も中頃までは汽車の運行は1日に何本もなかったであろうし、立体交差(ガード)を設けるまでもなかったのかもしれない。
次に見るのは、1:10000地形図「三田」の1921年(大正10)第2回修正図の一部で、すなわち時代は大震災直前の渋谷駅周辺である。

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この図に至って、はじめて山手線の大山街道とのクロス部に「高架部」(ガード)の記号が付加された。宮益坂を下ってきた路面電車が、ガードをくぐって渋谷停車場に至る様も読み取れる。その一方で、本項その5の1909年図に描かれていた宇田川の流れとその上に架されていた「高架部」記号は、両方とも姿を消しているのである。その間の事情を『「春の小川」はなぜ消えたか』(田原光泰著、2011年)は以下のように詳らかにしている。

「(略)大正時代以降、流域が急速に宅地化しつつあった宇田川でも、渋谷駅前の渋谷川との合流点付近(写真12)でとくに大きな被害が生じていた。(略)こうした、川の断面積が狭いことや、渋谷川からの逆流に対処するため、宇田川を途中から分流させ、新たな水路を建設する計画がたてられることになった。/しかし、そのころすでに地価の高騰している渋谷駅周辺で、新たな水路の敷地を確保することは難しかった。そのため、川の北側のいくつかの道路敷を利用し、そこに延長480mの暗渠水路を新たに敷設することにした。そして、従来の宮益橋脇の合流点よりも90m上流の地点で渋谷川に合流させることにしたのである」(p.60)

言及されている宇田川の新水路の建設は1933年(昭和8)に始まったとも書かれているから、宇田川は旧水路を依然として流れていたのである。それが図から消えているのは川に「フタ」されたからで、同書の写真12(p.60)はそれを物語っている。しからば1909年図で描かれた宇田川下流のガードはどこに消えたのであろう。

上の図の路面電車の渋谷停留所付近に目を凝らせば、停留所から先(西側)の道幅が狭いのに気が付く。1909年図では、さらに宮益橋までの道幅が狭いのである。

都市の近世から近代への変容は、1(閉じた部分は)開く、2(狭い部分は)拡げる、3(曲がった部分は)真直ぐに、4(凹凸および急傾斜部は)平らに、の4つの側面で進行した。
宮益坂や道玄坂を部分としてもつ大山街道においても、上記2と4の施工が何度かのプロセスにおいて加えられた。つまり宇田川の下流は「フタ」をされ、とりあえずその分だけ道が拡幅され、同時に宇田川下流の高架部(ガード)が取り払われて、その部分を含めた新しい「大ガード」が架設されたのである。

上の図から34年後の1955年(昭和30)第5回修正測図の1万分1「三田」図では、

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「大ガード」はそのまま、ただし路面電車の停留所は90度曲がって現在のハチ公前広場に入り込み、その西には「5」の数値(上通三丁目5番地)とともに「立像」記号が記入され、「ハチ公」銅像の場所を示している。ちなみにハチ公像は1934年(昭和9)年につくられたものの戦時中の金属回収令で消えたから、ここに記載されているのは今も目にする2代目である。

渋谷駅東側の「東横」は今はなき東急東横店東館で、渋谷川が北から流れて来て「東横」の下をくぐって南下しているのが地図上でよくわかる。宮益橋は早くも姿を消している。現在では橋はもちろんのこと、水路も地上で目にすることはできない。1964年(昭和39)の東京オリンピックを目指し、汚水路と化していた渋谷川は1961年から下水道変身が急がれたからである。図に見える渋谷川は、現在では通常は水流なく大雨時のみ合流下水の溢水が流れる暗渠空間で、流路自体が変更され渋谷駅東口地下広場から超高層ビル(渋谷スクランブルスクエア)にかかる地下構造物として遺されているのである。
ちなみにこの地図に見える地下鉄線(銀座線)の地上部はいまでは地下化されている。路面電車はとうになく、東急東横線のターミナルは地下にもぐった。「渋谷スクランブルスクエア」は、旧路面電車停留所と東横線ターミナルの跡地に建設されたのである。

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