『武蔵野地図学序説』は、今日都内の主要書店に配本されるはずである。
ポピュラリティを狙ったものではないので、部数も少なく気安くもとめられる価格ではない。
しかし、三野混沌にならって「読まざる可からず」と大口たたくのに吝かではない。
以下、「あとがき」を掲げ(一部略)、また正誤表も添える。
重版、訂正を念ずるのみである。

あとがき
「道に似て、言葉を一挙に捉えることはできない。聞かれるにせよ、読まれるにせよ、言葉は時とともに開かれてゆく。この語りという時間的要素によって、書くことと歩くことは互いに似たものとなっていた」。これはR・ソルニットの『ウォークス』(邦訳2017年)の第16章「歩行の造形」にみえる言葉です。
これに対して、時間の断面である地図の特性は一挙性にこそあると言っていいのです。上空からの視線の下、画像とともに言葉と記号が点滅しているのが地図であって、それを見る者は全体の位置関係を一瞬のうちに了解し得るでしょう。さらに言えばそれは鳥瞰でもなく、あらゆる地点が、爆撃視座とも言うべき垂直の絶対視線にさらされている状態です。この本質を見事に描いた「地図文学の白眉」は、中上健次の『十九歳の地図』(1978年発表)で、私的に編んだ「地図文学傑作選」の筆頭に挙げられる作品です。
タイトルに「地図」の文字を掲げた文学作品は少なくありません。しかし、阿部公房の『燃えつきた地図』のように、具体的な地図は添えもので、むしろそれを象徴や暗喩としたような作品が多いのです。

ところでスマートフォンが登場して以降、地図の主流は燃やせるものではなくなりました。ソクラテスの「文字」ないし「書かれたもの」への懐疑はプラトンの『パイドロス』に認められましたが、現在は地図すら飛び越えて、スマートフォンのパーソナル・ナビゲーションがあたりまえの時代。狩猟採集時代の終了とともに昂進したホモサピエンスの個々の「脳力」の劣化が、新しい段階に入ったと考えるのはあながち的外れでもないでしょう。
したがって本書の蛇尾は、終章の末にも触れたように「探り歩きのすすめ」です。具体的には紙でも液晶画面でも、地図で目的地の位置をしらべること、つまりスタート地点からおよその方向と距離、いくつかの地名とランドマークを頭に入れ(地図の一挙性)た後、両手には何も持たず、周囲に目配りしながら歩き出せという自戒でもあります。それは今日では「脳トレ」に相当しますから、出かけるにあたってはトレーニングのための時間を組み込んでおく必要があるでしょう。

そのようにして、折々の「自分の武蔵野」を探索し、発見するのは無上の楽しみです。しかし筆者にのこされた時間はそう多くはありません。思えば宮城野は陸奥国分寺の近隣に生まれ育ち、転じて武蔵野に半世紀以上の生を託し、武蔵国分寺に因むエリアでこれを認めているのは何かのめぐりあわせでしょう。そのめぐりあわせの掉尾は、野の面影濃い小平霊園に永眠の場所が「当選」したこと。つまり武蔵野台地の分水界(玉川上水)を渡り、多摩川水系から荒川水系に「転居」し、武蔵野をわたる風になるのでした。
(略)

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『武蔵野地図学序説』上梓

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芳賀ひらく著『武蔵野地図学序説』
A5判 オールカラー 図版150点 213ページ
ISBN978-4-422-22017-8 創元社 本体価格3000円

2025年2月10日刊

目 次

第1章 武蔵野の東雲
はじめに/ターミノロジー/気候変動と「武蔵野の誕生」/古代・中世の武蔵野空間認知
第2章 古地図と崖線
 地図の時制/植生地図・開析谷・ハケ/「国分寺崖線」の誕生と誤解
第3章 最古の武蔵野図
 低地の武蔵野/空白の武蔵野/最古の武蔵野図
第4章 ヤマの武蔵野
 武蔵野の「山」/ムサシノAとムサシノB/武蔵野のイドとミチ/武蔵野のツカ
第5章 ミチの武蔵野
 線分のミチ/オブシディアン・ロードとジェイド・ロード
第6章 ムラヲサの武蔵野
 防人歌/長者原遺跡/線刻画縄文土器
第7章 地名の武蔵野
 長者地名・殿地名/地点地名・領域地名/地点地図・領域地図/南下する「都ヶ谷戸」
第8章 地名の武蔵野・続
 「殿ヶ谷戸立体」の出現/地名の発生と展開/駅前集落注記/四つの谷戸、そして補足
第9章 彼方の地図と地図の彼方
 リアル・マップ/イマジナリー・マップ/地図の定義をめぐって/地図からスマホ・ナビへ/武蔵野の地図と文学
第10章 淵源の地図
 地図は国家なり/淵源の地図/江戸後期×明治初期/「フランス式」の残照
第11章 武蔵野のキー・マップ
 国絵図と村絵図/輯製二十万分一図と迅速測図/読図の作業とベース
第12章 伝承と伝説の武蔵野
 自然災害伝承碑/辺境の橋と国分寺崖線/一万分一地形図/二枚橋伝説/坂と馬頭観音/ふたたび二枚橋伝説
終章 「武蔵野」の終焉と転生
 「歴史地図」から「古地図」へ/武蔵野の終焉/武蔵野の転生と身体の地図

 あとがき 初出一覧 索引

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三野混沌の足跡

しかしながら「天日燦として焼くがごとし、いでて働かざるべ可らず」を含む詩篇自体は、依然として不明である。
草野心平が暮鳥詩の題詞を碑文を選んだだけで、典拠究明の労をとらなかったのは、それが既に不可能となっていたためかも知れない。

一方、その言葉をエピグラフにした長詩「荘厳な苦悩者の頌栄」は「神様/神様」ではじまり、「その人間です/おゝ新しい神様」で終る。
wikipediaは「結核のため伝道師を休職」と書くが、楽園を追放されたアダムとイブの裔として、山村暮鳥は神を棄てたのである。
混沌の言葉は、楽園追放者の逆転の自負であった。
しかし失職と病(結核)とで窮迫した暮鳥一家のために混沌が苦心用意した新居は、麓の村人たちの怒声によってわずか10日で空家となった。
その4年後の1924年、暮鳥は茨城県大洗町の借家で病没する。享年41。

一方混沌はともかくも戦後まで生きながらえ、晩年の2年余りは寝たり起きたり、認知症の末に没したのは1970年の4月10日、76歳であった。
草野心平が主宰する『歴程』の混沌追悼号は、その年の8月である。
せいは同年の11月から翌々年にかけて『いわき民報』に「菊竹山記」を連載、かつ1971年に歴程社から『暮鳥と混沌』が発刊されるも300部限定であった。
友人らの奔走努力によって、吉野家の畑の一隅に詩碑が立てられたのは、逝去2年後の1972年4月。
心平が酔いと衒いにまかせ、せいの両手を握って「あんたは(自分の作品を)書かねばならない」と命じたのはその除幕式の後であった。
串田孫一が彌生書房の津曲篤子社長の編集顧問だった縁で、同書房から『洟をたらした神』が刊行されたのは1974年11月。
翌年それが田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞し、せいはたちまち時の人となり、『暮鳥と混沌』も同社から再刊された。
せいの死去は1977年11月、享年78であった。

ひとは混沌を生活力なく、家業一切をせいに押し付けてその創作の機会を奪ったように評し、せいもまた憎むことが人間の本性のように書いているが、そのまま受け取るのは過誤というものである。
「夫婦というものはわけがわからない」(佐野洋子)のである。
戦後の農地改革の小作側委員として、混沌は文字通り身を投げ出して福島県全域を歩いた。
せいの浴びた光の影で、混沌の足跡を解明しようとする者は、いまだ不在である。

下掲は『歴程』三野混沌追悼号掲載写真と、「菊竹山」エリアが描かれた最古と最新の2万5千分1地形図「常磐湯本」の一部。

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地図上は1976年測量・現地調査(ただし使用空中写真は1973年)・発行、下は2018調製・発行図。
菊竹山頂は両図の上辺中央、三角点105.3メートル。
吉野宅は、同「沢小谷」の「小」の文字の北、送電線との間の一軒家。
「沢小谷」の文字の東方(右)の卍マークは、菊竹山の元地主にして吉野家の墓のある龍雲寺である。

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三野混沌の詩碑

「その角を左にまがって、つきあたりを右」を念頭に歩くと、奥の人家の庭先にそれらしきものが目についた。
新藤謙の『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(1978年)239ページ掲載写真を見ていなかったら気づかなかったかも知れない、結構大きな碑である。

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碑文はご覧の通り「天日燦として焼くが如し 出でゝ働かざる可からず 吉野義也」、草野心平の筆である。
書き文字の評価はさて措き、文が混沌詩の一部分であることは明らかだが、全体はとなるとこれがわからないのである。
吉野せい『洟をたらした神』の1篇「信といえるなら」は碑の建立にまつわる話だが、碑文そのものには言及しない。
同『『暮鳥と混沌』(1975年)の本文にも、巻末の「跋」「三野混沌の葬儀に列す」「混沌忌」(以上3篇、心平執筆)にも、これに触れるところない。
三野混沌が詩を書いていたことは確かで、しかもその量たるや膨大なものだったと思われるが、正面からそれをとりあげ論評しようとする者はいないらしい。

手をつくして調べると、山村暮鳥の詩集『梢の巣にて』(1921年)にそれは見出された。
そのなかの1篇、「荘厳なる苦悩者の頌栄」という160ページから253ページにわたる長詩のタイトルの傍らに、小さな活字で「天日燦として焼くがごとし、いでて働かざる可からず ーヨシノ・ヨシヤー」が添えられていたのである。

せいの『暮鳥と混沌』巻末の「山村暮鳥・三野混沌 略年譜」には「混沌のノートから暮鳥はときどき詩やことばを抜き出して『いばらき新聞』へ掲載した。「止してください」「おそれるな」という会話がくりかえされた」(144ページ)と記す。
また詩誌『歴程』の143号(1970年8月、三野混沌追悼号)の、せいの手になる「三野混沌略歴」の「大正八年」(1919年)の項には、「詩稿を浄書してまとめる。「太陽はひとりで輝く」」とあるから、あるいは暮鳥はそこからとりだして自分の詩のタイトル部に添えたのかも知れない。
混沌の詩集として刊行されたものは『ここの主人は誰なのかわからない』(1932年)と『阿武隈の雲』(1954年)のほかには、薄い『開墾者』(1926年)があるだけで、それらも今日では閲覧も簡単ではなく、またこの碑文と直接かかわりないことは明らかである。

この文を碑に刻もうと決めたのは、草野心平だったろう。
しかし「最初に」、それも建碑(1975年)から半世紀以上も前にepigraph(題詞)としてそれを「選び出した」のは、山村暮鳥だったのである。
また、あるいは百年も前の『いばらき新聞』をめくれば、この言葉がどこかの隅に見出されるのかも知れない。

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水石山

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水石山は常磐線いわき駅の北西約10キロメートル、山頂は標高735メートルで一帯は公園とされ市街全域を眼下にする。
原稿を読んだ串田孫一をして呆然、震撼せしめた、吉野せいの作品集『洟をたらした神』(1975年、彌生書房刊)中の一篇のタイトルでもある。

写真は、いわき市内を流れる好間川(よしまがわ)中流の沢小谷(さわごや)橋から、正面奥右が水石山。
橋柱に1972年11月30日竣工とあるから、1977年11月に78歳で亡くなったせいは、この新しい橋の上で山を望見したこともあったはずである。
先の日曜日、拙著上梓と冬季講座前の隙間、日帰りでいわき(もと平)に出掛けた。
三野混沌(本名吉野義也)の碑を目にしておくためである。

いわき市の観光サイトはそれについて「三野混沌の詩碑 作家・吉野せいの夫であり、農民詩人。せいと共に開墾した菊竹山に詩碑があり、草野心平による揮毫」とし、所在地を「いわき市好間町北好間上野地内」と記すのみ。
google mapにも掲載されない碑で、「北好間上野」はいわき駅から徒歩1時間はかかるらしい。
車ももたず、ライセンスも返上した後期高齢者に頼れるものはバスしかない。

駅前で1時間ほど時間をつぶして乗車、見当をつけた停留所で下り、標高十数メートルの好間川左岸に沿って歩く。
目指すはこの写真の右手、標高104メートルの菊竹山の裾で、同53メートル前後に広がる開拓地の一画である。
「ヒートテック」の汗に濡れながら600メートルほどの坂道を上りきったのはいいが、さてその碑はどのあたりか。
上野地区の公民館を頼りとするも、それ以外は一向に分からない。
傍らの空き地で飼い猫を遊ばせていたらしい女性に「石碑」について尋ねると、「吉野せいさんの」と言って教えてくれた。
ああやはり三野混沌の、ではないのだな。

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山葵の花

知人が奥多摩でワサビ栽培に従事して、15年ほどか。
昨年はよい出来で都知事賞ももらい、その祝いと再婚新居披露も兼ねた新年餅つきに招かれた。
ご丁寧なお土産は伸し餅とワサビ。
もらったワサビを堪能した後、首のところを水栽培したら白い小さな花が咲いた。

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ワサビ栽培は山仕事だから、助けになるか邪魔になるかわからないが、そのうちまた訪ねてみたい。
足腰がまだ立つうちに。

ちなみに女房は葉付大根を買ってきて葉でフリカケをつくり、首のところはワサビのように水栽培し、新葉が出揃ったところでベランダのプランターに植えている。

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21世紀四半期節目のご挨拶

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65万3千㎡の広さで東村山市、小平市、東久留米市の3市にまたがる都立小平霊園は、西武新宿線小平駅から徒歩6分のアクセスで1948年に開園。小川未明、壷井栄、加藤周一、伊藤整、宮本百合子らが眠る。競争率約80倍のところ初回の応募で連れ合い共に合葬墓の使用権を得た。写真右上の森は小平霊園内の保存樹林地「さいかち窪」で、東久留米市の称のゆかりとなった黒目川の源流地。(2024年9月15日撮影)

        *         *         *           

2024年も束の間の如く、知人の訃報がつづき拙著『追悼自余 増訂版』を7月に上梓しました。早稲田大学エクステンションセンターでの年4回の講座「23区の微地形」はようやく16番目の豊島区まで終了、完結まであと2年ほどのところに漕ぎ付けました。この2月初めには、雑誌連載を改編増補した拙著『武蔵野地図学序説』が創元社から出版される予定です。

皆様のご自愛とご清祥そして変わらぬご厚誼を念じ上げます。

2025/01/01

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谷川俊太郎さん

近ごろ音沙汰ないように思っていたら、ついに逝かれてしまった。

詩人といえば、およそは自惚れ気取り屋というのが相場だが、谷川さんは違っていた。
岩波文庫の『自選 谷川俊太郎詩集』の解説ならびに年譜執筆者でもある山田馨さん(故人)を通じて、小社刊行の詩集(佐山則夫著『國安』)と拙著(『地図・場所・記憶』)をお渡しした。
すぐに下掲のような手紙をいただいた。
「中央」や「詩壇」に属せず、独特の詩をつくり続けている無名者の作品を、鼻であしらうことなく真向から評価してくださった。
まことに稀有な詩人である。

山田さんに訊いたら、宣伝用に使ってと言っていたという。
あらためてお礼申し上げ、ご冥福をお祈りする。

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近 況

高温高湿日々奄々、如何お過ごしでしょうか。
たまには近況をと、以下雑文をしたためます。

一昨年より身辺に訃報いや増すの状況。
対して「墓要らぬ骨は捐(す)つべし冬銀河」などと嘯いていましたが、夫と同じ墓には入りたくないと都立霊園に応募したら倍率70倍以上、けれども4度目の正直つまり4年がかりで抽選に当たったという方の話を聞き、当たらなくてもともととインターネットで申し込んだところ、一発当選。
公益財団法人東京都公園協会からのメールでした。
ただし貧乏人用の「合葬墓」で、女房と二人分の生前応募。
使用料(埋葬料)11万2千円、毎年の管理料はゼロの区画です。

都立霊園には、青山、谷中、染井、雑司ヶ谷、多磨、小平、八王子、八柱と8カ所あって「公園」を兼ね散策に相応しい。
ただし「使用料」(年間の管理料は別)はこの順に安くなる。
つまり青山霊園がいちばんお高くて、見栄を張るには約1千万円が必要です。
こちらがあたったのは至近の小平霊園の芝生(合葬墓)で、小平霊園は40年以上昔の日曜日は娘を自転車にのせてよく行ったところ。
園内65万平方メートルのなかには植木等さん、小川未明さん、加藤周一さん、角川源義さん、壷井栄さん、宮本百合子さん、有吉佐和子さん、伊藤整さんその他大勢眠っていらっしゃる。
私の好きな「さいかち窪」の森(黒目川の源流)もある。

ついては腰折れ「震災忌墓は合葬手配済」。
「合葬」は上野の彰義隊戦争を描いた杉浦日向子の漫画のタイトルでした。
あれは文字通りの傑作でしたね。

傑作には程遠いですが、7月末を8月末に延ばしてもらってやっと仕上げた拙著は遅くとも来春には本になるでしょう。
題して『武蔵野地図学序説』(角川文化振興財団発行『武蔵野樹林』に連載したものを改訂増補)。
版元は創元社です。
半世紀以上前に陸奥国分寺域から出て来て、武蔵国分寺近辺に居付き、最期は武蔵野の土に混じるわけです。
それまでに、もう何冊か。
そして霊園散歩も。

(以下『追悼自余 増訂版』〈2024年7月30日刊〉から、増補部=最終章を掲げる)

徐京植(以下Kとする)の訃報メールが届いたのは本書初版刊行から約1月後の12月20日だった。パートナーからのメールの引用で「18日に2人で温泉に行き、別々に風呂に入っていたところ、出てこないので見に行ったら、湯船で亡くなった状態だった」とあった。メディア等の短報はその前後であった。私にメールをくれたのは、Kとは高校以来の同級生である。我々は大学が同じで、私とKとの濃密な付き合いは彼が一年生のときから数年ほど、その後は折に触れて顔を合わせるのみであったが、ある日倶に天を戴かずと定めて歳二旬を過ぎた。その判定を悔いることはなく、むしろ思いは増幅した(その一端は2015年10月29日のブログに書きつけた)。以下、記憶をたぐりその所以を書き遺してしておく。

Kはレーニンを信奉していた。大学入りたてで『国家と革命』(レーニン)を読み興奮していた彼は、これほど「明快で突き抜けた」論理はないと私に言った。ちなみに「突き抜け」は、後々まで彼の口吻のひとつであった。すでに『レーニンから疑え』(三浦つとむ)を読んでいた私は、「そうかい」とだけ応えた。そこで争うつもりはなかったからである。以後決して口にすることなきも、Kが心中にレーニンを仰いでいたことは確かである。ちなみに『国家と革命』の中身は、社会民主主義者(カウツキー)への攻撃、すなわち「革命」の貫徹には「暴力」と「独裁」そして「抑圧」が不可欠であるとの言い募りである。その言の裏に厳然と横たわるのは、「科学」を装った「ルサンチマン」と「悪意」である。

Kは後年その言説と著作をもって、あらゆる「抑圧」と「暴力」を告発していたように見られている。最晩年には「真実」を追求しつづけるとも宣言した。しかしその言から見事に除外されていたのは、「北」のそれらであった。

彼は日本社会においてその思惑を為し遂げるために、ヒューマニズムとキリスト教(界)とを徹底的に利用した。しかしそれらは彼にとっては手段にすぎず、帝国主義ないし植民地主義の偽善として軽蔑し、唾棄さえしていたのである。例えば、「良心の囚人」を救援する国際組織「アムネスティ」の、当時できたばかりの日本事務局の責任者だったグレース・S(女性)を、アメリカン・プロレス界の日本人ヒール(悪役)として知られていたグレート東郷になぞらえ、陰で「グレート・S」と呼んで嘲笑していた。金芝河作品の翻訳者ペンネーム「井出愚樹」も愚弄して止まなかった。

後のことだが、出版界では知られた老編集者のMは、Kに入れ込み興したばかりの自社の顧問格とし、その書きものを上梓したうえにPR冊子の執筆から編集までを任せていた。しかしある女性編集者は、喫茶店でKがMの名を盛んに呼び捨てにして誰かと話し込んでいるのを偶然耳にし、吃驚してその様子を私に「報告」に及んだ。晩年のMの言は「Kとは二度と会うことはない。その理由は言いたくない」であった。さらに、タクシーの老運転手が「帰りなので、反対方向になるから」と渋るのを「つべこべ言わずに行け」とドスを効かせた現場を目にもした。そのようなKの素顔を知っているのは、私を含めてごく少数だろう。しかしその一端を見知ったとしても、「善意」や「正義感」はそこから先の推考を遮断するだろう。「倫理スターリニスト」とは、私がKに付けた苦肉の綽名であった。
「差別と抑圧」を「関係の絶対性」にすりかえ、そこから見下すのがKの文法であった。Kは自ら依拠する「正義」と「才気」によって、逆に捕えられたのである。

「学園スパイ団事件」摘発(1971年)の結果、死刑を求刑された彼の兄二人は「良心の囚人」などではなかった。「北も南もわが祖国」は、詭弁であった。秘密裡に「入北」し、「訓練」を受け、「北」の秘かな「媒介者」として学生に戻ったのである。兄の一人が獄中でなお言明したように、彼らが「主義」を「希望」とも「未来」とも信じていたのは、まぎれもない事実である。文字通り「良心の囚人」であった文学者の金芝河とは、根本から違っていた。

高校1年で朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)を読み、日朝協会の「朝鮮語講座」で「ウリナラヌン(我々の国は)サフェジュイナライダ(社会主義国です)」を最初に覚えた私にとって、日本帝国主義の罪責を告発しそれに対峙する「北」は正統正義の清潔な政府で、「南」は日米の傀儡、腐敗した軍事独裁政権であった。
学生運動退潮期、当時W大学の文学部の近くにあった「ジャルダン」という名の喫茶店で、恋人に擬していたサークルの先輩から「もし本当のスパイだったらどうするの」と訊ねられて、私は「それでもやる(救援する)」と即答した。「そうなのね」と言っただけだが、聡明な彼女はそれがヒューマンな人命救出を装った政治運動にほかならないことを一瞬にして悟ったようだった。私はKを通じて「北」に係属する途を選んだのだ。

Kは2人の兄の「救援運動」の実際の「キャップ」であった。その組織は気心の知れたKの高校時代同窓生と大学至近にあった2つのキリスト教系自治寮生を核としていた。私は後者に属していた。後者の「寮」は、格好のアジトの役割も果たしていた。Kの言い草を借りれば、組織のメンバーは「高麗ネズミのように」走り回った。世界的な学生運動の熱気がまだ尾をひいていた時分、「無実の政治犯」の「命」が懸かっているという煽りは、個々人を無償の行為に走らせるのに十分であった。我々は日本社会の各層に取り付き、また印刷物を大量に担いで全国行脚も行ったのである。Kの兄の、むごたらしい火傷跡の顔写真は何より強力な「道具」となった。「軍事独裁政権」と拷問はイメージのうえで瞬時に結び付いたからである。「北」にとってこれほど有利な「素材」は他になかったろう。しかし、本書95ページの例を挙げるまでもなく、顔の火傷がプロの拷問の結果であるはずはなかった。厳冬期、室内に置かれていた石油ストーブの油を被って自殺を図ったという本人の言明はその通りだろう。彼らが受けた「訓練」のなかには、逮捕された場合の対処法もあったはずである。1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯の一人(男)が服毒自殺し、もう一人(女)がそれに失敗して身柄確保された事例を挙げるまでもないだろう。いま顧みれば、韓国の「軍事独裁政権」はそうした彼らを公開裁判に付すほどに「民主的」だったのである。

5人兄弟のKの長兄は当時すでに在日の実業家で、弟の救援運動の背後にいたのだが、その彼とKがベトナム戦争の「南」の「逆性拷問」つまり自白させるために「とんでもない美人を独房に入れる」事例について、「怖ろし気」に話していたのを耳にしたこともある。またベトナム戦争に関連して「サイゴン陥落」と言ったところ、末妹からただちに「サイゴン解放」と訂正されたのも記憶に残る。

Kは某教育大学付属高等学校では仲間をさそって自称「神童クラブ」を組織し、もっぱらバスケットボールに興じる一方、文芸部に属して阿佐田哲也などを読み耽り、秘かに「作家」の道を歩まんとしていた。後の救援組織内の彼のコードネーム「力石」は、当時熱狂的に読まれた『少年マガジン』の「明日のジョー」に由来するし、教職に就いてなお「作家」を自称したことは象徴的である。彼の本領は、同窓生でもインテリ相手でも、効果の的を絞って取り込む「虚構の工作」にあった。
そのエリート校にも学園紛争の波は及び、生徒の一団は教員室などを占拠して「内申書」をばら撒いた。Kの内申書に書かれていた「策士」の語は、彼が「在日」であったことと相俟って「糾弾」のまたとない素材となった。校長らがKの自宅へ「謝罪」に向かった。小さな「文化大革命」が現出したのである。
とまれ、「策士」と書きつけた教師が慧眼の持主であったのか、Kが策謀を巡らせ口説をもって教室のヘゲモニーを握る態度が著しかったのか。多分後者であろう。その「闘争」には直接かかわらなかったKとその家族は、校長らに鷹揚に対応しながら、日本社会における「差別」の語の威力とともに在日の「逆優位」をあらためて確認しただろう。この体験は後のKの争論における定型である「弱者の脅迫」、すなわち倫理的恫喝を武器とした「文化小革命パターン」をつちかったのである。

「救援運動」の行方は、報道メディア等で知られている通りで、兄らは何年かを獄中で過ごした後に釈放された。wikipediaによれば「事件」は「捏造」だったとされる。しかし「入北」は事実であった。「救援運動」は、兄らの「良心の囚人」という「イメージの捏造」に挺身したのである。
Kは兄の「救援運動」を通じて、とりわけ日本の「善意左翼」とそれに同調するジャーナリズムに喰い込んだ。すると彼らはKとその兄をある種の「象徴」にまで祭りあげたのである。虚構は虚構を産む。Kはその結果と得意の口説をもって、学問上の業績がゼロであるにもかかわらず東京郊外の某私立大学の講師から教授におさまった。しかし私は全く偶然に、同じ大学の客員教授として招聘されたのである。
2015年4月、同大学キャンパスの地形学習のため学生を引率していた折、通り掛ったKは横から睨(ね)め付けるような目で「驚いたな」と声を掛けてきた。それは私が彼にそのまま言いたかった科白だったが、「授業中だ」とだけ応えて、退けた。還暦を過ぎたKの顔はあきらかな悪相に変じ、その体軀もワインやグルメに馴染んだ格好であった。大学至近の駅で出会った時は「雑誌を主宰しているが、注釈付きの文章(論文)は得意でない」と自慢しつつ下手に出、手助けを求められたが、即座に断った。彼の主宰する「国際シンポジウム」もどきの催しも無視し、互いの研究室を訪ねることもついに無かったのである。

しかしながら恥をさらせば、「救援運動」から離脱した後も、しばらく私はKとその兄たちを対象化することができずにいた。Kの最初期の著作『子どもの涙』(1995年)は、私が主宰する雑誌に連載執筆させ、それを単行本としたものである。彼の唯一の受賞(日本エッセイストクラブ賞)はその結果であった。たしかに作家志望だけあって、俗情の琴線ツボを心得た文章であった。その私の「離脱」の理由はといえば、おおよそ次のようなものであった。

「自我抑壓の努力は、その裏に課せられた他我への奉仕と愛情と、自卑と謙穰とへの努力にもかゝはらず、かへつて抑壓された自我を己れに謀反せしめ、他我への憎悪を育ましめる結果となつた」(福田恒存「嘉村礒多」)。

Kの死の顛末を知った時、まっ先に思い出したのは数十年前、古都の郊外にあったKの実家に泊った時のことである。橋を渡った先の小さな銭湯の熱い浴槽を出た後で、彼は誇らし気に「こうすれば風邪をひかないんだ」と言って、手桶で冷水を被ったのである。晩年にまでその習いがつづいたとは思えないが、温泉の湯壺からあがったときのヒート・ショックが死のトリガーだったことは間違いない。

本書第3章「善意と正義の行方」は、Kに対する私の生前告別であった。
ここにあらためて用意したKへの悼辞は、よく知られた次の章句である。
私が言いたいことはこれに尽きる。
然らば、Kよ。

「善人なほもつて、往生を遂ぐ。況んや、悪人をや」。

追記
本章の素稿を読んだ友人のひとりは、Kの半生の科誤は困難な前線に立つことなく、メディアと評論空間に棲息して前線のもっともナイーブなところを狙って攻撃したことにあると指摘した。
私見では、善意のハイブロウ攻撃は意図的なもので、効果的な逆転演技であった。Kは「徐京植」を擬制したのである。

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