1月 1st, 2024
2024年はじめ
麻布がま池谷の谷頭付近右岸から、私が「奇跡の谷」と名付けた非再開発木造住宅地を眼下に、六本木ヒルズレジデンス2棟と同森タワーを望む。撮影地の背後左手奥にはキノコ型の元麻布ヒルズフォレストタワーが佇立。このスポットは2024年日本地理学会春季大会の巡見(3月21日午前案内)コースに組込まれている。(2023年11月25日撮影)
麻布がま池谷の谷頭付近右岸から、私が「奇跡の谷」と名付けた非再開発木造住宅地を眼下に、六本木ヒルズレジデンス2棟と同森タワーを望む。撮影地の背後左手奥にはキノコ型の元麻布ヒルズフォレストタワーが佇立。このスポットは2024年日本地理学会春季大会の巡見(3月21日午前案内)コースに組込まれている。(2023年11月25日撮影)
極少部数と高原価率のため、先月末刊行の『追悼自余』はAmazonや一般書店では買えないとアナウンスしたが、都内2ヵ所で購入可能である。
ひとつは新宿ゴールデン街の「ナベサン」、もうひとつは吉祥寺の「茶房 武蔵野文庫」で、それぞれ10冊ずつ置いてもらっている。
今回は後者「茶房 武蔵野文庫」について、触れておこう。
そこの経営者にしてマスターの日下茂氏は小・中学校の同窓生。
といっても1学年上で、大学でも同窓となった。
彼は早稲田大学南門の先にあった「茶房 早稲田文庫」でアルバイトをしていたのである。
その喫茶店は土間と中庭をもつ一軒家で、文人や学生サークルの溜まり場であった。
早稲田の国文出身の冨安龍雄氏が妻都子(くにこ)氏とともに、1951(昭和26)年頃にはじめた店であった。
惜しくも1984(昭和59)年11月に閉店したが、翌年6月にそれを引き継ぐ形で日下茂氏とその妻真木子氏が吉祥寺の東急裏に開いたのが「茶房 武蔵野文庫」である。
こちらは残念ながら土間や中庭はないが、上掲2店の写真を見較べると同じものが写っているのがわかるだろう。
わたしの心/の大空に/舞ひ狂ふ/はるかなる/残凧/舞ひあがれ/舞ひあがれ/わたしの心の/大空たかく/舞ひあがれ/井伏鱒二
井伏の墨筆である。
井伏鱒二(1898-1993)は1967(昭和42)年7月から12月まで26回にわたって、店とその主人をモデルの一部として、『週刊新潮』に「友達座連中」という作品を書いた。
「友達座」という架空の学生演劇サークルの話だが、「茶房 早稲田文庫」は「テアトロ茶房」、富安氏は安田氏、早稲田大学は「L大学」の名で登場する。
以下はその描写の一部である。
テアトロ茶房という店は、普通の喫茶店とは少し違っている。入口は木造の扉(ドア)になっているが、建築雑誌などに写真で出ているお茶屋の玄関先のように、筧の水が絶えず流れこむ石の手水鉢が店先に据えてある。その鉢前には羊葉や蔦などをあしらって、釣竿にすればいいような竹を目隠しに植え、ごみごみしたこの横丁ではちょっと風変わりな店先の構えになっている。/店のなかは、コーヒースタンドのある土間が鉤の手になって、夏冬の区別なく大きな囲炉裏に自在鉤で茶釜が吊してある。/土間の裏に出ると、淡竹(はちく)を疎らに植えて田舎の藪のほとりの感じを出した中庭がある。これが裏手の二つの座敷に行く通い路を兼ねている。たいていクラブ活動の討論会や研究会など聞きにここに来る学生は、この竹藪のほとりを飛石づたいに裏の座敷に入っていく。/この店の主人は頭が半分以上も禿げている。戦前のL大学文学部の出身だが、戦後、焼け残りのこの家を仮住いにして映画会社へ勤めながら、遊びに来る学生たちに自分の蔵書を自由に読ましていた。たぶん勤めが面白くなかったのだろう。間もなく勤めを止すと、家を改造して喫茶店の商売を始めたのだそうだ。/学生たちはこの主人のことを、小父さんまたは安田さんと云っている。主人の方は学校の大先輩のつもりだから、学生たちに対して客扱いの言葉を使わない。
小説「友達座連中」は、前半に女性の顔の整形手術を、後半は山梨県観光案内めいた釣話をメイン素材とし、学生サークルが唐突に解散して終わる失敗作だが、上掲のように在りし日の「茶房」の素敵なたたずまいのスケッチをはさんでいて、貴重である。
ぼんやり見てゐた私はその時、その中洲の上にふと一つの生き物を発見した。はじめは土塊(つちくれ)だとさへ思はなかつたのだが、のろのろとそれが動きだしたので、気がついたのである。気をとめて見るとそれは赤蛙だつた。赤蛙としてもずゐぶん大きい方にちがひない、ヒキガヘルの小ぶりなのぐらゐはあつた。秋の陽に背なかを干してゐたのかも知れない。しかし背なかは水に濡れてゐるやうで、その赤褐色はかなりあざやかだつた。それが重さうに尻をあげて、ゆつくりゆつくり向うの流れの方に歩いて行くのだつた。赤蛙は洲の岸まで来た。彼はそこでとまつた。一休止したと思ふと、彼はざんぶとばかり、その浅いが速い流れのなかに飛びこんだ。
それはいかにもざんぶとばかりといふにふさはしい飛び込み方だつた。いかにも跳躍力のありさうな長い後肢が、土か空間かを目にもとまらぬ速さで蹴つてピンと一直線に張つたと見ると、もう流れのかなり先へ飛び込んでゐた。さつきのあの尻の重さうな、のろのろとした、ダルな感じからはおよそかけはなれたものであつた。私は目のさめるやうな気持だつた。遠道(とほみち)に疲れたその時の貧血的な気分ばかりではなく、この数日来の晴ればれしない気分のなかに、新鮮な風穴が通つたやうな感じだつた。
上掲は高等学校の教科書などにも屡々採用される島木健作(本名朝倉菊雄、1903年9月7日 - 1945年8月17日)の短編、「赤蛙」の一部である。
この文章が頭の片隅にでもあれば、次のような珍説が飛び出す余地はなかったのである。
ところで、「蛙が水に飛び込む音」を聴いた人がいるだろうか。/この句が読まれたのは深川であるから、私はたびたび、芭蕉庵を訪れ、隅田川や小名木川沿いを歩いて、蛙をさがした。清澄庭園には「古池や・・・」の句碑が立ち、池には蛙がいる。春の一日を清澄庭園ですごし、蛙が飛び込む音を聴こうとしたが、聴こえなかった。/蛙はいるのに飛び込む音はしない。蛙は池の上から音をたてて飛び込まない。池の端より這うようにスルーッと水中に入っていく。/蛙が池に飛び込むのは、ヘビなどの天敵や人間に襲われそうになったときだけである。絶体絶命のときだけ、ジャンプして水中に飛び込むのである。それも音をたてずにするりと水中にもぐりこむ。/ということは、芭蕉が聴いた音は幻聴ではなかろうか。あるいは聴きもしなかったのに、観念として「飛び込む音」を創作してしまった。世界的に有名な「古池や・・・」は、写生ではなく、フィクションであったことに気がついた。/多くの人が「蛙が飛び込む音を聴いた」と錯覚しているのは、まず、芭蕉の句が先入観として入っているためと思われる。それほどに蛙の句は、日本人の頭にしみこんでしまった。事実よりも虚構が先行した。(嵐山光三郎『超訳芭蕉百句』pp.108-109, 2022)
上掲は本日刊行、製本150部の文庫本である。
部数としては前世紀の「ガリ版印刷」以下のレベルだろう。
製作費を最小限に収めた結果だが、目いっぱいの価格(本体1000円)を付しても、原価率は50%である。
つまり正味6割、送料版元持ちのAmazonはもちろんのこと、正味7割の一般書店でも販売は不可能であるから、ISBN(978-4-902695-38-0)やCコード(0195)は付したものの、直売しか手段はない。
つまり直売以外は行わない。
150部のの3割は献本に費やさざるを得ず、残り100部が直販完売してようやく原価回収となる。
それが達成できることを祈るほかない。
もちろん献本先からも「投げ銭」はもろ手を挙げて歓迎したいが、さて。
わたしたちはいま、わたしたち自身が現に生き、活動している生活の舞台を、地域や国家などの概念をとびこして、直接にひとつの惑星の部分として具体的にイメージし、たしかめることができるようになっている。これはもちろん人工衛星などの科学技術の発達によるところがおおきいのだが、また、あたらしく普及した地球生態系的世界像の産物ともいえる。
これは、人間が自分の姿を可能なかぎり遠距離から、また可能なかぎり直接にかえりみる手段をもつことができるようになったということである。そして、そこにみとめたのは「自然」としての文明の姿であった。その意味では、地図というものを、現代ではまったくあたらしい視点から見なおさざるをえないようになってきているのではないか。
フィールド・ワークをもとに思考をくみたててきたわたしは、地図を不可欠の道具として利用してきた。それは、単に道案内のためではなく、ひとつの自然像、ひとつの文明像を把握するための材料としてきたのである。地図はわたしにとっては、ひとつの「博物館」であった。
今回、柏書房から発行される『日本近代都市変遷地図集成』は、道具としての役わりを終えたふるい地図を、あらたに編成し直すことによって、わたしたちの生活の舞台である都市を、今日までの約100年の時間距離のなかでとらえなおすこころみといえるだろう。
古地図は資料であると同時に美術品である。個人や機関に分散して秘蔵されているため、博物館や図書館でも一定地域のものを系統的に紹介するのは容易ではない。今回の出版のように、都市の変遷を示す材料として集成された例はすくない。日本の都市文明の足どりを、あらたな視角から見なおす作業をいざなうものとして、このアトラスはひとつの知的生産の出発点となろう。
以上の文章は、『梅棹忠夫著作集 第21巻』(1993年)のpp.304-305に収録されている「『日本近代都市変遷地図集成』―すいせん文」の全文である。
梅棹忠夫氏(1920‐2010)は生態学や人類学で独自の学問を切り開いた著名な学者で、最初期の著作『モゴール族探検記』(1956年)もベストセラーとなって、そのころ小学校高学年か中学生であった私も読んだ記憶がある。
この「すいせん文」は、1987年に柏書房から刊行した『日本近代都市変遷地図集成』の「内容見本」に収載したもので、当時柏書房から刊行されていた大型地図資料は私がほどんど一人で編集し、推薦文も私が電話で直接依頼したのである。
しかし梅棹氏は原因不明の病により1986年3月にはほぼ失明状態となっていて、推薦文は文案を書いて送れとの指示であった。
おそらく秘書役の人がそれを読んで聞かせたのであろう。
文章は加除訂正なしでOKとなり、内容見本は無事刷り上がった。
その3ページに掲げられた梅棹推薦文のタイトルは「系統的に編集された知的生産の出発点」で、これも私が付けたものであった。
その何年か後、これも秘書役の男性だったと思うが、電話で、かの推薦文は著作集に入れたいと言うので、嫌も応もなく了承した。
いずれにしても上掲の文章は、私の筆になるものである。
いま読みかえしてみると梅棹氏の著作よりも、『試行』に連載されていた吉本隆明氏の「ハイイメージ論」(後単行本、文庫本)の影響が大きいようだが、しかしイメージそれ自体は、以前から私が「ヒト群落」について思い描いていたことに端を発している。
文中の「「自然」としての文明の姿」とは、実は1972年頃離陸する飛行機の窓から見た、光るスモッグドームに覆われた大阪圏の姿であって、露骨に言えば微細な虫の巨大コロニーないし地表の腫瘍というイメージにほかならないのである。
ヒトが地上に生きるエリアとその態様は、とりわけこの100年の間に劇的に変化した。
「アントロポセン」が提唱される所以である。
知人の編著で上掲の本が上梓された。
宮田浩介編著、小畑和香子・南村多津恵・早川洋平著。学芸出版社から2023年11月10日刊、2400円。
「車中心の100年で失われた人のための街路」をとりもどす、ために。
スポーツや趣味、スタイルとしてのサイクル文化ではなく、すべての人のための自転車インフラを目指して。
そのような編著者らの主張とその実現への努力に、惜しみない賛意と敬意を呈したい。
そのあとがきの一部を以下に掲げる。
「初めて自転車に乗れた時のこと、左右のペダルの推進力をつなげ、ついに「離陸」した瞬間を覚えているだろうか。自転車は人にささやかな羽を与え、人を世界から切り離すことなく、世界を新たに発見させる。それは子どもでも使える身近な魔法であり、日常の中の祝祭である。/本書で目指したのは、「人」から出発して自転車の街を語ることだ。ただ通り抜けるだけではない。人が世界に触れ社会に関わっていく場としての道を増やそうと考えた時、想像力のキャンパスに描かれる人々のそばには、おのずと自転車の姿が浮かび上がってくるはずだ。(略)私たちの「公共」体験の大部分をなす日々の移動。その形態は、なによりもまちと社会の構造に強く決定づけられ、反復が他の可能性を忘れさせている。(略)なすべきことはあまりにも多いが、漕いでいる限り倒れはしないし、どこかで追い風も吹き、光も射すだろう」
蛇足だが、この本に目を通しながら思い出したのは、バスに乗ると目にする「自転車は乗ったらあなたもドライバー」という575標語。
この本で紹介されているような世界的な環境整備の動きに気付くと、これはその経路をネグレクトして、当面は自転車に乗る側に責任を押し付けて済まそうとする、手抜きのための標語に見えてくるのである。
前回紹介した当該書にかかわる雑誌記事を、以下順番に紹介する。
まずは初刷り刊行ほぼ1月後の『朝日ジャーナル』誌1964年12月13日号の書評である。
「自然をかえてゆく人工」
最近のわが国経済のいわゆる高度成長にともない、国土ははげしく変貌しつつある。その様相は、とくに大都市においてはげしい。土木技術の進歩により、従来は考えられなかった大規模工事が可能となった。それで都市の再開発は、都市の顔を見違えるほど変えてしまうようになった。変わってゆくのは顔のみではない。地盤沈下によく象徴されるように、現代都市の深部では、自然そのものさえ変質しているのである。
「現在ならびに将来の東京は、人工が自然改変の第一の力となり、それによって良くも悪くも改変されると考えられる。そしてどのような改変が良い改変なのかは、東京の自然の深い理解と考慮の上に求めねばならないだろう。また、東京の土地利用は、家屋密集地ほど地盤が悪く、水害や火災の危険にさらされている、といった面が少なくない。このような土地の不合理な利用を改めることも東京の重要課題であろう」と著者は主張する。
東京の地形・地質
東京湾満潮位以下のいわゆる0メートル地帯は、国電環状線内の面積よりも広い。この低地は、過去約千ないし二千年間に、主に自然の運び出す土砂で埋立てられ陸となったのに、それがわずか五〇年間に再び海面以下の土地となってしまった。この一例でも、これからの東京開発には、土地の性質をよく知って、長期の見通しを持つ必要がある。このような立場で、著者は、現在の東京の自然がどのようにしてできたかを、数多くの学術文献、官庁の地盤や地質調査報告などに基づいて、じゅんじゅんと解説する。
全編は、(一)東京の自然、(二)武蔵野台地の土地と水、(三)氷河時代の東京、(四)下町低地の土地と災害、(五)東京湾の生いたち、(六)むすび、より成る。東京都民にとってなじみ深い各地点の地形・地質とその成因が、本書を通読すると、一通りはっきりしてくる。しろうとにはややわかりにくい学術用語も散見されるが、説明はていねいであり、多くのわかりやすい地質断面図などの図形が五三もあり、理解を大いに助けている。とくに武蔵野台地の地形・地質とその発達史的解説、関東ローム層の分布や厚さとその生成発達に関する詳細な解説は、著者ならではの念の入ったものである。
これらの説明が、国電や私鉄の車窓からの視角にも注意を払っているので、一読後、東京の工事現場や車外の景色をながめるのが、だれでも非常に興味深くなるに違いない。山手にはなぜ坂が多いのか。むかしの富士見の名所。隅田川以東にはなぜ高層ビルが少ないのか。地震の被害はどんな地層の場所で多いのか、といったさまざまの疑問は、本書によって地形・地質的にはっきりと知ることができるであろう。
開発計画への忠告
しかし、本書の意図は、そのような地学的興味を満たすためではなく、冒頭の引用にもあるように、これから人為的に激しく変革すると予想される東京の開発計画に、確実な地学知識の裏付けがいかに大事であるかを読者に認識させるにあるようだ。
というのは、現在では実際の工事計画者や施工者と、地学および考古学者らとの連繋ははなはだ不十分であるからだ。たしかに工事に先立ってボーリングなどの調査はかなり行われるようになったし、掘さく中に小判や人骨でも出れば必ず考古学者が出動するであろう。しかし、そのような協力は本質的な協力ではない。宅地造成、地下鉄、地下街、高速道路、マンモス・ビル、などの大工事にともない、最近の東京では、大量の土砂が掘られ、運ばれ、埋められている。しかも、この傾向は今後ますます強くなるであろう。
先進諸国では大きな開発に当っては、計画段階から必ず地学者や考古学者が加わっている。それによって、現在の土地の特性を計画におりこむことができる。のみならず、著者が力説している、地盤沈下などの災害要因を含めて、開発が自然に与える影響も長い目で推測することができるであろう。
著者も指摘しているように、現在の東京では工事などで現れた地学上の重要断面なども、地学者の目にふれず永久に埋めもどされ、学術上貴重な発見があたら失われている例が多い。そのような損失を避けるためにも、これからの開発に当っては、建設技術者と地理学者たちとの密接な協力体制がきわめて望ましい。技術の進歩と経済の発展が、とくに大都市において自然を変えうるようになった現在、それはおそらく都市計画の成否を左右する一要因とさえなるであろう。
その前提として、東京都民なかんずく建設工事などどなんらかの関係のある人びとが、啓蒙書として書かれた本書の内容を常識として体得することが強く望まれる。さらには、将来の東京を築く、高校生や大学生諸君が、この程度を常識として東京の地形を車窓からながめるようになることを希望したい。(東大助教授・高橋 裕)
この時点から59年を経ようとしている。
都市開発と地理・地学との「協力」はどうなったであろうか。
かつての、そしていまの高校生や大学生が、『東京の自然史』の要点を「常識」としているであろうか。
A
自然史というから植生や生態系の変遷についての話かと思った。
タモリ倶楽部で紹介されていたので読んだが、あまりにも理系めいた内容だったため、途中でギブアップ。
専門用語がかなり説明なしで出てくる。
説明図が少なすぎる。(当書にはなく、その後出現した)デジタル標高地形図は(本書の理解に)本当にいい。
一般書としては説明も不十分でかなり読みにくい。
土木技術者で、多少は地形・地質の知識を持つ私からしても、結構苦労した。
B
東京という土地の歴史と現在を書いた決定版。
地理学、地形学の名著。
南関東の地形の成り立ちを知るうえでバイブル的存在。
東京周辺の地形を知るための古典。
防災の観点からも、知っておくとためになるような記述が多々。
どんなふうに東京の地形が形作られたかを知る入門書の決定版。
上掲はいずれも「読書メーター」から標記の本の評価を適宜抄出した。
Aグループは否定的評価、B集合はその反面であるが、Bが紋切型あるいは受売型であるのに対して、Aは具体的で、この本の「一般」に対する立位置を率直に語っている。
上の写真は私蔵の紀伊國屋新書版で、扉には「第二版」とある。
奥付には
1964年10月31日 第1刷発行
1971年7月31日 第10刷発行
1976年2月15日 第1刷発行
と記されているから、第二版の1976年刊本である。
つまり初版から数えれば来年で還暦となるわけだが、その間には本書は2回変身を遂げている。
下の「増補第二版」も私蔵本で紀伊國屋書店版のハードカバーだが、その奥付は
1979年3月15日 第1刷発行
1994年2月28日 第14刷発行
となっていて、初版から30年の間に約30回、つまり平均すれば毎年刷られていた勘定になる。
そうして2011年には、これが文庫本に変身したのである。
下の通り、現在は講談社学術文庫の1冊として入手可能であるが、上掲の評価のうち図版にかかわるものから考えると、文庫もよしあしということにになるだろう。
文庫本は、近隣の書店で確認したかぎりでは、2011年11月1刷、2018年8月15刷であった。
なお本書初版の1964年には高橋裕(河川工学専攻:1927-2021)氏が『朝日ジャーナル』(12月13日号)に紹介、翌年3月岩波の雑誌『科学』で吉川虎雄氏(地形学専攻:1922-2008)が書評した。
また初版から32年後であるが、著者本人(貝塚爽平:1926 - 1998)が雑誌『地理』(1996年6月)に「『東京の自然史』の背景」という文章を認めている。
さらに世紀をまたいで、雑誌『東京人』(2016年5月)が「東京凸凹散歩」特集のなかで取り上げ、「地形学者貝塚爽平の遺したもの」(小林政能氏。ただしそのタイトルは「地形愛好者のバイブル『東京の自然史』)という記事となった。
翌2017年、著者貝塚爽平氏のお弟子の一人である松田磐余氏(現関東学院大学名誉教授)は、3月の法政大学地理学会のシンポジウム「『ブラタモリ』は地理学か?」において「 貝塚爽平著『東京の自然史』から52年」という基調講演を行った。
それぞれは、今日本書を解読する上で、参考となる面をもつだろう。
さて、紀伊國屋書店の単行本には当該書の「姉妹編」が存在する。
そのカバージャケットは、場所こそ違うものの先行本同様迅速測図の刊行図版を用いているが、中味は単著ではなく編著書で、1982年2月初版である。
編者のうち沼田真氏は植物生態学専攻、小原英雄氏は哺乳動物が専門で、両氏を含む22人の執筆文が網羅されている。
つまり前掲評にあるように、「東京の自然史」というタイトルが植物や動物を含む環境史でないことに対応した出版なのである。
以下、この本の編者の「まえがき」は、先行書との関係を伝えている。
紀伊國屋書店から刊行された貝塚爽平著『東京の自然史』は名著の声が高く、その恩恵に浴した人は少なくないであろう。そこでその向こうをはってというわけではないが、それにあやかって、同じくナチュラル・ヒストリーの大きな部分をしめる生物史に焦点をあてて1冊をあもうとしたのが本書である。本書では、地質時代の東京という古いお話からはじめて、江戸と東京をめぐる数々の話題を、それぞれ長年手がけておられる専門の方方に依頼して書いていただいた。(略)本書のような形で生物相や生態系を概観したのはそう多くはない。今の東京といっても、それは1980年代はじめの東京であって、好むと好まざるとにかかわらず生物的自然は変貌していくであろう。終章にも示されているように、東京そのものが変貌していくであろうから、そういう意味では、これは1980年代、あるいは戦後の生物的記念碑といってもよいかもしれない。 1981年12月25日 編者
貝塚著が扱う「地形の時間」は、万年が基本単位である。
片や生物史の変容の時間単位は基本的にはその10分の1以下で、とりわけ20世紀とその末期は幾何級数的様相を示し、「アンソロポセン」が提唱される事態となった。つまり地表の生物相の激変が、地形ならぬ地質の時間を逆照射したのである。
この「姉妹図書」は、「地」と「生」二様の時間を示唆して興味深い。
そうして、こときすでに「名著」の評が存在したのである。
いつ、誰が、何の根拠をもってそう言い出したのかは、まだわからない。
一昨日『トポフィリア』(トゥアン)の文庫本を探しに荻窪の古書店に立寄ったところ、それは見当らず逆に上記が目に入った。
いずれも文庫本だが、タイトルにはそれぞれ別様の懐かしさがあって手に取った。
手には取ったものの棚に戻し、昨日2冊とも図書館で読了した。
「無伴奏」とはかつて仙台にあった、伝説的クラシック喫茶の名である。
40年前の7月7日、ちょうど還暦の誕生日に亡くなった母親から、私はその名を聴いたことがある。
それが何時だったかどんな話だったのか、今となっては記憶の彼方だが、母の声は耳底にかすかに残る。
バロックどころかクラシック音楽にも疎かった母がそれを言うのも妙だが、店の所在がその勤務先(電力ビル)の裏手だったゆえか。
私が仙台の実家を離れ上京したのは1968年の2月で、新聞配達店住込み予備校生としてだった。
だから私にとってクラシック喫茶と言えば、まずは高田馬場駅の近くにあった「あらえびす」(野村胡堂)で、仙台のそれは残念なからついに足を踏み入れることはなかったのである。
1970年頃の仙台を舞台とした小説「無伴奏」は、単行本(1990)から文庫化(1994)そして映画化(2016)と、幸福な経路をたどったようだ。
著者の小池真理子は「短編の名手」と言われるほどの作家らしいが、この歳までいずれとも無縁であった。
そもそも小池真理子と林真理子という人物の区別がつかなかった。
林真理子が日本文藝家協会の理事長になったとき偶然その書いたものを読み、当該者が理事長である組織に所属するのを恥と事務局に通告して協会を退会した経緯で、林真理子という固有名詞をは私の中で識別されることになった。
もう一人のもの書き真理子さんは、今回ようやく「宮城県仙台第三女子高等学校」の3学年下に在籍し、学園闘争で「ゲバルト・ローザ」の称を得たらしいと、私の中でイメージが結ばれたのである。
仙台の県立ナンバースクールは当時第1から第3まで男女別計6校あり、私はそのうちの1校の出なのであった。
懐かしいとはそれだけであって、作者本人とは面識もなくその著作も「無伴奏」以外は知るところがない。
片や「査問」の著者川上徹氏は私より9歳年長、「東大闘争」などでは現実に民青ゲバルト部隊の元締めをつとめた人物だが、出版人としてよく見知った間柄で、8年前の2015年1月今の私と同歳74で亡くなった。
元全学連中央執行委員長、民主青年同盟中央執行委員であり、その人生の一時期は生粋の「職業革命家」であった。
この本はその彼が1972年5月9日、日本共産党本部に呼び出されて約2週間、自殺防止の監視人付監禁状態で「査問」を受け、「自己批判」に追い込まれた事実について本人が書き記したもので、1997年に発刊された。
その本が出たことは当時から知っていたものの、読むことはなかった。
中味の見当はおおよそついたつもりでいたからである。
26年目にしてページをめくると活字を追うのが止められず、一挙に読み終えてしまった。
作品として読ませる勢いは「無伴奏」も同レベルと言ってよく、結果的に2冊を一気読みするこことになったが、一方は当方に場所のなつかしさ(トポフィリア)があるとはいえフィクション、他方はノンフィクション、質量の位相が異なる。
「無伴奏」は恋愛ものであるが推理小説仕立て(もっとも小池真理子氏は推理小説作家ということだが)で、ストーリーは映画に相応しいものかもしれない。
しかし読み手にとってはネタバレも早く、殺人の設定はリアリティが薄い。
「ソドミ」などという言葉も、今日となってはこの作品の生命を短いものにしたと言えるだろう。
「査問」のほうは、あらためて考えさせられることが多く、また大きい。
同居していた川上氏の両親は、戦前の治安維持法下に逮捕・投獄の経験をもち、根っからの「共産党シンパ」であったにもかかわらず、本人の「失踪」から12日目、党本部に呼び出された川上氏の妻の帰宅を待って電話をし「これから人権擁護委員会に電話する」と通告したという。
党派内の論理では「ブルジョア国家」の論理(人権)や機関(―委員会)に頼るとは何事か、ということになるだろうが、この電話は「効いた」のである。
30分もしないうちに党本部から幹部2人が到着して、「間もなく帰る」「党の立場を分かってほしい」と弁明これつとめ、実際川上氏もその2日後に「釈放」された。
「籠る」ことが条件だった。「消され」なかったのは幸いであった。
それでもしかし川上氏は党員でありつづけた。逡巡に逡巡を重ねたと書いているが、離党したのは「査問」から18年後の1990年の11月。
それも党中央委員会からの呼び出しに応じてその「除籍」通告を受け入れたのであって、持参した「離党届」は出さないままだったという。
律儀というべきか人が好いというべきか。
ただし、「査問」は川上氏本人も行う側であった。
第2章「査問する側される側」で披露している、「東大闘争」での「敵方のスパイ」に対する「正義」のリンチは凄惨である。
私は思いきり男の腹を蹴り上げた。
「ウッ」と言って、男は座っていた椅子から転げ落ちた。それを合図に一斉に蹴りが始まった。「顔はヤルな」。私が命じた。
深夜、ふらふらになった男を安田講堂の近くで釈放した、というが「その男」が内臓破裂していなかったとは言えない。
「東大」は1968年だが、1972年11月の早稲田大学構内における革マル派による川口大三郎君リンチ殺人とも、既視感はダブる。
1972年1月から2月にかけて、「連合赤軍」の山岳ベースで行われた「総括」(リンチ)による死者は、20代の男女12人を数えた。
ソビエト連邦の草創期と粛清期、中華人民共和国文化大革命期の犠牲者は莫大な数にのぼり、桁数がまったく異なるけれども、ゲバルトの構造は同一である。
高校生や大学生の「運動」は、紅衛兵のようなあからさまな背後権威(毛沢東)をもたず、「全共闘」内部のゲバルトも知られなかったかも知れないが、「其処から此処まで」は一跨ぎである。
ジェルジンスキー(「革命の剣」)を英雄視するのは、誤りである。
絶対的「正義」は、疑うべきである。
正義は、相対に見出される。
民主主義とは、つまるところ相対主義である。
その苦い「価値」をこそ噛みしめるべきである。
相対主義とは、俗に言えば是々非々である。
それは権威が下達する「属人主義」の、対極に位置する「属事主義」である。
事にあたって個として物事を確かめ、受感し、判断する、一連の作用を失わない立場である。
拙稿連載中の『武蔵野樹林』誌が先月末発行された。
ただし巻号なく、メインは現在角川武蔵野ミュージアムで展示中の「体験型古代エジプト展 ツタンカーメンの青春」紹介の別冊図録なのだが、拙稿「武蔵野地図学序説 その9」はそのまま掲載された。
このところ早稲田大学エクステンションセンター夏期講座の準備に時間をとられているため詳細は省き、以下全5ページのうちの最初の1ページを画像とし、また標記の1節のみを掲げる。
地図の定義をめぐって
しかし一般の地図の定義は、「地表の形状を一定の約束に従って一定の面上に図形等で表示した画像」(日本国際地図学会『地図学用語辞典 増補改訂版』1998年)とされ、Wikipediaの同項でも、『ブリタニカ百科事典』を引用して「地球表面の一部または全部を縮小あるいは変形し、記号・文字などを用いて表した図」と記す。つまりあくまでも、リアル世界の「画像」とするのである。
「画像」であるから、砂絵でも紙に印刷されたものでも、液晶画面のそれでもよい。この定義にとくに問題はないように思えるが、実はそうではない。「画像でない地図」もあり得るからである。それは前述(イマジナリー・マップ)に示唆したように、画像を媒介としない地図は、場所の認知のありようがただちにその生死を左右したであろう、ホモサピエンスの出アフリカ以前からの長い歴史において、画像の地図よりも桁外れに奥深い歴史をもつと考えられるからである。
また一方で、地図が伝える情報は地球表面に関するものとは限らない。2019年1月、中国の無人宇宙船が月の裏側にはじめて着陸して話題となったが、月の地図もつくられれば火星の地図も存在し、「銀河系の地図」という表現も、何の違和感を生じさせない。「地」「図」という文字に捉われた「地図」の定義では、すでに不十分なのである。
地図の定義をつきつめれば、「空間の認知と記憶から伝達にわたるメディア」となる(拙稿「想像地図」『地図の事典』2021年、p.134)。「紙の地図」や「液晶地図」などと言うとき、我々は地図が我々自身の身体および精神の拡張としての認知から伝達にわたる技術、すなわちメディアであることを、すでに承認済みなのである。この定義において「空間」とは、リアル、イマジナリーのいずれか一方ではなく、両界にわたるのである。
言葉もメディアであれば、「言葉の地図」が存在する。その始原の姿は、オーストラリア先住民(アボリジナル)の「ソングライン」(歌の線)に垣間見ることができるだろう。「紀行文学の最高傑作」とされるブルース・チャトウィンの『ソングライン』(邦訳1994年)では、それは次のように言い表された。
「オーストラリア全土に延びる迷路のような目に見えない道」「ヨーロッパ人はそれを〝夢の道〟あるいは〝ソングライン〟と呼んだ」
「歌が地図であり、方向探知機であった」「歌を知っていれば、いつでも道を見つけ出すことができた」
「少なくとも理論上は、オーストラリア全土を楽譜として読み取ることができた。この国では歌に歌うことのできない、あるいは歌われることのなかった岩や小川はほとんどないのだ」「それはあちこちに曲がりくねり、あらゆる〝エピソード〟が地理学用語で表現可能だった」
言及されているのは、文明すなわち都市や国家発生以前の「地図」の姿で、現在の静止固定された認知パターンとは次元が異なり、経路移動(時間)を本質とし、視覚ではなく聴覚すなわち音と律動(リズム、または拍)によって媒介される地図なのである。言い換えれば、それは「歌による場所の記憶と伝達の技術」だが、「空間の認知と記憶から伝達にわたるメディア」であることに変わりはない。
本連載前々回の指摘「採集や狩猟を専らとした移動社会の地図は無形の「口承地図」であるのが一般的で、そこでは地名とは地形に即した地点地名が主体であった」(『武蔵野樹林』vol.11,p.73)をここで繰り返しておくことも、無駄ではないだろう。しかし国家や都市出現以前の「地図」の姿あるいはその「技術」は今日では我々の意識に上らない、もしくは想像し難い領域に退いてしまったのである。