5月 4th, 2024
「ガード下」の話 その2
前回の地図をみると、中野停車場の改札は線路の北側に置かれたようだ。ただし駅舎は南側である。改札を出れば目前は「電信隊」の正門。電信隊に用なく、そこから南東約1.7kmに所在した青梅街道沿いの中野町役場に向かうには、改札を出て左手を踏切で越え、停車場南側の新興商店街を抜けなければならない。
甲州街道と中野町役場はこの地図の範囲外で、南に接する「中野」図幅に描かれている。前図のタイトルが「新井」であるのは、1889年(明治22)江古田村などとともに野方村に統合された新井村には「新井薬師」で著名な梅照院が所在し近隣には花街も形成されていて、村名(野方)よりも「新井」の名のほうが地域名として広く認識されていたからであろう。現在では鉄道駅名が地域名を代表するようにもなっているが、当時「中野」は青梅街道の宿駅名として認識され、街道沿いの町場が繁華だったのである。
さて、問題は現在の中央線中野駅「ガード」である。
中野駅のホーム下にガードが所在するのは、線路が持ち上げられて高架にされたのではなく、その下を通る道路一帯が掘下げられたからである。
次の図を見ていただこう。1:10000地形図「新井」の1929年(昭和4)修正測図(空中写真測量。1931年部分修正)の一部である。
駅の西側には中野通りが南北に通り、線路との交差部に頭合わせで1対の半円記号が付され、アンダーパスであることが明示されている。すなわち平坦な段丘面は、新しい南北道路のために掘下げられたのである。それだけでない、駅南側の中野通り両側には内向き2条の「斜面」記号が新たに付け加えられ、下辺の桃園川の谷壁を示す等高線部まで続いている。中野通りは線路下を切り通すと同時にその南側も広く削平し、桃園川の谷にゆるやかにつながるように駅南側の地形が人為的につくり変えられたのである。また駅の改札は南口にも設けられたと思われ、南口から中野通りに出る小道がつくられているのも読み取れる。
しからばこの「立体化」はいつ為されたものであろうか。一般的には、積極的な都市大改造の契機となった関東大震災(1923年:大正12、9月1日)の復興事業においてであろうと考えられる。しかし、次の文章をご覧いただきたい。
中野駅まで行くと、駅のすぐ先の線路がブリッジになって、鉄橋だから這って渡るかどうかしなくては難しいように見えた。相当の高さのガードである。この場所は以前には踏切になっていたが、ちょっと前の道路工事で線路の下に広い道を通したので、踏切がガードに変じたわけだ。高田馬場のところのガード、新大久保のガードなども、最近までは路面に続く踏切であった。
これは井伏鱒二(1898‐1993)の『荻窪風土記』の第2章「関東大震災直後」の一節である。著者は「七日になれば中央線の汽車が立川まで来るようになる」と聞いて、郷里の福山(広島県安那郡加茂村)に帰ろうと大久保駅から線路伝いに立川駅まで歩いたのである。この後を読むかぎり、立川から塩尻経由で名古屋乗り換え、3日ほどかかって無事福山に着いたようだ。
結論を言えば、中野駅の「ガード」ができたのは大震災直前、上掲地図の6年ほど前だったのである。個々のガードには、橋梁同様、保守のために固有名詞が付される。下の写真のように、中野通りのガードは「新井ガード」という。
中野駅の南北は中野通り開削を通じて新たな地形が創出された。すなわち、自然地形の①段丘面、②開析谷壁、③開析谷底のほかに、人工地形の凹部が加わったわけである。
インターネット閲覧可能な国土地理院の「数値地図25000(土地条件)」の中野駅周辺部では、当該人工地形は薄茶色によって示され、それは凡例の「凹地・浅い谷」に該当する。凡例には「人工地形」の項もあるが、それは「農耕平坦化地、切土地、高い盛土地、盛土地・埋立地、干拓地、改変工事中の区域」の6目のみであって、残念ながら人工的な削平・切土地は示されない。
埋立・盛土にくらべて切土は地盤的には安全性が高いことによるのだろうが、概念としては切土も人工地形である。地形の生成を閲したい向きにはこの凡例記載は残念である。ちなみに、土地条件図の初期整備版(紙の地図「1:25000土地条件図 東京西北部」1981年印刷)では、この中野駅西側南北にひろがる人工凹部微地形はまったく無視されているのである。
(つづく)