5月 2nd, 2024
「ガード下」の話 その1
先々月21日に亡くなった宮城まり子(1927 - 2020)が歌った「ガード下の靴磨き」(宮川哲夫作詞・利根一郎作曲)は、曲も詞も冒頭だけは憶えている。4拍子のスローテンポで、「紅い夕陽が ガードを染めて ビルの向うに 沈んだら」である。
1955年の大ヒット曲だが、それから8年後の1963年には「赤い夕日が 校舎を染めて 楡の木陰に 弾む声」(丘灯至夫作詞・遠藤実作曲)が大ヒットした。こちらはアップテンポ、舟木一夫(1944‐)歌う「高校三年生」である。
歌詞はいずれも「七・七・七・五」で、しかも初めの「七・五」の構図ほぼ同じである。ただし舞台景はくろぐろとした焼け跡風景から、「楡」の緑蔭を背景とした学園に転位した。まことに流行歌は、時代のマジョリティを写す鏡である。
今日顧みるに、都心の街角に夕日が射し込んでいたのは1960年代までのように思われる。しかも昨今目にする夕日は、5月はじめだから黄砂が原因と思うが、とろけたチーズのような色合である。「夕焼け」は夏の季語とされるが、幸いなことに「夕日」は季語とは無縁である。だから上記二つの流行歌は季節が特定されているわけでない。しかし黄砂現象は歴史以前から日本列島の春を襲っていたから、赤い夕日のシーンは春ではない証拠である。
しかしここで取り上げたいのは夕日や街の風景ではなく、ガードという存在についてである。それはわれわれにとっては轟音を伴う鉄の建造物で、低く暗く、時に雨水したたる記憶と結びついている。
「ガード」とは不思議な言葉である。ネットをいくら調べても「guard:防護」しか出てこない。それもそのはず、ガードの語源は英語の girder(ガーダー)で、そもそもは建築用語、けた(桁)や 大はり(大梁)を指すものだそうだ(『日本国語大辞典』)。ガードは明治期も終わり頃から、鉄道高架橋を指す言葉として使われだしたらしい。しかし鉄道用語としては、この施設のただしい呼称は「高架橋」である。ということは、つまるところガードは「橋」なのである。それも鉄道用の橋なのだが、河川を渡るものは別して「鉄橋」と言う。したがって日本語の「ガード」は、人間や車が通る道の上に架けられた鉄道用の鉄の橋の謂いである。
今回取り上げるガードは都区内の2か所、中央線中野駅のガードと山手線渋谷駅のそれである。まずは中野駅のガードから。
上掲は中野駅の西を南北に通る中野通りのガードを、駅北口広場側から撮った写真である。
ご存知のように、現在中野駅とその近辺は再開発の真最中で、駅前北口の中野区役所はこの5月7日に約200m離れた新庁舎に移転するし、その東隣の中野サンプラザはすでに昨年7月閉館、解体と再開発の待機中である。また中野駅そのものにも鉄骨が立ち並び地面が掘下げられ、巨大な変容を遂げようとしている。
先月4回にわたって行った早稲田大学エクステンションセンター中野校の講座「東京の微地形」シリーズの第14回目「中野区の微地形」は、旧野方町エリアと旧中野町エリアの2つに分けた屋内講義と屋外巡見の交互形式で、「ガード」を取り上げたのは第2回目の巡見時であった。中野通りの「ガード」脇の中野駅北口広場を集合場所として、出発冒頭にまず解説したのはその北口広場の微地形についてである。
先に行った屋内講義では、自然地形上中野区内のいかなる場所も①段丘面、②段丘開析谷の谷壁(こくへき)、③段丘開析谷の谷底(こくてい)のいずれかに分類されることを説明したのだが、しからばこの北口広場はいずれに該当するかとまず設問を提示する。
その際想起してもらったのは、中央線の前身である甲武鉄道が敷設された1889年(明治22)当時の光景である。
新宿以西の停車場は、中野、境(現在の武蔵境)、国分寺、立川、そして八王子の5箇所で、改札もそれぞれ一箇所あるかぎりだった。線路は今日のような高架ではなく、基本は地表すなわち平坦な段丘面に敷設され、一部分が土手や切通しとされたのみである。既存の道路とは、平面交差つまり踏切が普通であった。中野停車場も例外ではなく、線路とホームは平坦な地面すなわち段丘面に敷設され、北口におかれた改札も同一面にあった。
当初「ガード」は存在しなかったのである。
下掲は1:10000地形図「新井」の一部で、停車場開設当初から20年後の1909年(同42)の様子である。
上の地図の左側、「なかの」停車場は現在の中野駅とほぼ同じ位置である。中央線の北では桃園川の支流谷戸川の谷が水田を伴って東に向かい、中野停車場の南、図の下辺、等高線の集中は桃園川の谷壁(こくへき)で、谷底(こくてい)には水田も健在である。左上「電信隊営」の敷地を囲んでいるのは「土囲」(土手)をあらわした記号で、崖ではない。また、停車場の西側で線路と踏切で直交しているのは現在の中野通りではなく、その西側の細い商店街にあたる路地で、「中野通り」はまだ存在していない。
すなわちここに示されている「地形」は、ゆるく東に傾斜した平坦面(段丘面)とそれを開析する谷の斜面(開析谷壁)、そしてその谷底(水田)で、鉄道線路は平坦面を走っている。
そうして、この地形図の図幅名が「中野」ではなく「新井」であることに注意されたい。また駅前集落も、生類憐み犬小屋囲跡軍事施設をあてこんだにわかづくりの家並であることがわかるだろう。
(つづく)