5月 5th, 2024
「ガード下」の話 その3
前述のように、中野駅周辺の地形は人為的に大きく変容した。
一般に、近代都市における人為的地形変容の第一は平坦化と緩傾斜化である。その手法は、切土と盛土(埋立)を基本とする。そうして、本ブログ「桜と川底 ―神田川豊橋から」(2024・4・5)でも指摘したように、ダンプカーや重機などの土木モータリゼーションが一般化する以前は、切土と盛土はほぼ一体のプロセスに収められ、出現した土砂は至近の作業に用いられたはずである。
中野駅南側が広く削平されたのは、桃園川の谷地形と整合させるためであった。だから削平土砂は谷の盛土として利用されたはずである。1929年(昭和4)修正測図の左下、「中野駅前」の「前」の字の左で等高線が一部消えているのは、谷が緩傾斜化され新開道路下には盛土が為されたことを示しているだろう。
さて、次の写真は1972年(昭和47)刊『中野区史 昭和編』46ページに掲載された「戦争直後の中野駅北口」である。キャプションにはつづいて「強制疎開の後のあき地にマーケットが建ち並び始めた(昭和20年ごろ)」とあるが、写真を見るかぎり「あき地に」は不適切で、ただしくは「あき地下に」でなければならない。
ぼやけたモノクロ写真だが、中野駅北口の東側(左)と西側(右)の間に垂直な段差があり、強制疎開された東側の高位部と、屋台のようなマーケットと人並が写る低位部を明確に分けているのがわかる。現在の北口にはこのような段差は見あたらない。そのかわり、下の写真のようなスロープ地形が認められるのである。
念のため述べておくと、この写真右側の線路とホームのある高位部はかつての地表面で、撮影位置は掘削されてできた人為地形の凹部である。
上の2つの写真から推理できるのは、中野駅に北口広場を設けるため戦後に強制疎開地の一部を収用し、切り通された中野通りとその付属地の凹部に整合させるように削平、かつスロープ化したというプロセスであろう。北口広場の削平は戦前に行われた南口のそれに合わせるように実施された。つまり現在の北口と南口の改札が平面で一直線化している状態は、戦後誕生したと考えられるのである。
「ガード下」の話が駅前広場にまで発展してしまったが、中野駅のガード話の最後に、地図にみられるもうひとつのガードに触れておこう。本項その1とその2で掲げた2つの地図の右端に、鉄道線に南北に交差する道路が見える。
その1つまり1909年図ではそのあたりの線路の南側に斜面記号が付され、鉄道敷設にあたって盛土されたことが分かるが、道路とは平面交差ですなわちそこは踏切である。しかしその20年後の図では、中野通りのガード同様のアンダーパスとなり、道は交差部の南側から削平されたことが斜面記号でわかるのである。
この交差部の北側は1909年図で明確なように、谷底に水田を伴った谷戸川の谷であった。それが20年後にはまったく宅地化されてしまう。区画整理も耕地整理もないにわかづくりの宅地でも、斜面は切り崩され、水田跡は幾許かの盛土も為されただろう。平面でなければ家は建たないからである。等高線が自信無げに消えかかっているのは、そのことを示しているように思われる。
さて、中野駅東のアンダーパス・ガードの現状は下の写真(線路の南すなわち高位側から撮影)で、その名前はさらにその下にあるのように「新井道」という。
上の写真では、左手すなわち西側が切り通しの石垣となっているのに注意されたい。
下の写真で「中央緩行線(43)」の「緩行線」と「43」の意味が気になるが、掲示板の「JR東日本 東京施設指令」に問い合わせるのも気が引ける(かつてガードの名称を電話で訊いたことがあるが、理由を聞かれたり回答までに何度もやりとりしたりして結構面倒)ため、ここでは中野通りのガードが「中央緩行線(44)」で「新井道」のほうが若いナンバー、かつほぼ同時に造成、設置されたであろうことを指摘するだけにしておく。
それよりも重要と思われるのは中野通りのガードが「新井」、こちらは「新井道」とされていることである。「新井道」とはここから約1㎞北の「新井薬師」への参詣道の意であろう。この道は南西約2.9㎞に所在する堀之内妙法寺をつないでもいて、「中野通り」よりはよほど古い道なのである。