(「夢のあとに」G・フォーレ、1878)

季刊『宙』(そら)誌第60号(2021年10月)から最終号の67号(2023年7月)まで2年足らずであったが、毎回つまり計8回寄稿した文学絡みの拙文の、初回と最後は追悼だった。
2021年7月4日に72歳で逝ったシンガーソングライターの中山ラビ、そして2023年3月28日が享年83の命日となった俳人にして編集者の齋藤愼爾の2人を悼んだのだが、『宙』の主宰者中川肇氏をそこに加えざるを得ないとは、アイロニーの極みのように思われる。『宙』は67号が「最終号」となった。この文は、刊行されざる、幻の『宙』第68号掲載追悼として認めるものである。

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中川氏との出会いは、国分寺駅北口の古い名曲喫茶「でんえん」であった。そこに『宙』(多分第59号だったろう)が何冊か置いてあったのを手にした。中味はともあれ、表紙に「短詩の試み」とあり、B6サイズの端正なたたずまいに惹かれ、裏表紙の連絡先に電話したのである。俳句も短歌も詩の一種で「短詩」にほかならないとは、私の長年の主張だからである。連絡の結果は、第60号の編集後記(中川氏執筆)にあるように、私がいわばゲットされた形で毎回の寄稿、そのうち彼があちこちで主宰している句会のひとつに顔をだすようになった。

句会は、お目にかかるたびに慫慂されたのに根負けしたというよりも、新宿ゴールデン街の一角で14年間つづけてきた句会らしきもの以外も覗いてみようという気になったのである。いわゆる俳句界つまり結社や宗匠俳句につながるものはまっぴら御免を蒙ってきたのだが、無手勝流ばかりにもちょうど飽きてきたところであった。また感染症の蔓延で人とのリアルな接触の場が閉ざされ、隔靴搔痒の液晶画面ばかりに嫌気がさしてきたところでもあった。

中川氏はインターネットに不案内であったことと自宅の「ギャラリー」および気ごころの知れた2、3の店があったために、リアル句会を閉ざすことはなかったのである。私がそこに出るようになった後だが、中川氏は「芳賀さんが参加するとは思わなかった」と漏らしたことがあった。たしかに場違いな嫌いもあったが、それも勉強であった。

飽きてきたといえば、飲みはじめれば記憶がなくなるまでが流儀の酒癖にも嫌気がさし、新型コロナ感染症蔓延を機に断酒を実行してちょうど2年目であった。ビールや日本酒が常に傍らにある中川氏主宰の句会だったが、逆にすんなり加わることができた。酒で気分を高揚できるのもたしかに快感で、ひとつの文化ないし習俗にほかならないが、自己のステージ離陸を確認するのもまた別の快感である。酒を断ったという事実とそれを公言できることは悦びである。飲食費は均等割りだったから中川氏は私の支払い分を気にしていたが、お茶で通せたのは幸いであった。いずれにしても、1年足らずではあったものの、中川氏の句会で学んだことは少なくなかった。中川氏の選句は確かで、評はするどいものがあった。

しかし何よりも有難かったのは、私がその時々の思いを文章で書き送れば、氏は即座にその意義を認め、掲載してくれたことである。古希を過ぎ時にネットのブログで嘯くのみであったが、身近にいわば無鑑査の思考と発表の場を見つけられたのは大きかった。それを提供してくれた中川氏には感謝するほかない。しかしご縁には、地縁以上のものがあった。中川氏は「わが神はバッハとクレー盆の月」と詠んだが、クレーはいざ知らず、バッハが神であるとは、何十年ぶりかでそれを再確認したからである。

中川肇氏は昨年7月にすい臓がんのステージ4が発見され、以来自宅で従来通りの生活を送ってこられたが、この6月26日の午後2時に他界された。享年86であった。

氏は戦中1937年の丑年は5月5日生まれで、敗戦時はものごころのつく学齢期の8歳。香川の母親の実家に疎開、シベリア抑留帰りの父親を迎え中学一年生で東京に戻っても、なおひもじさと同居した世代である。当方はちょうど一まわり下の丑年。遠い日々、貧しくはあったが、とくにひもじさに苦しんだ記憶は、幸いにしてない。しかし実社会に出たのは共に東京の小さな出版社の社員としてであった。とりわけ中川氏の最初の勤め先が弥生書房で、そこの先輩社員と結ばれたと聞いて、感深いものがあった。弥生書房という名前と、その文字が印刷された白いハードカバーの俤は、今も眼前に髣髴とする。私が小6か中学生だったときの本である。それは学生となって上京するときに実家に残し、以来目にすることはなかった、多分最初に買った名詩集なのである。

弥生書房を紹介したのは、法政大学の中川氏の恩師藤原定先生で、結婚式の仲人もされたという。氏の第一詩集『ゆめのかたち』(1964年3月)の解題(『隠沼』2020年5月。P.46)に、「(略)24歳の3月塚田孝子と知り合い、いろいろあって、25歳の3月結婚。この「いろいろ」が、ほぼこの詩集の内容となっている」と書かれているが、その「いろいろ」の穿鑿は差措いて、作品の初々しさには目を瞠らざるを得ない。人の一生のある時期に、このような「ゆめ」が夢見られ、その「かたち」が言葉として遺されたのである。

「リルケ全集」の出版で知られた弥生書房の創業者津曲篤子氏は『夢よ消えないで ―女社長出版奮闘記』(1996年)を執筆上梓したが、その内容をかいつまめば「京都で求道に生きようとする夫と6歳の娘を残し、無一文で本郷に弥生書房を興してから40年。女社長の奮闘と、小林秀雄、渡辺一夫、草野心平らとの心暖まる交流を綴る」である。

中川夫人孝子氏は、津曲氏が親しい出版社の社長から金を融通してもらい、何度か手形が落ちる前に銀行に走ったという。「まだ二十歳そこそこの女の子が大金を持っているとは誰も考えなかったろうから」というのである。肇氏も「当時の弥生書房は、自転車操業で返品の山。でも本当にいい本を出していた。「リルケ全集」をはじめ「世界の詩」シリーズなど」と書いているが(宙増刊号『中川肇写真詩集』2023年5月 P.24)、少年の私が最初に買った詩集は、間違いなくその「世界の詩」シリーズ(全70巻)の1冊なのである。しかし孝子氏はまもなくして弥生書房を退社、中川氏も小学校用教科書や副読本などの版元である光文書院に職を転じ、そこで定年を迎えることになる。

2人の娘と1人の息子、そして5人の孫に恵まれた中川夫妻であったが、肇氏は棺を蓋うまでに別の「いろいろ」の軌跡をたどったとみられる。「ぼくは 動き回ることが/大好きで/じっとしていられない(1行アキ)そこで ときどき/しっぽで 足を/固く固くしばるのです」(「自戒ねこ」(写真詩集 頌Ⅴ『かけがえのない』2001年)と言いながら、その尻尾が機能した様子は見えなかった。詩作は言うに及ばず、写真は師匠について自宅の一階をギャラリーにしてしまうまで入れ込んだし、自分の詩集どころか写真集も何冊も上梓。テニスもマラソンも、そしてカラオケも人並み以上。すい臓がんの告知を受けてなお酒を絶やさず、その交友はおどろくほど広範囲にわたっていた。カラオケといえば、氏の誘いでこの2月9日の午後、拝島の「いちご」まで出かけ、中川氏と私は10曲ずつを競い、合計20曲、夕刻までの時間を共にしたのである。

お連れ合いの孝子氏に金婚の祝いを提案して、「4年間の家出」を理由に一蹴されたとは肇氏本人から直接聞いた話である。「なにせ言い出したら聞かない人で、気持ちはすべて外を向いていた」とは、枕花を届けに行ったときに孝子氏が私に語った言葉である。お二人の最後の会話は「もうどこにも行かないね」「うん(行かない)」だったとも。
氏の不羈奔放と「好き嫌いが激しい」「人たらし」(『中川肇写真詩集』p.18,62)はたしかに天性のものであったろう。しかしそれは24から25歳の間の「ゆめ」、つまり故人より些か年長の(旧姓)塚田孝子というバックヤードに担保された果報でもあったのである。

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上掲の初版は12年前の2011年5月、再版は2018年の2月であった。
当初はそこそこに話題を呼んだものが、いかんせん泡沫出版社の力では書店の棚を確保できず、在庫を抱えることになった。

ところが今月10日の「日経新聞」読書欄で吉見俊哉氏がとりあげ、問い合わせが相次いだ。
評者はさすがに目が高い。
巷に溢れる「柳の下にドジョウ十匹」の暗渠案内本等には目もくれず、当該書のみの紹介に終始した。

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問い合わせとは在庫の問い合わせである。
記事を見て気になった向きはすぐにネットを調べたのだろう。
アマゾンに在庫なし、とされていればそれで諦めた人が多かったかもしれない。
以前は取引もあったのだが、なにせ「正味」が6割で、送料は版元持ちであるから、販価は事実上本体価格の半額を割る。
システムトラブル(?)にも対応がよくわからず、メールで問い合わせをしても一向に返事がない。
電話問い合わせの窓口はどこにもない。
莫大な利益を上げているグローバル企業であるのに、それに見合った「サービス」体制も設けず、ひたすら利潤を目指すばかりで、税を納めたり社会に還元している様子もまったく見えず、むしろ逆である。
結果的に、アマゾンとは取引しないことにしたのである。

とにかくこの本は在庫があります。
書店を通じれば購入できるし、もちろん直接注文も受け付けている。

評者はこの本を「労作」と評価したが、昨今の「売筋本」は中味が薄すぎ、本来「本」たりえるものではないのである。
取り外して持って歩ける、「折込地図」を付録としたお買い得「本」です。

collegio

改正入管法成立

黴増殖薄笑ひ法押通し

蟾蜍引きずりなぶる収容所

蜘蛛の糸伐採残忍没義道

*黴:自公維国

新入管法が成立した後で、その解説はいくつもあるが、悪法の悪である根幹に迫ったものは少ない。
それは、「法」そのものに触れなければ意味がないからである。

そもそも「法」とは、権力すなわち行政者を管理し、とりわけその恣意を成文により制肘するものである。
毛沢東がいい例だが、独裁者は「法」を嫌う。
時には「合理」も「正義」も振り払うのである。

その意味で、旧入管法において(外国人は)「焼いて食おうが煮て食おうが自由」(池上務)とつい言ってしまったのは、同法が人間の生存を守るべき「法」とは逆の存在であることを暴露していた。

入管法は、「法」によって保護されるべき最も根幹である人間の生存権を、行政の恣意の下に全面的に委ねた法である。
端的に言えば、国家の保護下にない者は、その生殺与奪は行政管理者が握る、とした法で、窮地にある者に手を差し伸べるのではなく、逆に難民を極端に拒み、それをいたぶり苛むのである。
「改正」入管法はそれを改めるどころか、さらに強いフリーハンドを管理者に与えることによって、極悪法となった。

くりかえすが、日本の入管法は「法」ではなく「逆法」である。

法務局や入管の職員も、この「逆法」により規定されて、「人間」たりえない。
職務として「薄笑い」を浮かべ対応するか、文字通り寄る辺のない者に対して暴力を行使し、業務を「まっとう」するしかないのである。
形ばかりの医者も、「酒をのまないでは」やっていられないのである。

このことは、「日本人」そのものがよくよく弁えるべきことである。
繰り返すがそれは「外国人」の問題ではなく、「人間」の生存そのものにかかわる事柄であるからである。

collegio

齋藤愼爾氏のこと

 3月30日の午後2時近く、神保町の路地を歩いていた。どこの桜なのか、薄く積もった花弁が風で路面を流れて行った。知人から訃報メールが入ったのはその時だった。フェイスブックの情報ということだったが発信元は確かめなかった。胸を突くものがあった。

 ネットでは同日午後5時の報。各新聞紙のベタ記事は翌日か翌々日だった。ネットニュースの主文は「齋藤愼爾さん(さいとう・しんじ=俳人、文芸評論家、編集者)28日、老衰で死去、83歳。葬儀は近親者で営む。喪主は弟齊(ひとし)さん」である(朝日新聞デジタル)。

 些細なことで愼爾氏と袂を分かったのは、20年も前だったろうか。しかしかつては、私の跡をついで某出版社の編集責任者となったY君から「芳賀さんは齋藤さんとマブダチだから」とよく言われたような間柄で、「マブダチ」とは親しいというよりも「同志」の意味あいを含んでいただろう。端折って言えば、彼は60年安保、我は70年安保世代なのである。
 
 大学を4年で中退、紆余曲折のなかで身過ぎのために出版社に身をおき、義務のように稼ぎ仕事に精をだしていたが、その社で最初の翻訳出版を成功させ、また齋藤氏と縁を得て、それまでは彼岸にあった文学や評論の分野に手を伸ばせることになった。私は嬉しかった。彼のお陰もあってようやく「編集者」になれた思いがあったからである。

「同志」というのは、氏は私が高等学校の生徒だったときから秘かにその書いたものを読んできた吉本隆明氏の信奉者で、吉本氏宅訪問や吉本氏を囲む集いなどに屡々誘ってもくれたからであった。ただしそもそも私と齋藤愼爾氏との縁がどのような契機ではじまったのか、いま詳らかにしない。それは、意図的に自分の記憶から追放したことかも知れない。
 
 氏はいわば伝説の人である。かつて誰かが出版記念会で、「齋藤愼爾さんは怖い人というイメージがあった。まずその名前の画数が多すぎ難しすぎる」と言って集まった人々を笑わせたが、それはある意味で示唆的であった。日本海の「飛島」で少年時代を送り、山形大学を中退、「深夜叢書社」という名の一人出版社の社主にして俳人、という簡単な経歴からも、その異貌の一端はうかがえる。

「やや小柄で痩せていて、わけても猛禽を思わせる顔立ちは、議論に対していつも臨戦態勢にあるかのように鋭いが、それでいてまなざしはどこか優しく、加えてまた、深く刻まれた皺がそれなりの年輪をこの風貌に与え、にもかかわらず、全体として永遠の文学青年を思わせる若々しさをも失っていない」。野村喜和夫氏は『齋藤愼爾句集』(芸林21世紀文庫、2002年)の解説(「ロマネスクから名辞以前へ ―齋藤愼爾句について」)でまことに適切にその風貌をスケッチした。

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 対して、愼爾氏を「妖精」と呼んだのは瀬戸内寂聴氏である。少々長くなるが以下引用する。

「齋藤愼爾さんからこの本の企画を聞いたのは数年も前であった。すっかり忘れていたら、突然ゲラが送られてきた。だいたい齋藤さんは人間の姿はしているが、私には妖精にしか思えないので、その言動もおよそ非現実的で本気にしていなかった。それだけに、目の前にどかんと置かれたゲラのうず高さにびっくり仰天してしまった。/自分の文章があるので気になって、そこだけ拾って読みはじめたら面白くてやめられなくなった。まぎれもなく自分の書いたものにちがいないのだが、妖精の手に撫でられると、妙に摩訶不思議な色艶が加わったようで、なかなか名文に見えたり、気の利いた文章に見えたりするのである。これだけ抜粋するためには、むやみに量の多い私のエッセイを、齋藤さんは少なくとも数回は読み返してくれたにちがいない。/つづいて、齋藤さんの文章を読んだら、これがまためっぽう面白い。博学の妖精から、私は大変実のあるレクチャーを受けて、すっかり物識りになった気がした。/それから、いよいよ、俳句を読みはじめた。これがまた興味津々、俳人でもある齋藤さんの選び方に一本筋が通っていて、世間の物指ではない妖精の物指で選んでいる。/おかげで、私は、一晩眠ることが出来ず、アメリカへ発つ前夜に、書かねばならない原稿をそっちのけで、このゲラのとりこになってしまった。齋藤愼爾さんは、はじめて会った三十年前から少しも年をとっていない。嫁ももらわなければ、〈深夜叢書〉なる怪しい城にひとり立てこもり、御飯なども食べているのやらいないのやら。つまり人間ではないから、霞と夢を食べて生きているらしい。/この本はそういう妖精の昼寝の夢から生まれたものであろう。すべては妖精の手品に頼って出来上がった本なので、共著というのは何だか面映ゆい。それでもこんな面白い本は、誰彼に贈ろうと、愉しみにしている」(『生と死の歳時記』瀬戸内・齋藤共著。1999年)。

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 実際、愼爾氏は「僕は、1日1食、睡眠時間3時間」と言っていた。酒も飲んだが、美酒を少々。こちらは当時飲みはじめれば記憶がなくなるまでを常としていたし、勉強家には程遠かったから、それに対する妖精の訓告だったとも思えてくる。いずれにしても、私の齋藤愼爾氏追悼5句のうち2句に「妖精」の語を使ったのは、もちろん瀬戸内評によるのだが、それが野村スケッチにあるように、かの風貌そのものでもあったからである。妖精とは言うものの、いつ歯をむいて嚙付くか知れない存在。その風姿は、「孤島の孤立」によって、小中学齢期に鋳つくられてしまったとみることもできるのである。

 報道の「老衰」の語とはギャップが甚だしいが、野村氏も言うように愼爾氏はいつも「若々し」かった。氏との縁で私が編集責任者となって刊行できた書籍に『必携 季語秀句用字用例辞典』(1997年)、『寺山修司・齋藤愼爾の世界』(1998年)、『太宰治・坂口安吾の世界』(1998年)、『明治文学の世界』(2001年)の4冊があるが、そのうち「寺山・齋藤」のサブタイトルは「永遠のアドレッセンス」なのである。これらはその企画と素材提供、そして構成までを実質齋藤氏に負っていたから、サブタイトルも氏の言葉にほかならない。だがアドレッセンス伝説は意図して仕立てられたというよりも、避けようもない氏自身の生の軌跡でもあったと思われる。

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 そのアドレッセンスがもたらした、編集者としての情熱と資質は、比類ないものであった。ちなみに近隣の公共図書館の検索で「齋藤愼爾」と入力すると、1989年から2022年まで69点がヒットし、国立国会図書館のそれでは1161件に及ぶのである。
「永遠のアドレッセンス」とは、言い換えれば「永遠の憧れと焦燥」である。そのことを埴谷雄高氏は「天性、あちこちに顔を出すおっちょこちょい」(『夏への扉』帯文、1979年)と言い換え、愛惜したが、私などが俳句に手を染めるようなことになったのは、愼爾氏の次のような「おっちょこちょい」文(『身體地圖』帯、2000年)の賜物でもあったのである。

「奇才 いな 鬼才というべきか 畏るべし芳賀啓 『身體地圖』は近代の懸崖から垂鉛された一代の奇書、稀書、貴書、危書、飢書、悲の器書である。三行詩形式「打越‐前句‐付句」は「生‐死‐再生」「テーゼ‐アンチテーゼ‐ジンテーゼ」「序‐破‐急」の喩か。刻々に改訂されることにおいて地図は肉体に相同じい。〈実體〉の仮りの写し繪=地圖とかりそめの肉體。彼は己が身體地圖を己が眼の虚空を凝視することで、聖なるものの通過した肉體が、荒地に等しいことを知るだろう。/三十億年分の夢を見るという胎児の記憶が紡ぎ出す古代から未来に至る都市着色版画集。記紀万葉から前衛・思想小説までの本歌取り、宇宙大に拡大された身體感覚。「正義なるファンタジーあり地球星」の地上の規範の破砕。「極星とホームの端は詩に似たり」の銀河鉄道の夜の詩人の孤独。そして「共に棲む区切りの夏の果てにけり」の寂寥。人間の廃墟を夢見ながら、任意の縮尺の内に封じられた地圖の限界を超え、都市の断崖を歩く途方もない歩行者、刮目の第一詞華集(齋藤愼爾識)」。

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 深夜叢書社刊とは言え、華麗、過分な言葉の列には、まことに恐縮したものであった。ただ愼爾氏と別れた後で、これまた知人の編集者との縁で講談社から上梓した拙著のタイトルは『江戸の崖 東京の崖』(2012年)である。齋藤氏の「都市の断崖を歩く」という言葉には、いまさらのように予言めいた力を認めざるを得ない。

 人は俳人と言い、自身それを認めてもいたが、私は氏を広い意味での詩人であったと思っている。高校生時代、秋元不死男の主宰する『氷海』に投句して以来、いずこの俳句結社にも結縁することはなかった。そのことが逆に、「文学としての俳句」を目指した齋藤氏の句の純度を高めたであろう。新興俳句の旗手の一人に師事し、無季や超季を至然としながらも、自身は有季定型、旧仮名遣いに依拠した趣きがある。上野千鶴子氏も指摘するように、一定の季語がフェティッシュに頻用される。「木枯」や「枯野」に「梟」、「蝶」と「螢」「空蝉」そして「百日紅」「蟻地獄」等々。それらを梃子として、イメージの領域をかぎり、極地化するのが愼爾句作のスタイルであった。

 私が齋藤氏の代表句と目してきたのは『冬の智慧』(1992年)の冒頭「百日紅死はいちまいの畳かな」である。しかしあらためてみると、『齋藤愼爾全句集』(2000年)および前出「芸林21世紀文庫」では、「いちまい」は「いちまひ」とされていた。仮に誤植でないとすれば、その意は何処にあるのか。しかしそれを本人にたしかめるすべは、永遠に失われたのである。

『佐山則夫hobo全詩』
-2028年春刊行予定-

詩の底無沼に花開いた
稀代ノンセンス小劇場

言葉の信管が点滅する
奇想天外異空間の列陳

「抒情に故意に背を向けた、卓抜なアイディア」
「ショート、ショートと呼んでいいエンターテインメント」
(谷川俊太郎氏『國安』評)

半世紀以上に及ぶ隔絶無類の詩業約400篇をご照覧あれ!

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詩人近影(5月14日、仙台市青葉区「星乃珈琲店」にて)

佐山則夫詩集0『首饂飩』(売り物でねえのっ社・自筆出版,2013)
佐山則夫詩集1『イワン・イラザール・イイソレヴィッチ・ガガーリン』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2014,925yen)
佐山則夫詩集2『君かねウマーノフ』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2014,925yen)
佐山則夫詩集3『國安』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2016,2400yen)
佐山則夫詩集4『台所』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2019,2000yen)
佐山則夫詩集5『滿尿集』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2023,1800yen)
佐山則夫詩集6『(タイトル未定)』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2025,?)
佐山則夫詩集7『(タイトル未定)』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2027,?)
『佐山則夫hobo全詩』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2028,?)

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不法な法 ―情けない国

「不法滞在中の外国人が入管施設で長期収容されている問題の解消を図る入管法改正案は9日、衆院本会議で賛成多数で可決され、衆院を通過した」(毎日新聞・ネット、20230509)

この記事はその冒頭から「不法滞在」という言葉を使ったことによって、「問題の所在」を報道する精神をすでに失っている。
日本の主要ジャーナリズムが「お上」の言葉のチェックをせず、「垂れ流し」ている見本のようなものである。

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2017年6月に来日して日本語を学んでいたスリランカの女性ウィシュマ・サンダマリさんは、2020年8月同居スリランカ男性のDVから逃げて交番に駆け込んだが、DVや仕送り問題をかかえて除籍されていたため、在留資格のない「不法滞在」者として即刻名古屋の入管(出入国在留管理庁)に収容された。

入管の収容施設は、収容者に精神的苦痛を与え、諦め絶望させ、屈服させて国外退去させるための拘禁所である。
日本の入管行政の現状は、つまるところ「非・国民」の国外退去と追放に携る、公的なヘイト、排外機関と言える。
そのため出入国管理法は、入管行政のトップすなわち施設管理者(管理局長)にほぼ無制限の権限を認め、その権限はおよそ基本的人権に顧慮するところがない。約半世紀前、法務省入国参事官は(外国人は)「煮て食おうが焼いて食おうが自由」(池上務『法的地位200の質問』1965年、p.167)と漏らした通りで、その認識と処遇は変わるところがない。

そのため2021年1月頃からウィシュマさんの体調が悪化し、翌月外部の病院での診察と点滴等の処置が必要と判断されたにもかかわらず実質放置され、3月6日に死亡した。33歳であった。
しかしその死に関して誰一人として罪責を問われることはなかった。
検察は「因果関係」を認めず、すべて不起訴相当とした。

この事件は日本の入管法と行政の非人道性を世に知らしめる結果となり、それ以前から準備されていたいわゆる入管法「改正」案、すなわち難民認定申請を却下された外国人の本国送還を容易にし、入管当局の権限を強化する出入国管理及び難民認定法改正案は、2021年5月に成立見送りとなり、翌年1月の国会でも再提出は断念された。

しかしながら「増え続ける長期収容」状態に対する解決として入管法改正案は執拗に上程され、今回は形式的な答弁が繰り替えされたのみで、この4月28日衆議院法務委員会において自民・公明、維新・国民の賛成で可決された。

この4党とその党員ならびに議員たちには、現代法治国家の政治を担う責任も資格をないと言わざるを得ない。
それは「手続き」ないし「アリバイ」としての些末な「法律」以前、人類にもっとも普遍的な「法」すなわち正義を弁えることなく、理解しようともしていないからである。
「普遍的な正義」とは、人権すなわちヒトがヒトとして生きる権利である。
そこには国家のちがいも民族の差異も存在しない。

2019年6月24日、長期収容に抗議してハンガーストライキをつづけていたナイジェリア人は入管大村収容所で餓死に至った。
長期収容に対し、仮放免などを求める入管収容者のハンストは拡大している。
それは、死を賭けた抗議である。

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日本の難民認定率はG7のなかでも極端に低い。
それは厄介を引き受けたくない本音のあらわれであり、同時に人権意識の低さのあらわれである。
世界の難民はこれから増えこそすれ、減ることはないだろう。
どの国であろうと、21世紀はそれを引き受ける覚悟なしに、まともな国家たらんとすることはできない。
しかしこの島国の法と政治のもとでは、「共生」も「おもてなし」も「絆」も、虚構ですらないのである。

難民認定を避けんとして、ひとりよがりの「非人道ヘイト政策」をつづければ、情報拡散手段の発達した今日、得られるのは侮蔑と汚名だけである。
「法」や「施設」の非人道放置は、「外国人」だけではなく「国民」にも適応されると言わなければならない。

すでに2020年8月、国連人権理事会恣意的拘禁作業部会は「日本においては難民認定申請者に対して差別的な対応をとることが常態化している」「入管収容は恣意的拘禁にあたり国際法違反である」旨の指摘を行った。
そこで求められたのは、「1.収容の目的を限定し、法律に明記すること、2.収容の期間に上限を設けること、3.収容の開始・継続について司法審査を導入すること、4.ノン・ルフールマン原則(迫害を受けるおそれがある国への追放や送還禁止)を遵守すること」で、また2021年9月21日国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会や同理事会の特別報告者らが「国際人権基準を満たしていない」ため入管法を見直すことを求めた。

しかし、今回衆院を通過した「入管法改正案」はそれらに一切対応することのない「収容長期化の問題は送還の促進で解決」を内容としている。
その端的な表れは「難民申請は2回を限度」とし、それ以降は強制送還を可能としたことである。

この5月7日、「入管法反対杉並デモ」が行われた。
東京都杉並区高円寺駅近くの小さな公園が集会場所であった。
当日は連休の最終日で日曜日であったが土砂降りの大雨。
ほとんど期待していなかったが、公園に入りきれない人々が駅前に溢れていた。
知人の、比較的若い女性が集会スピーチ者のひとりだったことにも驚いた。
隣りの阿佐ヶ谷駅前まで、青梅街道を経由する比較的短いコの字型のデモコースだった。ただ靴の中は水浸し、気温も低く、後期高齢者(に近い)老人にはちょっときつかったが、この雨の中3500人が参加(主催者発表)したと聞いていささかの希望を得たのである。
上掲の写真は、その時の様子と、私が掲げたプラカードである。

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地図学の先達 1987年11月6日

写された面々の苗字を記した紙とともに、およそ35年前の写真が出現した。
地図学のうちでもとくに古い地図にかかわる先達が一堂に会した趣きである。
当然ながら、既に鬼籍に入られた人もすくなくない。
それまでの古地図研究の軌跡が、ある意味では断絶した現在、この写真の語るところもまたすくなくないと思われ、敢えて以下に掲げる。

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前列中央、杖を手にされた南波松太郎(1894-1995)先生はこの時御歳93。東京帝大工学部出身の日本史学者にして日本海事史学会名誉会長。
その古地図コレクション約4000点は、故秋岡武次郎先生のものと並び神戸市立博物館収蔵品の中核をなす。

向かってその左は西川治(1925-2019)先生。東京大学教授、地理学専攻。晩年まで「世界地図博物館」創設の意義を語っておられた。

南波先生右側の颯爽としたお姿は矢守一彦(1927-1992)先生で、大阪大学の教授にしてこの時は同大学図書館長。
ヨーロッパと日本にまたがる都市プランの研究(『都市図の歴史 日本編』『都市図の歴史 世界編』)にはお世話になった。

2列目中央は木下良(1922-2015)先生。神奈川大、富山大、國學院大の教授を歴任。古代交通研究会名誉会長で、故立石友男先生が実質編集にあたった画期的なアトラス『地図で見る東日本の古代』『地図で見る西日本の古代』の古代官道ルートは木下先生のお仕事に基いている。

3列左から2番目は式正英(1927-)先生。東大理学部で地理学を学び、建設省地理調査所を経てお茶の水女子大学教授となられた。
2009年上梓の著書は『風土紀行 地域の特性と地形環境の変化を探る』は之潮刊である。

前列右から2番目は清水靖夫(1934-)先生。法政大学で秋岡武次郎先生に学び、立教高等学校教諭にして法政、国士館両大学の非常勤講師をつとめられた。1980年代、柏書房が倒産の危機を反転することができたのは、清水先生の旧版地図コレクションと助言によるところが大きかった。

3列右から3番目は川村博忠(1935-)先生で、江戸時代までの日本列島の官製基本図である国絵図研究のパイオニアにして第一人者。山口大学の教授から東亜大学に転じ、その名誉教授。川村先生と各地の図書館や博物館で巨大な国絵図や日本図を閲覧し、かつ撮影などの手続きをしてつくりあげた大冊(複数)は柏書房のドル箱であった。

筆者の立場から自ずと「先生」とお呼びするのは以上の方々で、以下は「氏」とすることを許されたい。
最後尾、三角形の頂点に顔を見せているのは山口恵一郎(1921-1991)氏で、文部省から国土地理院を経、日本地図センター調査部参事役として活躍された。地名や地図に関する著作も多い。

そのほか名を挙げコメントすべき方々は多いが、それは追々加筆する予定である。

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人質司法と報道

「官制会見」や「記者クラブ」「ぶら下がり取材」にもとづく日本の主要ジャーナリズムが「社会の木鐸」たりえないのは周知の事実だが、「五輪汚職」に関しても検察発表を垂れ流し、肝心のトップ層についてはスルーしたままである。
報道が検察と一緒になって民の憂さ晴らしを演出し、結果として弱きを挫き強きに阿(おもね)ているのである。

そのなかで昨夕の東京新聞記事は、まっとうな報道として特記に値する。
日本の司法はとくに未決の被疑者の扱いにおいて、およそ「人権」を顧慮するところがない。それは「しょっぴいて吐かせる」江戸時代の制度と地続きで、警察ないし検察の仕立てる筋書きを認め、「改悛の情」を示さないかぎり「出さない」ことを基本としているのである。
これが日本列島における冤罪の最大の温床であることも、また一部には知られた事実である。

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ワグネル先生記念碑

早稲田大学エクステンションセンターにおける2023年度春の私の講座は、昨日で終了した。
テーマは「東京23区の微地形」で、自治省コード番号順に今回は目黒区を扱い、巡見にはその北端と南端をフィールドとした。
具体的には東京大学駒場キャンパスと3つの小谷、および東京工業大学大岡山キャンパスと呑川低地である。
いずれも上位段丘面を基本とするが、好天に恵まれ、また講ずる側としても得るところ多大であった。

写真は東京工業大学大岡山キャンパス大岡山北地区の一画、ひょうたん池(呑川谷、谷底の一部)を足下にする谷壁斜面に建てられた記念碑である。

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残念ながら学生のほとんどは所在を知らず、教師でも多くはないという。
ただし現今日本語片仮名書き「ワグネル」とは、悪名高きロシアの戦争会社名ではある。
以下に碑文を示す。ただし原文は旧字片仮名書き、句読点なし、改行なしで、〇の部分は1字不明である。

ワグネル先生記念碑/勲二等ドクトル・ゴットフリード・ワグネル先生は独逸国の人。明治元年来朝、同二十五年十一月八日東京に没す。享年六十二。其間大学東校、同南校、東京開成学校、文部省製作学校、京都医学校、東京大学等に理化学及応用科学を講じ、東京職工学校に陶器玻璃工科を創設教導し、更に機織科設置を力説して没後に之ヲ実現せしむ。是実に東京工業大学窯業学科、並に紡織学科の濫觴たり。又明治初年鍋島藩に有田焼の改良を図りしを初め、無〇釉陶器旭焼の創製、煉瓦焼成用楕円形輪窯の集造、陶磁器焼成窯の改造、七宝陶磁器、染色写真、鍍金術、セメント、硝子、耐火煉瓦、石鹸、燐寸等各種工業を実地指導し、東洋美術の真髄を工芸に表さんとし、就中七宝には能く本邦の特色を発揮せしむ。曽て墺国維納及米国費府の万国博覧会に参与するや専ら先生の斡旋に倚り出品を調達陳列することを得、以て我国の文物を海外に紹介し、又勧業寮博物館の創設に参画する等、本邦新文化の揺籃時代に於て粉骨砕身、教育及産業の育成開発に尽瘁す。先生其性温和謙譲廉潔寡黙、子弟を撫育すること懇切、屡々私財を授して後進を扶掖す。其徳化普く及び、後年此界の泰斗、社会の重鎮たるもの門下に輩出し、本邦産業の興隆今日あるを致す。寔に先生に負ふ所大なり。茲に有志相謀り偉績を永く後毘に伝へん為、由緒深き東京工業大学庭内に記念碑を建設し、且先生の伝を陶管に記し之を碑蔭の地中に埋蔵し、以て敬慕報恩の意を表し、併せて青年教化の資となさんとす/昭和十二年十一月

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地名「殿ヶ谷戸」について

標記の件に関して、角川文化振興財団発行『武蔵野樹林』のVol.11とvol.12に連続執筆した。
vol.12は先月末のリリースであった。
2回にわたり、地図およびその表記のひとつである地名注記の根源に、いささか触れたつもりである。
以下、vol.12の当該ページ画像を掲げる。

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