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梅棹忠夫著作集

わたしたちはいま、わたしたち自身が現に生き、活動している生活の舞台を、地域や国家などの概念をとびこして、直接にひとつの惑星の部分として具体的にイメージし、たしかめることができるようになっている。これはもちろん人工衛星などの科学技術の発達によるところがおおきいのだが、また、あたらしく普及した地球生態系的世界像の産物ともいえる。
これは、人間が自分の姿を可能なかぎり遠距離から、また可能なかぎり直接にかえりみる手段をもつことができるようになったということである。そして、そこにみとめたのは「自然」としての文明の姿であった。その意味では、地図というものを、現代ではまったくあたらしい視点から見なおさざるをえないようになってきているのではないか。
フィールド・ワークをもとに思考をくみたててきたわたしは、地図を不可欠の道具として利用してきた。それは、単に道案内のためではなく、ひとつの自然像、ひとつの文明像を把握するための材料としてきたのである。地図はわたしにとっては、ひとつの「博物館」であった。
今回、柏書房から発行される『日本近代都市変遷地図集成』は、道具としての役わりを終えたふるい地図を、あらたに編成し直すことによって、わたしたちの生活の舞台である都市を、今日までの約100年の時間距離のなかでとらえなおすこころみといえるだろう。
古地図は資料であると同時に美術品である。個人や機関に分散して秘蔵されているため、博物館や図書館でも一定地域のものを系統的に紹介するのは容易ではない。今回の出版のように、都市の変遷を示す材料として集成された例はすくない。日本の都市文明の足どりを、あらたな視角から見なおす作業をいざなうものとして、このアトラスはひとつの知的生産の出発点となろう。

以上の文章は、『梅棹忠夫著作集 第21巻』(1993年)のpp.304-305に収録されている「『日本近代都市変遷地図集成』―すいせん文」の全文である。
梅棹忠夫氏(1920‐2010)は生態学や人類学で独自の学問を切り開いた著名な学者で、最初期の著作『モゴール族探検記』(1956年)もベストセラーとなって、そのころ小学校高学年か中学生であった私も読んだ記憶がある。
この「すいせん文」は、1987年に柏書房から刊行した『日本近代都市変遷地図集成』の「内容見本」に収載したもので、当時柏書房から刊行されていた大型地図資料は私がほどんど一人で編集し、推薦文も私が電話で直接依頼したのである。
しかし梅棹氏は原因不明の病により1986年3月にはほぼ失明状態となっていて、推薦文は文案を書いて送れとの指示であった。
おそらく秘書役の人がそれを読んで聞かせたのであろう。
文章は加除訂正なしでOKとなり、内容見本は無事刷り上がった。
その3ページに掲げられた梅棹推薦文のタイトルは「系統的に編集された知的生産の出発点」で、これも私が付けたものであった。

その何年か後、これも秘書役の男性だったと思うが、電話で、かの推薦文は著作集に入れたいと言うので、嫌も応もなく了承した。
いずれにしても上掲の文章は、私の筆になるものである。

いま読みかえしてみると梅棹氏の著作よりも、『試行』に連載されていた吉本隆明氏の「ハイイメージ論」(後単行本、文庫本)の影響が大きいようだが、しかしイメージそれ自体は、以前から私が「ヒト群落」について思い描いていたことに端を発している。
文中の「「自然」としての文明の姿」とは、実は1972年頃離陸する飛行機の窓から見た、光るスモッグドームに覆われた大阪圏の姿であって、露骨に言えば微細な虫の巨大コロニーないし地表の腫瘍というイメージにほかならないのである。
ヒトが地上に生きるエリアとその態様は、とりわけこの100年の間に劇的に変化した。
「アントロポセン」が提唱される所以である。

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