(以下『追悼自余 増訂版』〈2024年7月30日刊〉から、増補部=最終章を掲げる)

徐京植(以下Kとする)の訃報メールが届いたのは本書初版刊行から約1月後の12月20日だった。パートナーからのメールの引用で「18日に2人で温泉に行き、別々に風呂に入っていたところ、出てこないので見に行ったら、湯船で亡くなった状態だった」とあった。メディア等の短報はその前後であった。私にメールをくれたのは、Kとは高校以来の同級生である。我々は大学が同じで、私とKとの濃密な付き合いは彼が一年生のときから数年ほど、その後は折に触れて顔を合わせるのみであったが、ある日倶に天を戴かずと定めて歳二旬を過ぎた。その判定を悔いることはなく、むしろ思いは増幅した(その一端は2015年10月29日のブログに書きつけた)。以下、記憶をたぐりその所以を書き遺してしておく。

Kはレーニンを信奉していた。大学入りたてで『国家と革命』(レーニン)を読み興奮していた彼は、これほど「明快で突き抜けた」論理はないと私に言った。ちなみに「突き抜け」は、後々まで彼の口吻のひとつであった。すでに『レーニンから疑え』(三浦つとむ)を読んでいた私は、「そうかい」とだけ応えた。そこで争うつもりはなかったからである。以後決して口にすることなきも、Kが心中にレーニンを仰いでいたことは確かである。ちなみに『国家と革命』の中身は、社会民主主義者(カウツキー)への攻撃、すなわち「革命」の貫徹には「暴力」と「独裁」そして「抑圧」が不可欠であるとの言い募りである。その言の裏に厳然と横たわるのは、「科学」を装った「ルサンチマン」と「悪意」である。

Kは後年その言説と著作をもって、あらゆる「抑圧」と「暴力」を告発していたように見られている。最晩年には「真実」を追求しつづけるとも宣言した。しかしその言から見事に除外されていたのは、「北」のそれらであった。

彼は日本社会においてその思惑を為し遂げるために、ヒューマニズムとキリスト教(界)とを徹底的に利用した。しかしそれらは彼にとっては手段にすぎず、帝国主義ないし植民地主義の偽善として軽蔑し、唾棄さえしていたのである。例えば、「良心の囚人」を救援する国際組織「アムネスティ」の、当時できたばかりの日本事務局の責任者だったグレース・S(女性)を、アメリカン・プロレス界の日本人ヒール(悪役)として知られていたグレート東郷になぞらえ、陰で「グレート・S」と呼んで嘲笑していた。金芝河作品の翻訳者ペンネーム「井出愚樹」も愚弄して止まなかった。

後のことだが、出版界では知られた老編集者のMは、Kに入れ込み興したばかりの自社の顧問格とし、その書きものを上梓したうえにPR冊子の執筆から編集までを任せていた。しかしある女性編集者は、喫茶店でKがMの名を盛んに呼び捨てにして誰かと話し込んでいるのを偶然耳にし、吃驚してその様子を私に「報告」に及んだ。晩年のMの言は「Kとは二度と会うことはない。その理由は言いたくない」であった。さらに、タクシーの老運転手が「帰りなので、反対方向になるから」と渋るのを「つべこべ言わずに行け」とドスを効かせた現場を目にもした。そのようなKの素顔を知っているのは、私を含めてごく少数だろう。しかしその一端を見知ったとしても、「善意」や「正義感」はそこから先の推考を遮断するだろう。「倫理スターリニスト」とは、私がKに付けた苦肉の綽名であった。
「差別と抑圧」を「関係の絶対性」にすりかえ、そこから見下すのがKの文法であった。Kは自ら依拠する「正義」と「才気」によって、逆に捕えられたのである。

「学園スパイ団事件」摘発(1971年)の結果、死刑を求刑された彼の兄二人は「良心の囚人」などではなかった。「北も南もわが祖国」は、詭弁であった。秘密裡に「入北」し、「訓練」を受け、「北」の秘かな「媒介者」として学生に戻ったのである。兄の一人が獄中でなお言明したように、彼らが「主義」を「希望」とも「未来」とも信じていたのは、まぎれもない事実である。文字通り「良心の囚人」であった文学者の金芝河とは、根本から違っていた。

高校1年で朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)を読み、日朝協会の「朝鮮語講座」で「ウリナラヌン(我々の国は)サフェジュイナライダ(社会主義国です)」を最初に覚えた私にとって、日本帝国主義の罪責を告発しそれに対峙する「北」は正統正義の清潔な政府で、「南」は日米の傀儡、腐敗した軍事独裁政権であった。
学生運動退潮期、当時W大学の文学部の近くにあった「ジャルダン」という名の喫茶店で、恋人に擬していたサークルの先輩から「もし本当のスパイだったらどうするの」と訊ねられて、私は「それでもやる(救援する)」と即答した。「そうなのね」と言っただけだが、聡明な彼女はそれがヒューマンな人命救出を装った政治運動にほかならないことを一瞬にして悟ったようだった。私はKを通じて「北」に係属する途を選んだのだ。

Kは2人の兄の「救援運動」の実際の「キャップ」であった。その組織は気心の知れたKの高校時代同窓生と大学至近にあった2つのキリスト教系自治寮生を核としていた。私は後者に属していた。後者の「寮」は、格好のアジトの役割も果たしていた。Kの言い草を借りれば、組織のメンバーは「高麗ネズミのように」走り回った。世界的な学生運動の熱気がまだ尾をひいていた時分、「無実の政治犯」の「命」が懸かっているという煽りは、個々人を無償の行為に走らせるのに十分であった。我々は日本社会の各層に取り付き、また印刷物を大量に担いで全国行脚も行ったのである。Kの兄の、むごたらしい火傷跡の顔写真は何より強力な「道具」となった。「軍事独裁政権」と拷問はイメージのうえで瞬時に結び付いたからである。「北」にとってこれほど有利な「素材」は他になかったろう。しかし、本書95ページの例を挙げるまでもなく、顔の火傷がプロの拷問の結果であるはずはなかった。厳冬期、室内に置かれていた石油ストーブの油を被って自殺を図ったという本人の言明はその通りだろう。彼らが受けた「訓練」のなかには、逮捕された場合の対処法もあったはずである。1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯の一人(男)が服毒自殺し、もう一人(女)がそれに失敗して身柄確保された事例を挙げるまでもないだろう。いま顧みれば、韓国の「軍事独裁政権」はそうした彼らを公開裁判に付すほどに「民主的」だったのである。

5人兄弟のKの長兄は当時すでに在日の実業家で、弟の救援運動の背後にいたのだが、その彼とKがベトナム戦争の「南」の「逆性拷問」つまり自白させるために「とんでもない美人を独房に入れる」事例について、「怖ろし気」に話していたのを耳にしたこともある。またベトナム戦争に関連して「サイゴン陥落」と言ったところ、末妹からただちに「サイゴン解放」と訂正されたのも記憶に残る。

Kは某教育大学付属高等学校では仲間をさそって自称「神童クラブ」を組織し、もっぱらバスケットボールに興じる一方、文芸部に属して阿佐田哲也などを読み耽り、秘かに「作家」の道を歩まんとしていた。後の救援組織内の彼のコードネーム「力石」は、当時熱狂的に読まれた『少年マガジン』の「明日のジョー」に由来するし、教職に就いてなお「作家」を自称したことは象徴的である。彼の本領は、同窓生でもインテリ相手でも、効果の的を絞って取り込む「虚構の工作」にあった。
そのエリート校にも学園紛争の波は及び、生徒の一団は教員室などを占拠して「内申書」をばら撒いた。Kの内申書に書かれていた「策士」の語は、彼が「在日」であったことと相俟って「糾弾」のまたとない素材となった。校長らがKの自宅へ「謝罪」に向かった。小さな「文化大革命」が現出したのである。
とまれ、「策士」と書きつけた教師が慧眼の持主であったのか、Kが策謀を巡らせ口説をもって教室のヘゲモニーを握る態度が著しかったのか。多分後者であろう。その「闘争」には直接かかわらなかったKとその家族は、校長らに鷹揚に対応しながら、日本社会における「差別」の語の威力とともに在日の「逆優位」をあらためて確認しただろう。この体験は後のKの争論における定型である「弱者の脅迫」、すなわち倫理的恫喝を武器とした「文化小革命パターン」をつちかったのである。

「救援運動」の行方は、報道メディア等で知られている通りで、兄らは何年かを獄中で過ごした後に釈放された。wikipediaによれば「事件」は「捏造」だったとされる。しかし「入北」は事実であった。「救援運動」は、兄らの「良心の囚人」という「イメージの捏造」に挺身したのである。
Kは兄の「救援運動」を通じて、とりわけ日本の「善意左翼」とそれに同調するジャーナリズムに喰い込んだ。すると彼らはKとその兄をある種の「象徴」にまで祭りあげたのである。虚構は虚構を産む。Kはその結果と得意の口説をもって、学問上の業績がゼロであるにもかかわらず東京郊外の某私立大学の講師から教授におさまった。しかし私は全く偶然に、同じ大学の客員教授として招聘されたのである。
2015年4月、同大学キャンパスの地形学習のため学生を引率していた折、通り掛ったKは横から睨(ね)め付けるような目で「驚いたな」と声を掛けてきた。それは私が彼にそのまま言いたかった科白だったが、「授業中だ」とだけ応えて、退けた。還暦を過ぎたKの顔はあきらかな悪相に変じ、その体軀もワインやグルメに馴染んだ格好であった。大学至近の駅で出会った時は「雑誌を主宰しているが、注釈付きの文章(論文)は得意でない」と自慢しつつ下手に出、手助けを求められたが、即座に断った。彼の主宰する「国際シンポジウム」もどきの催しも無視し、互いの研究室を訪ねることもついに無かったのである。

しかしながら恥をさらせば、「救援運動」から離脱した後も、しばらく私はKとその兄たちを対象化することができずにいた。Kの最初期の著作『子どもの涙』(1995年)は、私が主宰する雑誌に連載執筆させ、それを単行本としたものである。彼の唯一の受賞(日本エッセイストクラブ賞)はその結果であった。たしかに作家志望だけあって、俗情の琴線ツボを心得た文章であった。その私の「離脱」の理由はといえば、おおよそ次のようなものであった。

「自我抑壓の努力は、その裏に課せられた他我への奉仕と愛情と、自卑と謙穰とへの努力にもかゝはらず、かへつて抑壓された自我を己れに謀反せしめ、他我への憎悪を育ましめる結果となつた」(福田恒存「嘉村礒多」)。

Kの死の顛末を知った時、まっ先に思い出したのは数十年前、古都の郊外にあったKの実家に泊った時のことである。橋を渡った先の小さな銭湯の熱い浴槽を出た後で、彼は誇らし気に「こうすれば風邪をひかないんだ」と言って、手桶で冷水を被ったのである。晩年にまでその習いがつづいたとは思えないが、温泉の湯壺からあがったときのヒート・ショックが死のトリガーだったことは間違いない。

本書第3章「善意と正義の行方」は、Kに対する私の生前告別であった。
ここにあらためて用意したKへの悼辞は、よく知られた次の章句である。
私が言いたいことはこれに尽きる。
然らば、Kよ。

「善人なほもつて、往生を遂ぐ。況んや、悪人をや」。

追記
本章の素稿を読んだ友人のひとりは、Kの半生の科誤は困難な前線に立つことなく、メディアと評論空間に棲息して前線のもっともナイーブなところを狙って攻撃したことにあると指摘した。
私見では、善意のハイブロウ攻撃は意図的なもので、効果的な逆転演技であった。Kは「徐京植」を擬制したのである。

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