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「国分寺崖線」の切通し

1889年(明治22)4月11日、蒸気機関車が武蔵野台地をほぼ一直線に駆け抜けたとき、新宿以西の停車場は中野、荻窪、境、国分寺、立川の5ヵ所しかなかった。
国立駅は1926年(大正15)、西国分寺駅に至っては84年後の1973年(昭和48)開業である。

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国立駅東側の中央線の切通し
この段丘崖(斜面)はさらに左手(西側)につづき、上位面と下位面の比高は約10mである

しかしながら現在の西国分寺駅と国立駅の間、国立駅改札から約300m東側に存在するこの切通しは、往時の姿を大分変えたとは言え、それ自体は19世紀末春の甲武鉄道開業当時から存在していたのである。
国分寺崖線などという造語ができる数十年前、国分寺と立川の間を通っていた段丘崖を可能なかぎり緩傾斜で通過するため、切通し路線は削出された。
だから地上をひた走って来た汽車は、国分寺停車場あたりから地下にもぐる。地上の一区間、傍目には煙と蒸気が地表から上がるように見えたはずである。
煙や蒸気がなくなったとは言え、現在でも切通しにもぐる姿はかわらないのであるが、大規模に拡幅され、周囲に建造物が立ち並び、また路線の大部分を高架部が占めるようになって、掘削構造が意識にのぼることは少ない。

凸部を掘削して凹部を埋めるのは、日本列島古来「土木」の基本で、水運の便がないかぎり掘削で発生した土砂は可能な限り至近の場所に「利用」されたのである。
したがって、この段丘崖越えのため掘り出された関東ローム主体の「土」の幾割かは、至近の凹部すなわち野川源流部の築堤路線敷設に利用されたはずである。

しかし当初は単線であり、掘削土量は江戸時代初期の本郷台地神田川放水路開削の何分の一にも及ばない。
甲武鉄道敷設最大の難工区は多摩川架橋にあった。
また台地の小開析谷や微高地への対応工事について見るべきところもあるが、これらは別に触れたい。

開かずの踏切として有名だった武蔵小金井駅東側の小金井街道の踏切が廃止されたのは数年以上前の2012年頃だったように思うが、三鷹から武蔵小金井の間の車窓の冬景色に、富士山を目にできるのは新鮮であった。
しかし国分寺駅に近づくと光景は急に地表に下り、さらに周囲は切通の崖となるのである。
東京経済大学のキャンパスの北側を走る中央線は、短い区間ながら地上線なのである。

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この「下り」電車の後尾車輛は地表にあるが、その先は切通し路線に入っている
写真左手は東京経済大学の塀である

段丘崖を越えるために、それに直交するまた別の人工崖が造りだされる。
これは私の「坂の5類型」のうちの第4、第5類型の施工原理でもある。

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