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大学生の「読書スタート」

最近30歳も半ば過ぎで学士入学した人の話を直接聞く機会があったが、近年世界大学ランキングで「アジア・トップ」の座からズリ落ちたとは言っても、東京大学の「レベル」はやはりそれなりで、学生の語学力や常識、学業つまり読まなければならない文献量のレベルは、私学のトップクラスを出た者にも結構驚く面があったらしい。ただし、そのレベルも学部や学科によって大きく異なるという。
一方、おもに小学生を相手に「読書教育」をすすめている人の話では、子どもと本の関係は、在日のインターナショナル・スクールに学ぶことが多いという。そこで子どもたちは、「学校教育」のなかで、必然的にさまざまな本と出合う。それに反して、「検定教科書」という摩訶不思議な制度が幅をきかせるエリアにあっては、書物の本来的なありかたを理解するのは難しいようだ。

以下は当方の話だが、教えている中堅大学の学生たちに対して、いろいろ考えた挙句、着任1年と3ヶ月にして「基礎読書アンケート」というものを実施してみた。こちらも結構驚くべきところがあった。
とはいえ、わざわざ「アンケート」などをとらなくとも、毎回課題としているレポートに書かれている文章のありようから、それは予想されていたことではあった。世代差を差し引いたとしても、多くは「大学生」としての常識のレベルは低く、レポートの叙述は文章になっていない。体は大きくなったけれど、頭のなかは「幼い」としか言いようのない学生がかなりの割合にのぼるのである(もっとも、最近では小中学校の教員にも、主語・述語が混乱していたり、意味不明の文章を書く人が少なくなく、読書と縁のない先生も多いという)。それでいて、いまの大学生の日常は、学費や家賃支払い等にあてる「アルバイト」で大きく費やされているのである。
アンケートは「基礎」であって、小学校高学年あたりから今日までどのような本を読んできたかをしらべる目的だったが、ごく一部を除いて、教科書などで読まされた以上のものはまったくといっていいほど読んでいない。というよりも、回答の様子から判断して、「本」にはあまり興味なく記憶していない様子が窺われるのである。
例えば「ヘルン」と「ハーン」が同一人物であることを知らない学生や「ラフガディオ」で検索しても出てきません、と言う学生がいた(「ガ」でなくて「カ」なんだけれど……)。
すなわち、あたりまえのことながら、日本の大学ないし大学生の間には大きな格差がある。大学生に「本を読んで」といっても、その読むべきというより彼らが潜り抜けるべき「読書体験」のレベルは、「前提としての格差」によってまったく異なるのである。

一方、大学教員は基本的に本ないし読書が好きで、学業優秀者として社会の階梯を上ってきた人々がほとんどである。二分法でいえば、その多くは人生の勝ち組に属する。その言葉、例えば「本を読め」は、格差社会のなかですでに二分されたとぼんやり意識している学生たちには、ストレートには届き難い。
彼らの本音は、おおむね楽をして「単位」がとれればいいというところに所在する。授業料を無事納め、大学を無事卒業し、どこかしら就職先にひっかかることができればそれでよいと思っている。もちろん、そうでない者もいる。いかほどかの努力をしてでも、何かしらを得たいと思う者は存在する。しかしそれは少数である。
「大学」が水増し状態になったと言えば済むことかも知れない。昔の中学生(?)が大学生と言っているだけといえばそれでいいのかもしれない。しかしこの「格差」の根源には、反知性主義というよりもニヒリズムの匂いが漂う。

本はなぜ読まなければならないのか?
読書は、それ自体が自己目的ではない。それは格好(スタイル)ではない、ステイタスでもない。
ロンドン大学で長く教鞭をとった森嶋通夫(1923‐2004)は、岩波文庫別巻(非売品)の『読書のすすめ』(第5集・1998)で
「読書は思考のための補助行為である。こういう立場からは、(一)書物はそれ自体の学術的価値だけの理由でなく、(二)読者の思考を刺激するように役立つ形で出版されなければならない」と書いた。
そうして「古典」について、「逐語訳をしない」翻訳の鉄則や、適切な編者解説の付いた「思い切った抄訳」が、「出版」としては望ましいと、主張したのである。
それは貴族子弟の高等教育をもっぱらとしたOxbridgeに対して、「最大多数の最大幸福」のJ・ベンサムを奉戴し「公衆にひらかれた大学」を標榜する、ロンドン大学教員の骨頂でもあった。

私の夢想は、日本列島がいまだ縄文時代末期ないし弥生時代初期あった頃に書かれたプラトンの『国家』を、学生たちとともに読むことであった。それは、「今を考える」ためであった。
しかしその行為の実現は、適切な翻訳ないし抄本テキストなしには難しい。さらにひるがえって、本もしくは人が書き残した言葉(テキスト)への、受入れ側の親和的環境なしには、それは成立し得ないのであった。

書き残された言葉も、ある意味で「夢想」である。
その「夢想」をこそ、人は伝え遺し、不断につくりあげる社会の礎とするのである。ニヒリズムではない「夢想」への親和。
そうして夢想は、かつて「本」にあった。しかし、いまそれはかならずしも「本」の形をとる必然性はない。デジタル・メディアに読む言葉も「夢想」でありえる。森嶋通夫の主張は、デジタル社会にこそ生かされるのかも知れない。

本でもスマホでもかまわない。「高校生までの基礎読書」と、それ以後の読書体験に、彼らを導くこと。
一定の本を読むにもあるいは読書にも、読まれるべきテキストの準備が必要であり、また読む側の一定の「育ち」つまり素養(知識)と習練が前提とされる。読みに導く側にも、もちろん素養と習練が前提でなければならない。また、テキストの準備および両者の素養と習練は、それぞれ完了形ではありえず、同時あるいは相互進行形である。
そうして、いま、ここ、の「読書スタートライン」は、ひとりひとりが異なる。しかしその「読書」は、いま、ここ、にいる自分、その存在の根源に触れる「テキスト」でなければ「スタート」しえないのである。

授業としては、学生各自の「基礎スタートライン」もにらみつつ、毎週1点の短篇を選んで「単位直結の課題」(ポイント制)として、読むことを強いている。つまり読んだことを証明すべくレポートさせるのだが、「基礎」のないところでも「吊り橋」を架けるほどの効果はある。並行して、本格的構造物を建てる基礎作業は、もちろん必要なのである。
読書は独りの行為である。他者が強いて介入すべき行為にはなじまない、という伝統的な考えがある。
けれども、私たちをとりまく「世界」は、圧倒的に「読み」を必要としない環境になだれ込んでいる。読めない、そして書けない若者が育っている。「読み、書き」は、意図して、意識して育まれなければトキや二ホンカワウソ状態に近づき、言われただけを受け入れる行動スタイルが基本となるだろう。

児童から若者まで、人間として「考える」ための基礎は、「教育」がなければ成り立ち得ないのである。
大学生にも、まずは「読書への誘い」(あるいは科目めかして「読書学入門」でもよいが)の履修コースが必要なのである。
OECDの「国際到達調査」で、常に上海、韓国、フィンランドの後塵を拝している日本の子どもたちの「読解力」に危機感を抱いたのか、文科省が認可して江戸川区の小学校には「読書科」が設けられたという。
しかし、われわれが直面しているのは「本を読んでこなかった大学生」「これからも本を読まないかもしれない大学生」である。
そのために、とりあえず「岩波少年文庫」をベースに、高校生段階までに読んでおきたい基本図書200点のリストをつくってみた。2学期からのレポート課題のリストとするつもりである。
幸い大学図書館のスタッフがこのリストに目を留めて、とりあえず岩波少年文庫の全冊を導入し配架すると言ってくださった。ありがたいことである。
さらにすすめているのは、《大学生でも、おとなでも、「絵本」》リストの作成である。学生が質の高い絵本に接し、それを彼らが授業中に「読み聞かせ」をする時間も重要ではないかと思うのである。

ところで「読書」からは逸脱してしまうが、《大学生でも、おとなでも、生涯にみておくべき「映画」》リストもつくってみた。年代順に45本。モノクロ映画が主体である。DVDが手に入り難いものもなかにはあるが、ほとんどはレンタルできる。「洋画」に日本語吹き替えなしで親しめるようになることも、ひとつの夢想である。これらの映画は、われわれ、そして若い人たちが、現在を生きるための基本的「素養」のひとつだと思っているのである。

2 Responses to “大学生の「読書スタート」”

  1. Noriko Yamaguchion 21 6月 2016 at 23:39:40

     先だっての俳句に関するご意見、そして本日の「本」、深く共感しながら拝読しました。ご提示されている著作等、購入もいたしました。まさに刺激を受けてのことです。
     このところ視力のこともあって、電子書籍が優先となりますが、ようやく読書三昧の毎日となっております。学生について言えば、やはり国家運営の誘導の結果なのでしょうね。生活に悩ませながら、読書というのも無理な感じがします。自分自身、書籍代で破産しやしないかと心配していますから。私の学生時代は、夏休みのバイトは全て本代に当てることができました。リュックを背負って神保町をめぐることができました。私学はまさに企業経営そのものに成り下がざるをえないのでしょう。このとこと数回垣間見ている無名の大学など、まるでヤクザ組織かのようで気味が悪いほどです。あんなところの教師自体読書などしていないのではないでしょうか。企業がそんなところの大卒を求めるというのも、不可思議でなりません。
     プラトン、何度か挑戦していますが、記憶しているのは「洞窟の云々」だけ。でももう再挑戦は無理かも。私は「日本書紀」にチャレンジしていますが、やはり頼るのは抄訳となります。今日は閑暇休題で芥川の短編を読んでおりましたが、基礎となる素養の深さに脱帽するばかりです。
     「でんえん」通ってます。またお時間あったらいっぱいいかがでしょうか。

  2. collegioon 22 6月 2016 at 10:27:43

    めったに反応のないブログにコメントをいただき、吃驚しました。
    是非また国分寺あたりで。
    ご連絡します。
    今日はこれから授業で、明後日も同様。
    奥多摩駅前のブルワリーなぞ如何でしょうか。

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