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11月 11th, 2019
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浅草橋 その3
大猷院殿御実紀(「徳川実紀」のうち、家光の代)巻三十寛永十三年正月の記に「八日江城惣郭の営造この日よりはじめらるゝ所」として、石垣や堀につづき枡形すなわち見附の造営を命じたなか、「浅草口は松平伊予守忠昌」とある。
いわゆる徳川実記の東照宮から大猷院あたりまでは、確かな史料伝存のない江戸初期を垣間見させる数少ない文書と言っていい。
一般に、見附は堀に架けた橋とセットで存在するから、説明板はこの下命年をもって橋の創架に短絡させてしまったのである。しかし、既述のように橋は見附以前から存在していた。
また、見附すなわち枡形が橋とセットであるといっても、それは堀の「内側」すなわち城側に配置されるから、現在の台東区側ではなく中央区側に造営された。
したがってこの説明板も、傍らの「浅草見附跡」の石柱も、設置位置がそもそも誤りなのである(本項その1写真参照)。
ついでにもうひとつ、誤りを指摘しておけば、日本歴史地名大系13『東京都の地名』の「浅草橋」の項で「別本慶長江戸図には橋の辺りに「浅草口さんや千じゆへ出奥州道」と付記がある」と書いているが、この場合の「橋」は浅草橋ではなく「常盤橋」である。付記も正しくは「浅草口さんやより千じゆへ出奥州道」である(下掲・別本慶長江戸図・部分)。
慶長7年(1602)頃の江戸を描いたとされる別本慶長江戸図は、もちろん「見附以前」である。
しかしここからひと世代30年以上をかけ惣郭(そうぐるわ)整った江戸は、ふたつの「浅草口」すなわち常盤橋門と浅草橋門と、二重の見附で防御されていた。
繰り返すが、江戸時代に常盤橋から浅草橋をぬけて浅草へ向かった道は、「橋以前」「江戸以前」からの古い経絡だったのである。