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浅草橋 その1

浅草橋は、浅草にはない。
築地御坊(築地本願寺)の前身浅草御坊が浅草になく、日本橋浜町にあったのと似ている。
近隣の両国橋が、明暦大火後武蔵と下総の両国にまたがって架けられたのではないのと、少し似ている。

浅草橋は、江戸から浅草(方面)に向かうための、あるいは浅草方面から江戸府内に入る橋である。
両国橋は、武蔵の江戸から隣の下総方面にわたる、もしくは下総から武蔵の江戸に至る橋である。

浅草は江戸の一部だったのではない。
浅草は、江戸など問題にならないほど古くからひらけた地域であった。

ところで、問題は浅草橋である。

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上の写真は浅草橋の北西の橋詰、つまり国道6号(旧陸前浜街道)歩道の台東区浅草橋1丁目側から撮影したもので、左手の橋を渡れば中央区日本橋馬喰町2丁目である。
つまり浅草橋は、中央区と台東区にまたがり、それを境する神田川に架かる橋である。

さて、右手前に石柱が建てられていて、「浅草見附跡」とある。
画面中央には、台東区の説明板も掲げられているのが見えるかも知れない。

その説明板を読んでみよう。
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「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草橋
 浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は、神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
 江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見付といわれた。
 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
 台東区」

一読して文章に違和感をもてたとすれば、その感覚はまっとうである。
第2パラグラフ第2センテンス「奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた」は、まともな文とは言えない。
ひとつの述語に対して主語とそれを受ける格助詞「は」が複数あり、読点の使い方も無神経で、文意を混乱させているのである。
このセンテンスの「主」語は、「地は」ではなく「門は」である。
言いたいことをはっきりと相手に伝えるならば、修飾部と主語述語の主部を明確に区別し、「この地は奥州街道が通り、浅草観音への道筋にもあたることから、築かれた門は浅草御門と呼ばれた」としなければならない。

この「案内」は、まともな校正プロセスを省き、そのまま公示された役所駄文の典型で、読む者を見くびっているとしか言いようがない。

そうしてこの「案内」には、文法上どころか、史実上の誤認とその結果の重大な誤記が存在するのである。

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