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うたの位相 その5

問題は「うたの位相」である。つまりそれが「詩」と言えるものであるかどうか、である。
「うた」は虚構の共同性とその過去が現在を拘束するサイン(合図または痕跡)である。

しかし「詩」はそうではない。
それは虚構と無縁の未来から飛来して「私」を拘束する言葉であり(ヨシフ・ブロツキイ『私人 1987年ノーベル賞受賞講演』)、啓示であり、予言ですらあるからだ。

先の大戦において、日本文藝家協会を母体として情報局(内閣情報局)が日本文学報国会を促成したのは敗戦を3年後に控えた1942年(昭和17)であった。
その詩部会の会長には高村光太郎が任じ、そこには今日名前が知られるほとんどすべての「詩人」が網羅された。

前年『智恵子抄』を出したばかりの高村は、病妻に対したと同等あるいはそれ以上「真摯」に時局にのめりこみ、戦意称揚に邁進したのであった(「地理の書」ほか)。

つくりだされた危機における虚構(「日本」)への回収や美のことあげは、結局のところ虚構のひとりよがり(廓言葉)の隘路に自らはまり人を陥れる仕業にほかならない。

アイロニーの悲愁をスタイルとした「日本浪漫派」も、「町内会」を離陸して視ればゲルマン優種の神話で民族浄化を正当化したナチスの宣伝と基本的に変わるものではない。

意識的あるいは無意識に「世界」を断って、ひとりよがりの善意と正義、そして悲愁に埋没したうたびとは、決して「詩人」などではなかったのである。

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