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「都市景観論」の袋小路

「美しい日本」を標榜する政治家が、総理大臣になって何ヶ月もしないうちにポイと重責を放り出したと思ったら、またぞろ復活の様相だけれど、
現代日本の、とりわけ都市景観は美しいどころではなく、醜い。
これは、おおっぴらには言われないことだけれど、あきらかな事実である。

その醜さに、さして関心をはらわず、こんなものだと思っているのが一般の日本人らしい。
そうして、京都の一角や盆栽、折紙の「幻想」(イメージ)が、井の中の蛙の脳ミソを占領しているらしい。
街並みだけでなく一般家屋も、たいがい安っぽく、みみっちいのに、モノだけは詰め込んでいる。

寺院や城を除いては、安っぽい家屋が建ち並んでいた江戸時代は、しかし街並み自体は醜くはなかった。
江戸の街自体は、むしろ美しい部類に属していた。

渡辺京二ではないけれど、「美しい日本」は、せいぜい江戸時代までの話。
まあ、現代日本の都市も、歩道をふさぐ電柱と垂れさがる電線、パチンコ屋とサラ金、テレクラの看板とネオン、ビルの屋上の設置物を一掃すれば、それだけで
だいぶマシにはなるけれど、道路にせり出すばらばらの建物とひとりよがりデザインはどうにもならない。

建築家は、個々のデザインや機能を競い、自慢することを止めて、この「醜い」事実を直視するところからはじめるべきだろう。
「地形」に目が向くのは、建築の個別性の袋小路から出たいという衝動だろうが、地形自体を「集め」「分類し」「カタログ」化して
面白がっているだけではどうにもならない。

否定性を媒介としないかぎり、行為は腐臭を放つだけなのだ。

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