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江戸の崖 東京の崖 その28

震災と原発ですっかり中止状態になった当ブログ不定期連載の「江戸の崖・東京の崖」だが、某出版社には同じタイトルで単行本1~2冊分の原稿は渡し済みだし、毎月1回、もう四十数回つづけている淑徳大学の公開講座名もこの春から「江戸・東京崖っぷち紀行」と変更したわけだし、日本、いや日本列島そのものが地震と津波と原発ですでに崖っぷちであることが世界中に知れわたったのだから、「崖話」もそろそろ開始してよいと思われる。
もちろん、かくいう当人が経済的にはますます崖っぷちで、辛うじて国分寺崖線の崖際にとどまっていることに変わりはないのです。
で、崖男の崖話を再開。

六本木ヒルズと東京ミッドタウンというきらびやかなランドマークを擁して、いまやトーキョーの顔となった感のあるロッポンギとその隣のアザブ地区だけれど、ロッポンギはいざ知らず、アザブが「崩壊地形」を意味する「アザ」「アズ」という語に由来する、とは当ブログ「江戸の崖 東京の崖」その18(昨年10月16日)で述べた通り。
だから、この一帯には、大小さまざまな崖が、捜せばあちこちにみつかるのです。

たとえば、
地下鉄大江戸線の六本木駅から地上に出、ミッドタウンガーデンを背にして外苑東通りを横断し三差路の南の並木道をくだると昔の陸軍歩兵三聯隊跡(1962年から2000年頃まではその建物を東京大学生産技術研究所に転用していた)、今、国立新美術館と政策研究大学院大学の二つの施設が割拠する一角に至るのですが、その並木道が妙なのですね。

奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる
奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる

ご覧のように、東南側が切られたように最深部で1.5メートルほど落っこちている。そうして、東南一帯はそのまま低い土地である。
これを崖と言うか否かはさておいて、どうしてこんな形になったのか。
放射能汚染地域ではあるまいし、わざわざ道の片側だけを掘り下げ、広範囲に表土を削り取るわけはないから、むしろその逆だと考えるほかない。

この道を下って、旧東大生産技術研究所の向いの低地の角地は、70~80年代は夜な夜なお盛んなところだったとは、土地の人からの話だけでなく、筆者も確かに覚えのある場所。今ではビルの一階でもガラスを透かして倉庫然として見えるけれど、昔は結構広くて、知的そうなママさんがいた店(バー)ではなかったか知らん。某文芸評論家との間にできた子がいるとの話だったが、その評論家は新宿方面でも子をつくっているので、あちこちに「落として」いたのだな・・・。

右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ
右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ

さて、そのかつての夜の街の一画はというと、これも都市繁華街の立地定式にもれず、実は渋谷川支流、正確に言うとその下流の古川の支流、笄(こうがい)川のそのまた支流が侵食した跡なのですね。もちろん水の流れが切り立ったように削ったわけではなく、外苑東通りの尾根筋から支路を通すため、低地に道の部分だけ盛土したのでしょう。

『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷
『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷

結局は人間の手が加わってつくりだされたかたちでしょうが、このようなところに、謎と疑問を感じるところから、人は、いま大きく世の関心を集めることとなった、「地形」にちかづくことができるのです。

6 Responses to “江戸の崖 東京の崖 その28”

  1. collegioon 15 5月 2011 at 9:13:46

    昨日、公開講座の「江戸東京崖っぷち紀行」の麻布・六本木編で上記の場所を通ったのだけれど、受講者の一人から「ここ、ブラタモリでやってた」との声。
    テレビでは、段差の「下が江戸時代、上が明治時代」と説明していいた由。
    マンガにすればそうなる。
    私の説明は、「第一聯隊と第三聯隊の間の窪地に盛土して、両者をつなぐ真直ぐな道を通した」ため。
    新道の際にあった、フランス料理の「竜土軒」の開業が1900(明治33)年だから、道の開通もその頃と推定。

  2. iGaon 24 5月 2011 at 11:39:19

    ここは道筋と川筋跡の間が歩道と緑地になっていますから想像しやすいですね。同じ笄川で根津美術館の池を水源とする支流は川筋跡が南青山4丁目から西麻布方面の一方通行道路に、西麻布から南青山4丁目方面に抜ける一方通行道路が旧道で麻布高校にあった日向高鍋藩秋月家二万七千石の上屋敷と南青山4丁目にあった秋月家の下屋敷を結ぶ道でもありました。
    気になるのは北坂の位置がいつのまにか根津美術館の北側の坂道をそう呼ぶようになってしまったことです。根津美術館の裏道は谷道と言うよりも沢になっていた筈ですから、其処に道路を設ける筈はなく、立山墓地の下にある庚申塔から尾根を登る坂道が秋月家の下屋敷の北門に接している訳ですから…この道幅2.5m程度の坂道が北坂であると思いますが、芳賀さんはどう思われます。

    彷徨える北坂
    http://madconnection.uohp.com/mt/archives/000558.html

  3. collegioon 24 5月 2011 at 19:07:54

    コメントありがとうございます。
    このあたりの事情については、以下の2つが参考になります。
    ①季刊Collegio No.37,Summer 2009の井手のり子氏の文章「姫下坂」。
    ②石川悌二『江戸東京坂道事典』コンパクト版、2003年のp208「北坂」の項。
    ただし井手さんの文では『赤坂区史』に依拠して、立山墓地西の坂が明治36年に開設としていますが、「港区沿革図集」の延宝図を見ても既に坂はありますので、五十嵐さんのご意見でよろしいのではないかと思っています。
    すくなくとも現在の北坂は、明治10年代の地図は「沢」の流れで、②に紹介されている『新撰東京名所図会』の「従前、樹間より滴る露と崖陰より湧き出づる小径一条、蛇のごとく通ずるのみなりしを明治32年、土工を起し開鑿」したのではないかと。
    ただし、私は現地を確認しておりません。
    来月の淑徳大学公開講座の予定地が青山ですので、コースに組込んで下見するつもりです。

  4. iGaon 26 5月 2011 at 0:48:45

    御回答有り難うございます。実は南青山四丁目の秋月家の下屋敷跡に70年代から90年代の初めまで、通算すると足掛け15年位、勤め先と独立してからの事務所もありましたので、西麻布から六本木辺りまでちょくちょく徘徊しておりました。ですから表参道につながる御幸通り(この名称は古い人しか知らないがフロムファーストの隣のマンションに辛うじて名が残っている)も、未だ屋敷町の面影が残っていました。
    先ほどGoogleMapで見たら大隈重信の別宅があった周辺(建設省の公務員住宅と単身者住宅等もあった)が更地になっていて岡本一平・かの子の住いだった場所に建つ旧岡本太郎邸(坂倉準三設計)の裏が丸見えになってましたですね。この辺りの地形も微妙で、緩やかな窪地になって、根津美術館の庭園に繋がっていたのでしょうが、青山墓地から骨董通りに抜ける道を新設したときに風景が失われたみたいです。山下和正さんが手掛けたフロムファーストも地盤は確かシルトだったと記憶してますが、御幸通りを挟んだ向かい側は関東ローム層と、昔の地形を反映した地層となってました。

  5. collegioon 26 5月 2011 at 9:38:31

    ありがとうございます。
    ぎっくり腰のため伏せっていて、昨日ようやく新刊営業に渋谷新宿を少し回りました。
    そのまま足を延ばして、「下見」とも思いましたが、腰に負担が大きく断念。
    ただし、お陰様で、青山原宿近辺の着眼どころがはっきりしてきたので、大変楽しみです。

  6. モンブラン 財布on 27 6月 2013 at 18:57:02

    本物は簡単に完成させられるものではなく、不朽の美を追求するには時間がかかるのです。

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