福島県郡山市の独自の行動が、波紋を拡げている。
「波紋をひろげる」とは、不安や問題視を前提とした表現だが、ここでは敢えて逆に、「正しく、かつ根源的な影響力をおよぼす」という意味で用いている。

この27日から、市立の小中学校と保育所計28箇所の表土を削平し、放射性物質汚染に対応するという。
これに対して、県教委(福島県)は、「必要ない」と。
だから県立高校の校庭はそのまま。
文部科学省も「いまのところ必要ない」という。
要は、指示もしないのに、市町村が勝手なことをするな、といいたいのだろう。

そこに住む者の立場になって考えてみると、国や県の役人の頭の中が、まったく逆立ち構造をなしているのがよくわかる。

「県」とは、秦の始皇帝が採用した郡県制にはじまり、白川静の『字統』によれば「郡県の郡は、古く氏族国家の首長であった里君の所領地であり、また県は国の直接の支配地」を指すという。
千年も二千年も遡れば、「地方」は独立した部族や氏族、共同体の排他的な領域であった。

征服王朝が、直轄地の「県」を持ち込み、「地方」を分断する。
日本の場合は、明治維新で、地方そのものが「県」ということにされてしまった。
県は最初から「国」の都合を「地域」に分配する出先機関の性格を与えられていた。

県に組込まれてしまったといっても、地方はその顔を県や国に向けていては、存亡の危機に、その現実に、対応できない。

誰が、東京の電気のために、東北の一画に危険極まりないシロモノを持ち込んだのか。
第一義的に責任があるのは東京電力であり、次にそれと一体になって原発政策を推進した省庁つまり国家である。

現在、国際社会においては、日本という国は、震災・津波の被災者であるが、その反面、原子力発電装置を安全に運営する能力に欠け、放射性物質を空気と水にのせて世界に拡散させている当事者である。
核拡散ではなく、放射性物質を拡散している、加害責任を負うものだ。
そうして、地域社会においては、地方の住民から居住と職とを奪った当事者である。

この場合の当事者とは、告発を受ける被告人、つまり現行犯法人ということになる。
現行犯人が、被害者に対して「指示」や「命令」を出すことはありえない。
被害者が犯人に指示を仰ぎ、それを待つことはありえない。

地方すなわち市町村が、危機に際して独自に判断し、独自に行動しなければ、その現在も未来も、座して棄てることになる。
国は、そして県は、原理的に、地方に「犠牲」を強いることはあれ、それを「守る」ことはない。
元来、そこにあるベクトルの構造は双方向ではなく、ほとんど単線であり、かつ「その場所」から思考するに逆向きなのだ。

だから、
郡山市の独自行動は、当然である。
川内村が、独自の判断でおこなった「全村避難」も当然であった。

いま、日本列島の危機にあって、「市町村の思考」が、頭をもたげはじめている。
願わくはこの動きが、列島の未来の希望であらんことを。

One Response to “「県」と「国」  ―頭の中のベクトルを逆にすることについて ”

  1. 禅僧、木村on 01 5月 2011 at 17:37:47

    まがりなりにも大学教授の男が20はだめだ、10ならいいと言って泣くこともあるまい。松本健一と同じく「学問」業界の思考をしているのが「政治」業界(政界!)で通じなかったということに過ぎない。放射線の効果なんてビタミンCの必要量や血圧降下薬の効果ほどにも実証されてはいないし、大正製薬の“商品”取説に「子供は半錠、大人は1錠」とあっても12歳の100キロデブと100歳の骨皮婆さんでは逆だろうし(禅道場の「立って半畳、寝て一畳」は絶対真理だが…)、70歳の俺は缶ビール1本で酩酊運転を認めるが二十歳の相撲取りは1升ビンを空けても平気だし……。しかしどこかに基準・制限値を決めなければ何もできないということで、大まかに決めているだけでしょう。
    で、「年間20シーベルト」も「子供の屋外滞在時間が8時間として云々」も全く“一応の”“暫定”基準にすぎないとして受け止めないと、土曜日半日授業をすると5分の5.5倍か、といった議論が大真面目に始まってしまう。小1と中3では放射線耐性も平均(?!)10倍くらい違うとは思うけれども……。

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