4月16日のNHKテレビ放映。
敢えてアクチュアルなテーマに挑んだことには敬意を表する。
サンデル先生の立地点は、日本の権威主義的で保身的な「学界」などとは、はなから異なっているのがわかる。
しかしまあ、「正義」論で登場し、日本でも大いに売れたからな、このハーバード大の先生は。
だが、「正義」についての論議を期待した講義の内実は、大いなる幻影だった。
東京・上海・ボストン3都市のエリート学生たちを主体とした討論に、決定的に欠けていたのは、「地方」という視点、
「ジャパネット」の高田社長まで出て来て発言したのには驚いた。
出演者・発言者はみな、大都市に住む、「勝ち組」たち。
欧米と東洋、個人主義と自己犠牲的共同体意識、「単一民族国家」と多民族国家
島国国家と大陸国家、掠奪のない日本と便乗値上げのあったカトリーナのアメリカ・・・
こうした対立項を用いた討論は、すべて「キレイゴト」であった。
トーキョー放送局・NHKが仕組んだ、「日本ほめ」の猫だましエンタテイメント。
いま、日本列島が直面している最大のイッシューは、そこには不在であった。
それは、露骨に言えば、トーキョー国家による、「地方」に対する、ウソと不正義、いや、政治的詐欺という「犯罪」である。
フクシマは、トーキョーのために、住も職も、食も、自立できず、剥奪され、のみならず「差別」をうけつつあるからだ。
そこには、「自己犠牲」も、「英雄」も、生じる余地がない。
ギセイ規模は空前で、終息にむかうどころか現在進行中であり、なお予断を許さない。
だから、もし根源的な政治の「正義」を語るならば、その講義のの第一命題は、「フクシマはトーキョー帝国から独立すべきか」と、立てられるべきだったのだ。
一国家の「最大多数の最大幸福」のために、一地方がその意思に反してギセイとされるなら、その一地方には反乱の権利がある。
すくなくとも、その権利を「可視化」するのが「正義論」である。
この番組に、「正義」は不在であった。
「グローバル化」の結末。
アメリカにも、日本にも、中国でも、「健全な中間層」が崩落し、「巨大都市のエリート層」と「それ以外」に分解したことが、この番組でもよくわかった。
そうしてとりわけ日本においては、「それ以外」の層の「言説不在」が著しい。
しかし、すくなくとも日本において、巨大都市が自己の「消費」のために、自己以外の「辺地」に「原発」という「最終汚染源」を押し付けたことによって、逆に都市民は「疎開」する場を失ったのだ。
「都市」が「自然」を喰い尽くし、自ら崩壊の道をたどる構図が、ここにある。
サンデル先生の個人的な意図、すなわち日本を勇気づけ、支援したいという心情はよくわかる。
しかし、いまの、そしてこの列島の未来の鍵を握るのは、水道や電気、下水といった巨大人為独占システムによって維持されている「中央都市」ではなくて、むしろ「地方」の自立性なのだ。
現代政治哲学は、「巨大都市の論理」を越えて、再構築されなければならない。
「閖上(ゆりあげ)・荒浜」
つねあれば 春待つ田面(たづら)
地異津波 汚泥ひろがり
流木や ひしゃげた鉄の
色あせて 散じ突き立ち
杉の木の 転じ重なり
絡む根の 何をか掴む
アスファルト 舗装はちぎれ
「止まれ」字の 砂に座礁し
松林 ばきりばきりと
胴だけの 列をつくれり
少年の 足裏(あうら)砂掻き
貝採りし 古き運河は*
海側の 片岸のみに
とりどりの 瓦礫山なす
今日は晴れ 空の青きに
片雲(くも)の下 異臭少しく
指(さ)す方に 老眼(おいめ)凝らせば
セロファンの 風に捲れて
三本の 枯花斜めに
泥に挿しあり
一月の経つ
*貞山堀(ていざんぼり)の貞山は伊達正宗の諡号。昭和30年代まで、大粒の蜆貝が獲れた。
江戸時代初期に通船のため、仙台の沿岸に開削された貞山堀は、津波の引潮でその海側の岸に瓦礫が集中した
法政大学の竹田茂夫氏によると、「すでに三十年前に原子力は民主主義への脅威だという議論がドイツで行われた」という。
そこにあるのは、日本で言えば、官-政-業-学の神聖共同体(原発村)であり、国家管理と癒着と利権が跋扈し、地元とマスメディアに麻薬(金)を配布する。
そうして、タブーが生まれえる。
「情報」は、原発村の一部が独占し、そのコントロール下におかれる。
発表は恣意的であり、情報をもたないジャーナリズムは、その垂れ流し機関とならざるを得ない。
日々厳しさを増す状況のなかで、
亡霊となったと思われていた、もろもろの愚劣な怪物が、起き上がり、眼前にそのグロテスクな姿を、少しずつ露わにしつつある。
百万人単位の死者を出したあの戦争から、日本人は、結局、何も学ばなかったのだ。
政治と権力の原理が、まったくわかられていないのだ。
これは「禁じ手」である。
「原発に関する〈流言飛語〉取締」を、こともあろうに「政府当局」が呼びかけることの意味が判られていない。
日本は、そして日本人は、どこかの国の一党独裁ネット統制に対して、今後一言も批判することはできないだろう。
以下は総務省のサイト
http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban08_01000023.html#0
「古地図は、その時代の〈世界観〉を反映したものである」とは、よく言われること。
なにも、古地図に限らない。
地図は、その時代の世界認識を反映したものである。
そうして、これは世界認識に限らない。
地図は、作製者の現在の状況認識を反映したものである。
またこれは、状況認識に限らない。
地図は、作製者の状況認識と作成意図を反映したものである。
さらにそれは、作製者の内部に収束するものではない。
地図は、それを見た者の、状況認識を規定・拘束する。
原発、放射能汚染、にかかわる地図は、その作製者の認識と意図を反映し、かつそれを受容する側の状況認識を拘束する。
かかるところから「風評」は発生する。
と、取敢えず。
図例は後に。
実は、3月24日には、放射性ヨウ素による「甲状腺被曝線量」をあらわす地図が、原子力安全委員会のコンピュータ試算で発表されていた。
いわゆる30キロ圏外でも、3月11日から24日まで屋外にあった仮定しての被曝総量が100ミリシーベルトを超えるところがあると。
IAEAが3月30日に警告した、飯館村の高濃度汚染(1平方メートルあたり2メガベクレル。IAEA避難基準の2倍の濃度)という事実も、この地図が正確に示していることがわかる。
このような地図は、「当局」が意図すれば、つまりつくろうとすればつくれるのだ。
すべては、この地図と、その更新図に依拠して、かんがえ、実行されるのが正しいはずだ。
ちなみに、この地図で「飯館村」は、上部の「福島」という文字のある一画にあたり、県庁所在地の「福島市」は、「川俣町」の西隣(図外)になる。
このような地図は、一度報道されただけで、以後はいつもの同心円図が相変わらずのさばっている。
人は、放射能でいまとりあえずは死ぬことはない、として、かろうじて日常を維持し、政府も「とりあえず」に依存してようやく体裁をとりつくろっている。
しかし、参照すべきは、スリーマイル島事故ではなくて、すでにチェルノブイリ原発事故の例であることは、誰の目にもあきらかになりつつある。
そうして、これらの図をみてもう一つあきらかになることは、20キロ、30キロといった同心円の図が、いかに実態にそぐわず、悪影響すらおよぼすか、ということである。
そこでは、不細工な地図の「力」が、社会に逆作用をおよぼしているのである。
2011年3月24日東京新聞(夕刊)掲載地図
ここに掲げたような地図は、被災地の、そして避難者のもっとも切実に欲している地図である。
これが正確に公表されれば、人は動くすべがある。
風評を封じることばができる。
こうした図が、なぜ日本の気象庁から公表されないのか。
花粉情報はよくて、放射線汚染情報はなぜだされないのか。
それは、通常の判断力をもってすれば、そこに隠すべきものがあるから、と推理するのが正しい。
東京新聞、2011年4月1日掲載
地点ごとの測定数値を記載した地図は、「ないよりまし」といった程度。
しかも、その表現自体、何を意味するかを示さず、ただ公表された数字のみを羅列する朝日新聞のような例と、
過去の数値を併置して、その「意味」を示す東京新聞のような例があって、限られた情報を工夫して伝えようとする意思の有無がみてとれる。
朝日新聞、2011年3月23日
東京新聞、2011年3月24日
今尾恵介さんの新刊『地図で読む戦争の時代』 -描かれた日、描かれなかった日本- (4月9日刊、白水社)は大変よい本だ。
しかし、一見してすぐに暗澹としたのは、そこに紹介されている「戦時情報統制」なみの状況が、いま、日本列島に出現していると気付いたからだ。
「地図の力」とは、一瞥すぐに概況を把握できることだ。
その「力」をもった「汚染地図」が、いま、とりわけフクシマの人々に、切実に求められているのに、国内では公表されない。
あいもかわらず、20キロ、30キロ圏の同心円地図である。
夕刊フジ、2011年3月18日掲載地図
原発を撮影した鮮明な写真画像があるのに、それを公開しない。
そのあまりにも無残な姿は、外国のネットに掲載されている。
それは、敗戦後、天皇がマッカーサーをGHQに訪れた時に撮られた、二人が並んだ写真を思い出させる。
あの衝撃的な写真は、当時の政府が「報道禁止」したが、占領軍がそれを公開させた。
原発の鮮明な写真は、冷却系も配管がずたずたに破断していて、「小康状態」どころではない有様が明白になるから、すくなくとも日本国内では報道に載せないのだ。
3月24日無人飛行機によって撮影された、福島第一原発3号機
ドイツ気象庁が日々発表している、放射能汚染地図も、日本では公の情報とはなっていない。
日本のテレビや新聞は、数字や半円(20キロ圏、30キロ圏)の図を示して、「風評被害」を再生産している。
大日本帝国陸地測量部が作成していた戦時下の地図には、「戦時改描」がなされ、また空白部の多い地図がつくられた。
けれども米軍はより精確な地図を自らつくりあげ、精密な爆撃を行っていたのである。
「戦時改描」や「空白地図」は、結局のところ「国内向け」「国民」に向けの「戦時統制」にすぎなかった。
いま、その戦時下並の情報統制が目論まれている。
おそらく、政府や東電には、「公開されない地図」「公開されない写真」がある。
つまり、秘匿されている、重大な事実、あるいはその「可能性」があるからだろう。
「記者クラブ」や「記者会見」に頼っている、あるいはそこに自己規制しているテレビや新聞はもう機能しないのだ。
人は、情報をインターネットに求めざるを得ない。
多少の希望は、「すき間」があること、人間の誠実さと理性もまたそこに見いだせることである。