JR中央線・総武線四ツ谷駅ホーム南側の擁壁
江戸の街の範囲は、現在の山手線のほぼ内側とその東、深川や向島など川向う一帯と言われますが、そのうち川向うは新開の埋立地。自然地形としての崖の存在余地はありません。現在の東京湾に割拠するゴミ処理島に積み重なった廃棄物の段差には、あるいは似て非なるものがあるかも知れませんが、それも圧縮されてフラットになるのは時間の問題です。
東京を23の特別区に限るとすると、そのうち江東六区(台東・荒川・足立・墨田・葛飾・江戸川)から荒川区を別にし、代りに中央区を加えた6区を山手台地に関わりのない区として除き、残り17区に存在する崖ないし擁壁、つまり急斜面が何箇所あるかというと、これが2万2千612件というのですね。この数字は1969(昭和44)年の東京都首都整備局建築指導課の調査によるものですが(中野尊正ほか「東京山手台地におけるがけ・擁壁崩壊危険度の実態調査」『土と基礎』1972年2月号)、そこでは、河川敷地内の護岸、鉄道や公園用地内、道路敷地などの擁壁のうち、一般住宅に直接関係のないものは除外されているのです。
私たちが日頃、山手線や中央線の駅ホームや走行する車窓に目にする、ほぼ直立コンクリート壁などを除外した数字としても、2万2千箇所以上なのですね。ただし、ほぼ40年前の数字ですから、都市整備も道路が中心で、住宅地の急斜面保護などはまだ十分ではなく、露出した崖は今日より余程多かったと思われます。この調査で「がけ」とは人工的な被覆で保護されていない急斜面を言ったわけですが、今日、東京23区内でそのようなむき出しの「がけ」を目にするのは、特別な場所以外では難しいのです。
この調査の対象は、「高さ3メートル以上、傾斜30度以上のがけ・擁壁のすべて」とされましたが、ここでは「がけ」と「擁壁」を区別することなく、同様の傾斜、比高のある急斜面をすべて「崖」と呼ぶことにします。
ところで地質学においては、崖は「垂直または急斜した岩石の面」とされ、その成因にはおもに「変動崖」と「浸(ママ)食崖」の二種類があるとされます(地学団体研究会新版地学事典編集員会編『新版地学事典』1996年)。変動崖とは、断層崖のような地表の運動の結果出現した急斜面を言い、東京23区内でその例をみることはなく、自然の崖はすべてが侵食崖といっていいでしょう。この場合、地形を「しんしょく」するのは、水の作用ばかりではないので(寒暖の差や風、日光の影響も大きい)、「侵食」と表記するのが一般的です。また、一般に崖と言われるものが必ずしも岩石面をさらしているとはかぎらず、都市域で岩石の崖を見ることは稀でしょう。
さらに成因において、東京の崖には「切通し」などの人工崖がかなりの割合を占めると言っていいのです。もともとは自然の営為がつくりだした急斜面であっても、線路や道路の拡幅ないしは開削のため削りとられ結果あらたに出現した壁面は、いたるところにその例を挙げることができるでしょう。しかし、まっさらな台地の真中を切り裂いたような人工崖は数少ない。
21世紀初頭、そこここに超高層ビルのそびえ立つ世界都市東京の中心部は、往時とはすっかり趣を異にし、地形すら改変されてしまったところがあちこちにあります。しかしそのような人工都市のなかにも、何万年という時間を単位とするダイナミックな「造化のはたらき」をさぐる手掛かりを見つけ、あるいは推定することは不可能ではありません。
私たちが垣間見んとしているのは、人間の歴史のスケールをはるかに超えた世界の物語なのです。
さて、ひるがえって江戸東京どころではない武蔵国の歴史元、多摩の国府周縁に住む筆者の場合、寓居も仕事状態も「近い崖」、というより文字通り崖縁(がけっぷち)。ただしこちらの崖は多摩川が造り出した段丘崖のひとつで、かの「国分寺崖線」の際(きわ)なのです。つまり辛うじて崖の上で、頭上に吊るしたダモクレスの剣とは逆に足下崩壊の緊張をはらみつつ、しかし南に開けた眺望には、往時資産家クラスの面々が好んで自邸立地を図ったそれと同一のものがあるのでした。この「近い崖」には、JR中央線国分寺駅南口から数分で到達する。
崖が近すぎると、「崖棲み」という言葉をちらりと思い浮かべる。けれども、この言葉にはむしろ『門』(夏目漱石)の主人公野中宗助夫妻のように、崖縁ではなくて崖下にひっそりと生を営む姿が相応しい。一方、もうひとりのソースケ(宗介)の家は、逆転して崖の上。もちろんこちらは『崖の上のポニョ』の主人公の話。
ところで、漱石自身が崖下に住んだという話は聞かないけれど、樋口一葉の終焉の地はまさしく崖の下。その家には後年漱石の弟子の森田草平がそれと知らずに引っ越して来ます。崖下の現在は文京区西片一丁目の白山通りに面した一隅。ただし現在、通り(白山通り)から崖を認めることは難しいでしょう。いずれ、苦心して撮った写真を貼っておきます。
森田の師の漱石はその崖の上に住んだ(西片の家)。ただしその期間は明治39年11月から翌年9月までで、「猫の家」と「漱石山房」の間にはさまれた1年未満。しかしながら一葉が住まいと知って己の文運予兆を喜んだ森田の借家は、明治43年9月の豪雨によって、崩落土砂の下となり、全壊してしまうのです。同じきわどく危ういようでも、崖縁より崖下のほうが、つらい結末があるかもしれない。
萩原延壽(のぶとし)という在野の歴史家が遺した仕事に、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』(文庫本で全14冊、2008年完結)がありますが、このタイトルには、ヨーロッパから海路はるばるたどり着いた極東の島国の、連続する霞んだような青い海岸線を望見する実感がこもっています。それもただの海浜ではない。容易に異人の上陸を許さない構えの、急斜面の連なり。
文久2年(1862)9月8日、初めて横浜に来航し、後に英国駐日特命全権公使となったE・サトウについては、『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、岩波文庫、上下巻)がよく知られていますが、しかしながらこの「遠い崖」が具体的に何処を指して言ったものか、両書いずれも確たるところを示しているわけではないのです。
一方、東京帝国大学の初代地質学教授でナウマン象にその名を残すH・E・ナウマンの後任教授となったD・A・ブラウンスが、その論文「東京近傍地質篇」(1881年)で「そもそも外客の始めて横浜あるいは東京に着するにあたり、まず眼に上るものは、いわゆる沿岸の峭壁にして、その海浜よりの距離はつねに一定せずといえども、たいてい彎曲線をなして互いに連続するを見る」と述べていることを紹介し、この場合の峭壁(しょうへき)つまり崖とは「東京あるいは横浜の山の手台地が、下町低地に接する崖であ」るとしているのは、『東京の自然史』(貝塚爽平)でした。
たしかに、浦賀水道を通って横浜に接近する船のデッキから西北に視線を投ずれば、東京湾の水際に目立つのは今日では、珍しくもない高層ビルの林立姿でしょうが、当時は地形が一目で判然としたでしょう。手かざしで眺めれば東京湾奥と横浜の間、山手の台地と下町低地を画する台地東縁の崖は一本の線となって走っていた――。サトウはこれと別の場所を指してガガーリン(「地球は青かった」)並の感慨を漏らしたのかも知れませんが、以下、東京の山手と下町を画すほぼ南北の長大な崖線を、仮に「遠い崖」と呼んでみたいと思います。
永井荷風は『日和下駄』のなかで、「崖」を「坂」の前に据えて一項を立て(第九 崖)、次のように述べています。
《崖は閑地や路地と同じようにわが日和下駄の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。何故というに崖には野笹や芒に交って薊、藪枯(やぶから)しを始めありとあらゆる雑草の繁茂した間から場所によると清水が湧いたり、下水(したみず)が谷川のように潺々(せんせん)と音して流れたりしている処がある。また落掛るように斜(ななめ)に生(は)えた樹木の幹と枝と殊に根の形なぞに絵画的興趣を覚えさせることが多いからである。もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ宛然(えんぜん)堡塁(ほうるい)を望むが如き悲壮の観を示す。》
古来、ガケは文章というよりは絵画において好んで表現されてきたと思われますが、ここにあるのは近代の文章に独立してとどめられたガケ一般のイメージの典型です。
この後、荷風は次のように文をつづけます。
《上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中(うち)で最も偉大なものであろう。》
この「偉大な」ガケを確かめたいと思う向きは、JR山手線内か京浜東北線に乗って、上野から田端あるいは王子までの間、西側に走るガケ並に目を凝らすか、もしくは例えば日暮里駅北改札口を出て、下御隠殿橋なる陸橋(跨線橋)の上から線路にそってつづく垂直崖をじっくり「観賞」するか、いずれにしても移動と定点と両様の方法がありえるわけです。
タイトルに謳っておきながら、一体「江戸」はいつ出てくるの、と羊頭狗肉を疑っておられる向きもあるかもしれません。
たしかに、この「江戸の厓 東京の厓」という設定には、現在残された手掛かりから、どこまで「地形」を遡りそれを露出させられるか、というモチーフが横たわっています。
もうすこし言えば、「人間以前の場所」への憧憬。
けれども、江戸や東京はその逆遠近の眺望から、もっとも遠いところに位置しているようです。
多摩ニュータウンも、山を崩し、谷を埋め、鉄とコンクリート、アスファルトで表面をコチンコチンにしてしまったのですが、江戸の中心部は実はその初期に、今日からみてもとんでもない大規模土木工事を積み重ねていて、オリジンな地形はほとんど残されてはいないのです。
そうして、もっとも難儀なのは、江戸時代初期の、リアルタイムな地誌記録が、まったく湮滅していることなのです。
鈴木理生さんは、家康江戸入府から100年間の地誌欠落について、徳川氏による意図的な史料抹殺のためと断定しておられますが、たしかに有力な仮説でしょう。
つまり、すんなりとは受け継がれない、何か強引無道なわざを、徳川「進駐軍」は力にまかせて行った可能性がある。
だから、記録は残さない。人の書いたものまで探し出して破棄し、水も漏らさぬ情報管理を徹底した・・・と。
秀吉命下、旧姓松平は根拠地からの転封で、加増とはいえ鄙の遠地に追いやられたのだから、逆に「伝統」や「権威統制」のきかないところで、徹底して地堡を固める決心をしたものか。
鈴木さんは、鎌倉円覚寺領としての江戸前島の例を挙げて、中世以来の寺社権門利権を強奪したため、と言っておられたと思いますが、いまだ明らかならざる謎が隠されているのかも知れません。
いずれにしても、江戸・東京の記録(歴史ドキュメント)のレインジには、大きな断絶がある。
たった300年遡って、そこからはもう断崖。
先は潜るか掘るかしなければわからない。
その300年前の突端に遺された数少ない記録のひとつが、私の好きな戸田茂睡の「紫の一本(ひともと)」。
ただし永井荷風も指摘しているように、「紫の一本」にも、他の江戸の地誌類と同様、坂や窪、山や池などの項はあっても、「崖」の一文字を見出すことはできないのでした。
ガケは、通常「崖」と書くでしょうが、字義からいえばとくに山地でもないかぎり、また江戸・東京という都市部を扱うからには「厓」としたいのです。中国文字を吟味するには今時流行の白川静先生の説を参照しないと手抜きということなのでしょうが、「厓」くらいはパスしてよいでしょう。白川流の無理やりシャーマニズム(呪術)や奴隷制という、人間の脳内作用投影の必要もないのです。
で、話は突然動物の世界に飛ぶのですが、漢字では「とり」を表わすに二種類の基本型があり、ひとつはもちろん「鳥」、そしてもうひとつは「隹」つまり部首の「フルトリ」で、前者の代表はニワトリの類、対して「隹」は尾の短い小鳥をあらわす、というのが一般的な説明でした。
森鷗外の小説のタイトルでもある「雁」は、しかし鳥でなく隹。野生のそれを実際にご覧になった方は多くないかもしれませんが、江戸の田圃や水辺ではよく見られた冬鳥で、結構大型の鳥です。今日東京周辺では決して見かけることができない。
ウミウかカワウが飛んでいるのをカン違いしたらしく、近時東京でも雁行を見たと仰った先生がおられましたが、それはあり得ない。編隊飛行はガン類に典型的ではあるけれども、ガンだけの特性でもなく、またガン類は鵜などとは異なり、植物性の餌であの結構大きい体躯を維持しなければならないので、今日の東京とその周辺を住処とすることは不可能でした。
人間自身の水ないし飲み水を考えてみても、「都市」ないしそこに住む私たちは、それほどまでに「遠くに来てしまった」のです。
さてしかし、この鳥にはなぜだか「厂」(雁垂・ガンダレ)が付いている。けれどもガケの鳥というわけではない。「ガケの鳥」は別にいて、それはブログでも書いたようにウミウとイワツバメが代表選手です。
雁にどうしてガケが関係するかというと、「雁行」するからなのですね。昔、文部省唱歌「雁がわたる」で歌ったように、「カギになる」すなわち雁列が直角になるから「雁」だというのです。ガケ鳥というよりは、直角鳥なのでした。
ということは、「厂」はガケの形象から発して直角をもあらわす。逆に言えば「厂」は垂直崖=断崖である、ということにほかなりません。
今日垂直崖ないしそれに近い崖を目にしえる場所としてはやはり海岸が手っ取り早い。地形学的には海食崖(かいしょくがい)ということになる。それは海波によって、常に下部から侵食作用を受けているからなのですね。
逆に陸部のガケは風水によって角度がどんどん緩斜面にされてゆくから、ガケというよりはサカになる。坂と崖は出自を同じくする兄弟なのでした。
海食崖はまた、「地の涯(はて)」や「生涯」という場合の「涯」で、すなわち「みぎわ」の意。地平線の最後、陸世界の最終地点、人生の最期は、ガケだったのです。
ところで、「雁」の形を一部にもつ文字の鳥(面倒な言い方ですが)に、「鷹」があります。ただしこちらは「ガンダレ」ではなくて「マダレ」。「麻」つまりマという「部首」には、ガケの上に点がついている。ガケ上の小さなお家なのです。
マダレは建物を表わす文字をつくるようですが、「鷹」はどうしてマダレのガンで、しかもトリ付きなのか。
実証抜きで言わせてもらえば、それはガン・カモ類を捕獲するための、つまり鷹狩の鷹を表わしているのであって、その場合の鷹は鳥小屋に飼われている鳥なのです。
だから「鷹」という文字になる。「目をつむりいても吾を統(す)ぶ五月の鷹」(寺山修司)の鷹は、鷹匠(たかじょう)に言わせれば「吾が統(す)ぶ」なのでした。
ガン類は明治以降の埋立てによって食と住の環境を奪われ、さらに旺盛な狩猟のため個体数を激減させ、東京周辺ではその飛行列さえみることができなくなりました。
今日例えば関東では茨城県あたりまで出向かないことには、文部省唱歌を確認することは不可能です。
そうして東京にあって、垂直なガケはほとんど人工のそれであって、自然のガケを目にすることは大変難しいことなのです。
生物の営為は、地形環境に依拠しながら、逆にその地形をもつくりだす。
サンゴ礁のリーフは今日もっとも可視的な例だし、そもそもセメントの材料となる石灰岩はサンゴの死骸である。
人間様はさらにその石灰石を砕いて、地球のいたるところにおできのようなセメントコロニーをつくりだしている。
原野のところどころに出現する「アリ塚」もまた、ヒトの手になる「都市」と同様、生物がつくりだした「地形」のひとつである。
地形ではないが、鉄鉱石というものも、生物による光合成が開始されていなければ、生成不能だった。
それほどに、生物作用は地表に大きな結果をもたらしている。
無期質の「自然」は生物を生み、生物は「自然」をつくりだす。
そうして、ガケというのも、「自然」がつくりだすだけのものではない。
傾斜角30度以上、高さ2m以上という建築基準法施行条例の規定をあてはめれば、「切通し」は即ガケである。
有名な「鎌倉七口」のうち四口までは切通(きりどおし)で、残りは坂である。
サカは巨福路坂(こぶくろざか)・亀ケ谷坂(かめがやつざか)そして仮粧坂(けわいざか)。
切通は名越切通(なごえきりどおし)・朝夷奈切通(あさひなきりどおし)・大仏切通(だいぶつきりどおし)そして極楽寺切通(ごくらくじきりどおし)。
そうして、その三口の坂も、結局は切通し地形なのだ。
鎌倉のような切通しは、江戸にも多かった。
ただし鎌倉になかったのは、御茶ノ水のガケのような、開鑿水路のガケである。
寒い雨の日がつづいても、東京の桜は開花目前。
花と言えば、江戸の昔から「上野」。
いや、江戸は基本的に「田園都市」だったから、多分どこでも花を目にすることはできたのだろうが、やはり「上野か浅草か」。芭蕉様のこの句の上(かみ)は「花の雲 鐘は―」で「上野」へつづく。
それにしても、貧富貴賎を問わず花を愛でるには、つまり経済的社会的「身分差」を無化し、天を倶(とも)に戴いて生の一時を受容するには、生死をつかさどり、平等な死を配布する「神」や「仏」の領域が必要なのでした。
一部の宗教的場所と行楽地が見分けつかなくなるのは、身分制社会にあって当然のなりゆき。
とはいうものの、江戸時代=近世社会は前(プレ)近代社会。ゼニがモノいう世の中にほかならず、門前町や境内地が賑わい場所となるのは、それ相応の理由がある。神も仏も、現生の老若男女からゼニを集めたい。寺銭(テラセン)という言葉の所以。
話をもとに戻して、上野とは元来「崖」上の台地の意。
で、無理やり花と崖とを結び付けたいが、そもそも崖の花とは、なんだろうと考えてしまう。
植物を差し置いて、崖の動物となるとまっさきに挙げるべきはイワツバメ、そしてウミウ。営巣は断崖絶壁の中腹で行われる。天敵のヘビも近づけない。崖鳥(がけどり)である。台湾には「ツバメ崖」という名所さえある(嘉義県瑞里村。蝙蝠洞もある。ただし両者とも現在は主不在)。
哺乳類では、蝙蝠が崖に親しい。なんといっても洞穴を塒(ねぐら)とするから、断崖にできたそれは格好の住まいである。
時として狐や猫も崖をたよりにする場合がある。
落語などでおなじみの「王子の狐」のお宅を訪ねたら、神社(王子稲荷。昔は「岸稲荷」と称した)裏に設けられた急な石段を上った崖の穴であった。
最近言われる崖猫とは(がけねこ。誰も言わないか)、住宅地付近の急斜面を上り下りする猫で、怖くて途中から下りられなくなった猫のことではない。
山腹を四足で移動する哺乳類となると、鵯(ひよどり)越えの義経理論ではシカだが、この場合のシカは奈良にいるような日本ジカではなくて、同じ偶蹄類でもカモシカということになる。トカゲやナキウサギならまだしも、地下足袋や日本足袋のように割れた小さな足で、よくまあ崖面を走れるものだと思う。
そうして、多分江戸も海沿いの崖地下が人家で埋まる以前は、ウミウもイワツバメも、例えば田端や上野の海食崖に営巣していた、という可能性はゼロではないと思っています。そう、それは例えば縄文中期、6000年ほど以前の話か・・・
崖というのは本来崩壊地形だから、植物は定着しにくい。しかし、断崖の崩落が一段落して斜面となると、実生が着床して緑被され、宅地開発から免れて植生を残し、都市の海に浮かぶ「緑の帯」となる。
崖の植生は、その向きによってまったく異なる。つまり斜面が日陰か日向か。
ランの栽培種名に「垂崖」というものがあるらしい。これが元来崖地に生えていたものかどうか知らないが、どうも花の形が崖から垂れ下がるイメージということらしい。いずれにしても、ランは日陰を好む植物のように思われる。
千葉県は船橋市のMという地名だったが、津田沼駅から多少下がり気味の道を結構歩いてたどり着くそこのお宅の東側は急斜面で、地図でみると「緑の帯」。
下総台地の一部が小河谷によって開析されたところだろうが、崖ぎわの東向きの庭は丹精こめたお花畑。ただしそこは垂直なコンクリートの壁を立てて土を充填し、無理やり拡げた庭だった。
ある日のこと、庭で飼われていた柴犬(雑種)が下に落ちて、腰を抜かしてしまったと。歩道に這いつくばった状態になっていたのを、近所の人が知らせてくれたらしい。
それでも幾日かすると歩けるようになったが、もうすっかり老犬のお運び状態。がしかし、一瞬シャンとなるのは、牝犬と出逢ったときなのだそうだ。尻尾がちゃんと立つ、というのは話し手の脚色だったかも知れないが、崖と犬というとり合せでいつも想い出すことではある。
犬が落ちたのは、フェンスに穴でもあったのか、耄碌したからなのかは聞きそこなったが、落っこちたのが犬だけだったのは幸いなことで、これが地震で庭半分が崩落したとか、家の土台の一部が宙ぶらりんになった、というのでなくてよかったのだった。
余談ついでに、これも昔聞いたエピソードで、Mという高名、高齢な文献学者が養老院で寝たきりになっていたが、若い看護婦さんの声がするとその方に頭が少し向くのだったと。
こういうことは、人も犬も同じであろう。
東京都心の垂直な崖から、犬や猫、人間が落っこちてくる、というのはあまり聞かないことだが、高速道路から何かが降ってくるというのは時々ニュースになる。
そうして、昔はそこを通るのが怖いような薄暗い切通しや崖、坂はいくらでもあって、幽霊坂や暗闇坂という名がついたものだけれど、今日はあかるいのである。たとえばDNP(大日本印刷)城下町の市ヶ谷は長延寺町の切通しのような歩道には、真っ白な石の擁壁が歩く人を圧するように直立して続いているのである。真っ白な崖から、ある日何かがドタリ落ちてこないという保証はない。いやいや、灰色だったり白だったりする壁そのものが、落下物体の第一候補なのだ。
崖からとんだ逸脱話とはなってしまったが、今日はこれくらいで。
新聞報道によると、東北大学などの国際研究チームが各地の地層を精査し、恐竜絶滅論争に決着をつけたという。約6550万年前、白亜紀末の大異変はやはりメキシコのユカタン半島付近の隕石衝突が原因で、広島型原爆の10億倍のエネルギーが大気中に塵を拡散し、まずは光合成生物を死滅させたのだと。(2010年3月5日 読売新聞)
ここにあるのは、ダーウィンの漸進的で気の遠くなるような「時間」を前提にした進化論ではなくて、典型的なカタストロフィー光景。非連続が現在につながる「その後」を用意したことになる。
通常、自然河川の「光景」は「悠久の」流れに喩えられる。美空ひばりの「アーアー、川の流れのように」(作詞秋元康、作曲見岳章、1988年)である。秋元はニューヨーク在住で、付近のイーストリバーが念頭にあったという。私に言わせれば歌手の歌唱力だけで持上げられた「空虚な唄」である。ひばり伝説に相乗して、その掉尾を飾るにはまことに都合がよかったというだけの中身である。それに比較して、「病葉を今日も浮かべて 街の谷、川は流れる」(作詞横井弘、作曲桜田誠一、1960年)は、名曲である(「川は流れる」唄仲宗根美樹)。ただし、我々が通常目にする「街の谷」つまり都市の小河川は、一定以上の降雨でもなければ通常「流れる」ことない。水がコンクリの底に「残っている」状態か、あるいは汐の干満に感応して「たゆたっている」にすぎない。
さてしかし、ある日突然、猛烈に膨れ上がり、丘を呑みこみ、みるみるうちに山腹をえぐり、自分の流路すら変えてしまうのも、川である。川の「本態」である。川は静劇併せもった存在なのである。
すこしずつ、すこしずつ、そのうちそれが臨界点に達してある日突然、という現象は、金属疲労による破断が代表例だろう。これによく似たプロセスに、地震の結果出現する断層崖がある。同じすこしずつ、すこしずつでも、海面変動による河川下刻が生成する斜面は、ある日突然出現するわけではない。気付いたら、いつの間にか崖。いつの間にか崖には氷河のような巨大な削岩体とその作用でも生成想定しうる。カール地形(圏谷)やU字谷(そのひとつがフィヨルド)が造り出す、えぐりとられ斜面である。もちろん、東京で氷河地形をみることはない。断層崖も聞いたことがない。氷河は氷河でも、東京にあるのは、ほとんどが氷河性海面変動の結果、河川侵食(水)がつくりだした段丘斜面(崖)である。
しかし、我々が東京の街中で実際に見かける垂直あるいは垂直に近い崖は、だいたいが人工の法(のり)面で、いわゆる「切通し」である。そうして一見「切通し」でも、崖上の敷地を広くしようと、斜面上部に土盛りし、擁壁で垂直をつくりだしている、コワーイ「貼付け崖」も少なくないのである。