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江戸の厓 東京の厓 その7

タイトルに謳っておきながら、一体「江戸」はいつ出てくるの、と羊頭狗肉を疑っておられる向きもあるかもしれません。
たしかに、この「江戸の厓 東京の厓」という設定には、現在残された手掛かりから、どこまで「地形」を遡りそれを露出させられるか、というモチーフが横たわっています。
もうすこし言えば、「人間以前の場所」への憧憬。
けれども、江戸や東京はその逆遠近の眺望から、もっとも遠いところに位置しているようです。
多摩ニュータウンも、山を崩し、谷を埋め、鉄とコンクリート、アスファルトで表面をコチンコチンにしてしまったのですが、江戸の中心部は実はその初期に、今日からみてもとんでもない大規模土木工事を積み重ねていて、オリジンな地形はほとんど残されてはいないのです。

そうして、もっとも難儀なのは、江戸時代初期の、リアルタイムな地誌記録が、まったく湮滅していることなのです。

鈴木理生さんは、家康江戸入府から100年間の地誌欠落について、徳川氏による意図的な史料抹殺のためと断定しておられますが、たしかに有力な仮説でしょう。
つまり、すんなりとは受け継がれない、何か強引無道なわざを、徳川「進駐軍」は力にまかせて行った可能性がある。
だから、記録は残さない。人の書いたものまで探し出して破棄し、水も漏らさぬ情報管理を徹底した・・・と。
秀吉命下、旧姓松平は根拠地からの転封で、加増とはいえ鄙の遠地に追いやられたのだから、逆に「伝統」や「権威統制」のきかないところで、徹底して地堡を固める決心をしたものか。
鈴木さんは、鎌倉円覚寺領としての江戸前島の例を挙げて、中世以来の寺社権門利権を強奪したため、と言っておられたと思いますが、いまだ明らかならざる謎が隠されているのかも知れません。

いずれにしても、江戸・東京の記録(歴史ドキュメント)のレインジには、大きな断絶がある。
たった300年遡って、そこからはもう断崖。
先は潜るか掘るかしなければわからない。
その300年前の突端に遺された数少ない記録のひとつが、私の好きな戸田茂睡の「紫の一本(ひともと)」。
ただし永井荷風も指摘しているように、「紫の一本」にも、他の江戸の地誌類と同様、坂や窪、山や池などの項はあっても、「崖」の一文字を見出すことはできないのでした。

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