家康が江戸入りしたのが天正18(1590)年の8月1日(八朔)。
翌年から家康は江戸城の応急普請にとりかかり、文禄元年(1592)には西の丸造営に着手、番町も成立したといわれます。
けれども江戸草創期の一次資料が隠滅していて、年代確定しがたく、とくに日比谷入江埋め立て時期には、文禄2(1593)年と慶長8(1603)年の2説があるようです。
「その13」の図が示しているとされるのは慶長7(1602)年ですから、どちらかといいうと、後者の説に符合します。ただし細かいことをいえば、「埋め立て」の範囲がどこまでを指すかという問題もありますね。

いずれにしても、この時期の各種土木工事には、特別の工具や重機・車輛など一切存在せず、すべて人力で行われたわけで、今日でいえば巨大なダムをつくるようなプロジェクトが、せまい範囲で、いくつか、同時進行的にすすめられたことは確かです。
当時の江戸はほとんど新開地で、人と石、材木が流れ込み、あちこちで右往左往が絶えない喧噪の巷だったでしょう。
今日の東京の中心部は、そのような「地業」によって形成されたのです。

神保町といえども例外ではありません。
神保町は、日比谷入江のさらに北側。

『事蹟合考』という江戸時代の書物に、木村源太郎なる人物が家康の頃許しを得て「飯田町の東」を埋め立て、「四、五町」をもらった、と記されています。
飯田町は、江戸時代初期には九段坂の両側にあったとされますから、この「埋め立て」地はまさに神保町一帯にほかなりません。
この界隈が埋め立てられた時期は年代を特定できるほど明確ではないにしろ、江戸の草創期には入江の浪が寄せ、満潮時に牡蠣の口が開く汐入の地であったことだけは確かなことなのです(「その10」神田一ツ橋中学校遺構の記事参照)。

古地図の話のはずが、登場するのは最近の図ばかり、というご不満もあるでしょうから、この辺で「最古の江戸図」をいくつか参照することにしましょう。

まずは『別本慶長江戸図』と呼ばれるもの。
江戸草創の頃の簡単なスケッチのような地図で、弘化2(1845)年の写図ですが、考証者によって慶長7年頃の様子を示すとされています。
つまり家康が江戸入りして12年後、征夷大将軍となって江戸幕府を開く1年前。五街道の制もなく、日本橋が架けられる以前の江戸城周辺(内濠一円)の概観で、この図のもっとも特徴とするところは、「日比谷入江」が明瞭に図示されていることなのです。どんな江戸古地図といえども、このような図はほかにありません。
古地図は現代図と照合しやすいように、ほぼ北を上にしています。

「別本慶長江戸図」
「別本慶長江戸図」

これで本題の「神保町」周辺をさぐってみましょう。
そうするとなんとなくお判りかも知れませんが、左上の川筋でゆるく囲まれた凸部が、現在の北の丸公園にあたる地域で、つまり凸部の先端が「田安門」ですから、その内側は現在の「日本武道館」があるところです。このあたりは、緑色に着色され「竹やぶ」と記入があります。

「別本慶長江戸図」部分(北半)
「別本慶長江戸図」部分図

その右手、内濠をかねた川筋の外には「登り坂四つや道」と書かれています。
この「登り坂」が現在の「九段坂」とかんがえられますから、神保町はこの坂下に位置することになります。
そうすると濠の内側に「士衆住居」とあるあたりが「パレスサイドビル」(毎日新聞社ビル)。まだ「一ツ橋」はなく、そのさらに右手の橋(「柴崎口ト云」とある)が神田橋に相当。
そうして、先ほどの「士衆住居」の下辺に「平河ト云フ所」と「竹やぶ」の間にある橋が、現在の平川門でしょう。
日比谷入江は、慶長7年の時点で大分埋め立てが進んでいたのではないかと思われる節があります。残されている海面は、日比谷-有楽町辺でしかないのです。

「別本慶長江戸図」部分(南半)
「別本慶長江戸図」部分

「神保町谷」は、この先、大手濠や桔梗濠・和田倉濠、そして皇居外苑(皇居前広場)、日比谷公園とつづく旧海域(=日比谷入江)が、潮の舌先を延ばして陸地を洗う水辺でした。

「その10」の図の左下セクション(索引では「Ce」)には、清水濠からつづく内濠の「牛ヶ淵」があります。牛ヶ淵周辺の等高線は人工的地形改変が明らかですが、昭和58年に国土地理院が編集し、平成11年に発行された1万分の1地形図「日本橋」によると、このあたりは標高約7メートル。神保町は約3メートルですから、4メートルほど高い。そして牛ヶ淵は「九段坂下」にあたるのです。

1万分の1地形図「日本橋」の一部(平成11年)
1万分の1地形図「日本橋」の一部(平成11年)

「その10」の図では、牛ヶ淵の土手際に「アーミイホール」が見えますね。アーミイホールとは、米軍が建物接収していたときの呼称で、元来は軍人会館にして、現九段会館(『東京地盤図』の初版は1959年)。
その軍人会館建設(昭和9年)にあたって、地下から縄文時代の貝塚が発掘されたと言います。その証拠に、現在駐車場の奥に貝塚の碑がひっそりとうずくまっています。
「その10」セクションCeの赤丸7のボーリング結果は、地下9メートルほどまで神保町谷と同じ粘土ですが、そこから下5メートルは砂層。現在の地表地形の標高差4メートルは、川が運んで堆積した砂礫で、そこは縄文人の生活(すなどり=漁)の場にほかなりませんでした。

「その10」の地図は、縦横のラインで四分割されていますが、これは赤丸と番号で示されたボーリング地点を検索するためのもので、ちなみに神保町一帯を含む右下の長方形部分は、索引記号では「セクションDe」にあたります。

つまり、神保町の中心部ともいうべき位置にあるボーリング地点は「De9」ということになります。
そうして、下の柱状図を見ればおわかりのように、「De9」は隣の「De8」とともに地下15メートルほどまで粘土質の沖積層でした。
そこにはところどころに貝殻がみられ、また15~12メートルあたりでは砂や礫が混入する。

ボーリング結果の土質柱状図
ボーリング結果の土質柱状図

これらのデータが物語るのは、「神保町谷」は過去の一定の時期に海水ないし汽水の進入する水域であって、その後砂泥が堆積して湿地帯を経て現在に至っている、という事実です。

溢れ出てきた水は、甘かったか、辛(鹹)かったか。

というのも、その西隣に位置する「神田一橋中学校」の江戸遺跡発掘現場から出土した上水樋には、びっしりと牡蠣殻が付着していたという話があり、また一方では、日比谷のDNタワー(占領中の日本の政治中枢が位置していた旧第一生命ビル)新築工事には、塩水が湧いてきたそうで、それならば旧神保屋敷辺の地下はどんな「塩梅」だったかとこれまた興味そそられるところであるからです。

昭和34年に「東京地盤調査研究会」の名で出された『東京地盤図』という大冊があります。
等高線とボーリングした地点を明示した地図、およびそのボーリング結果の土質柱状図から構成されている本です。これも今となっては「古地図」の類かもしれませんが、神保町のあたりを参照すると・・・。
図の下半部、右下「神保町二丁目」の「目」という文字にかかる一本の等高線がみえますね。
この等高線の表している標高は、周りの数値記載から判断して「18」とかんがえられます。
標高18メートル?、いえいえそうではありません。この朱色の線であらわされている等高線は、実は「尺」を単位としたものなのです。
陸軍-陸地測量部系統の地形図は「5万分の1」でよくしられていますが、それにかぎらず、陸測系地形図の等高線の単位はすべて「メートル」で記載されます。
それに対して、これは「尺」。系統が違うのです。こちらは旧内務省系。内務省には旧幕技術官僚の系譜が生きている。それが戦前の都市計画図まで影響を及ぼしている。この図は「尺」等高線なのです。
そうして、この「尺」等高線は、陸測が放棄した旧市街の地形についてもよくその凹凸を記入してくれている。東京の旧市街を見るには、これまで等閑視されていた旧内務省系の地形図にあらためて注目する必要があるでしょう。
で、このあたりの標高は18尺。すなわち約5.4メートルということになります。
その左側、「九段一丁目」の同じく「目」という文字にかかる等高線がありますね。
この線に記入されている数字は「10」にみえますが、他の標高数値から判断して、等高線間隔は「6」(6尺=1間=約1.82m)ですから、これは正しくは「18」。
この2本の線が意味しているのは、この線の間が標高数メートル以下の「谷」であるということです。
名付けて「神保町谷」。

「東京地盤図」の一部
「東京地盤図」の一部

ここに至って、漸く「神保町草創の地」にたどり着いたようです。

岩波書店のサイトによれば、創業は1913(大正2)年8月5日。岩波茂雄が神田高等女学校(現在の神田女学園)を前月に退職して「南神保町16番地」に開いた古書店がそもそものはじまりと。
「南神保町16番地」ならば、靖国通りに面した現在の「岩波ブックセンター」のあたり。
その後夏目漱石の自費出版と言われる『心』を契機に岩波は出版業に転じて順調に業績を拡大し、手狭になった編集部を現在本社ビルのある地に移転して「一ツ橋事務所」と称したのが1929(昭和4)年10月9日。
この一ツ橋事務所の建物は、旧東京高等商業学校(現一橋大学)の校舎の一部で、それは三井が寄付したものだったため、俗に「三井ホール」と呼ばれたとは有名な話。

「東京市神田区」(東京逓信局、大正9年)の一部
「東京市神田区」(東京逓信局、大正9年)の一部

そもそも「一ツ橋」地区にあった東京高等商業学校が多摩地区の国立(当時谷保村)に移転するのは1927(昭和2)年から1930年にかけて。この移転を仕掛け、「仕事」としたのは堤康次郎率いる箱根土地株式会社です。
旧高商移転にあたって、移築不可能のこの建物は一旦寄付した三井に返還手続きがとられ、箱根土地がこの一帯を更地にして分譲することになりました。
当然この建物も解体の危機に瀕したわけですが、どういうわけかこの建物を生かした分譲に変更されて、岩波がそれを入手していますが、それがどのような経緯かはわかっていません。

ともあれ、岩波の本拠地となった旧東京高等商業学校の校舎は遠藤於兎設計1916(大正5)年竣工の2階建ながら鉄筋コンクリートビル(3階部分を戦後増築)。ちなみに遠藤の代表作として著名な建物に「東京日日新聞社ビル」および「三井物産横浜ビル」がある。
昭和4年の秋からは、そのエントランス上部に漱石揮毫の「岩波書店」の額(現在岩波書店の新聞広告で目にするもの)が掲げられていたのでした。
旧「三井ホール」跡地には、現在の岩波本社ビル裏手(表?)の14階建岩波書店一ツ橋ビル(1993:平成5年竣工)が建設されています。

現在私たちが親しい「岩波」は、この神保邸跡の岩波本社・一ツ橋ビルではなく、靖国通りに面した「岩波ホール」や「岩波アネックス」ビル1階の「岩波ブックセンター」でしょう。
「岩波アネックス」のあたりが岩波書店草創の地ですが、1981年に竣工したこの8階建賃貸オフィスビル「アネックス」の建設基礎工事にあたっては、水が湧いてきて困った、とは岩波OBが同僚から聞きおよんだ話。

では、「一丁目」を付したのは誤りだったとして、「南神保町十番地」だったらどうなるのか。その位置を拡大図で確かめてみましょう。
この「10」番地を今日の地図で見ると、靖国通り南側の「北沢ビル」の辺りに相当するようです。
img116p.jpg
先の近江屋板江戸切絵図に照してみると、どうでしょう。
現代図と比べるために、天地を逆にして、切絵図の一部を拡大します。
左側、田安門先の九段坂を下って、牛ヶ淵の北に沿い、靖国通りは俎板橋を渡ってまっすぐに東に向かうのですが、ご覧の通り切絵図にはそもそも貫通する通りがない。
けれども九段坂から「マナ板橋」のラインを延長すると、「裏シン保小シ」に連結してさらに東に向かう。
つまり、「裏神保小路」が後の「靖国通り」の一部となると言ってよさそうです。
そうして、「神保伯耆守」屋敷はこの「裏神保小路」ではなく、その南側の「表神保小路」に面していて、「一ツハシ通小川丁」と「雉子橋通小川丁」で東西に画されたブロックの一部、松平紀伊守屋敷の裏側にあたるのでした。
この位置関係を明治の番地図に落してみると、神保屋敷は「南神保町」ではなくて「一橋通町」の八番地辺になるでしょう。
さらにこれを現代の地図に引きうつせば、そうですね、「さくら通り」の南側、岩波書店本社ビルの西側あたりに該当する。
sp180surugadaiogawamachi.jpg

その6の地図のサムネイルをクリックして拡大すると、左右2枚の図を接合していることがわかりますね。
左(西)は「東京実測全図」の「二幀」(東は小石川-北の丸、西は戸塚-内藤新宿の一部まで。明治18年5月版権届、同20年4月出版。天地約63センチ×左右約90センチメートル)、右(東)は同「六幀」(川向うの両国から、本郷-大手町の範囲。明治18年5月版権届、同19年3月出版。大きさは前出にほぼ同じ)より、それぞれ部分を取出してくっつけたものです。

拡大図の左下に横たわる江戸城内濠のなかに、近衛歩兵営、その東に近衛砲兵営とありますね。前者は現在の北の丸公園、後者は警視庁第一機動隊がある場所です。
これが明治初年の近衛兵反乱「竹橋事件」(明治11年)をはさむ時期に測量、作成された地図と考えると、また別の視点から詮索もしたくなりますが、それは我慢して、この接合図の真中に「一橋通町」とあるのがおわかりでしょうか。その上(北)にみえるのが「南神保町」なのです。

「一橋通町」「南神保町」だけでなく、周りの「表神保町」「裏神保町」「猿楽町」「今川小路一丁目」等々の「町」はすべて明治5年に起立。
というのも、この辺は「武家地」ですから「町」ではなく、したがって「町名」(地域名)も、明治5年までは俗称でしかなかったのです。
さて、ようやく全ての土地に地名が付いたのですが、『神田文化史』に言う「南神保町一丁目」というのは見当たりませんね。

しらべていくと、この地図に見える町名が昭和一桁の時代までつづき、同9年にこの一帯は「神保町一丁目」から「同三丁目」に再編成され、「南神保町」は「北神保町」や「一橋通町」などとともに「神保町二丁目」に取り込まれて今日に至ります。ただ、途中でどういうわけか「神田」を冠せられ(昭和22年)て「神田神保町二丁目」ということになるのでした。

ですから、つまり、「南神保町」はあっても、「南神保町一丁目」という称は、存在しなかった。

神保町から発して、小川町の出自を詮索しなければならなくなったわけですが、その前に元に戻って、まずは神保町の源・現位置を確認しておいたほうがいいでしょう。
「神保町」という呼称は、神保屋敷表門が面する小路を「神保小路」と俗称したことに起源をもつのは確かだとして、神保邸の位置は『神田文化史』によれば「旧南神保町一丁目十番地」であると。フム、昭和10年頃に言う「旧」とはいったいいつごろの話か、大分漠然としていますが、チェックする手段がなくはない。

下に掲げるのは、「東京実測全図」(1:5000。初版名「東京市三角測量図」)の一部です。
この地図は、内務省地理局が明治5年に測量に着手したのですが、火災でその成果を焼失、また市区改正や市街地の変容などのため、完成まで10年を経、漸く明治19年から21年までの間に全15鋪(枚)が刊行された、近代初頭に作成された首都の大縮尺精密地図群として著名なものです。

言うまでもなく、土地制度は江戸時代と明治以降はまったく異なります。その画期は明治6年の「地租改正」で、近代的土地所有ということになり、所謂「地番」が誕生したのですね。
内務省地理局がこの地図の完成に精力を注いだのは、徴税の必要があったから、という説がありますが、どうでしょう。確かに現在の区分地図帖でもめったにない、大縮尺ではありますが、地租算定のための資料としてはとうてい不足である。地積台帳にはなり得ない。
ただし、「地番」によって「場所」をアイデンティファイするには欠かせないもので、その証拠にこの図は明治末期、大正期、昭和戦前期と出版される「郵便地図」のベース図となるのです。
いずれにしても、首都の細部まで漏れなく把握する必要のある新生政府にとって、欠かせない基本図であったことは確かです。

そうして、「東京実測全図」は、今日からみれば明治も前半期、地表のありようとしてはいまだほとんど幕末と地続きである黎明期東京の街に「地番」の網をかけた、最初の精密地図として大変重要な意味をもっているのです。
首都の「地番」を追うためには、まずはこの地図から出発しなければなりません。
「東京実測全図」の一部

『神田文化史』に紹介されている神保家の由緒書によれば、「小川町」(おがわまち)がというものが古くから存在し、そこから新たに「神保町」(じんぼうちょう)が分岐した、あるいは「神保町」は「小川町」の一部である、つまり「小川町」は「神保町」を含む広域地名である、ということになります。

地名というのはやっかいなもので、そもそも、なぜ「おがわまち」であって「おがわちょう」ではいけないのか。逆に、「じんぼうちょう」は「じんぼうまち」ではいけないのか。いくつかの原則があげられるようですが、索引をつくる身になってみれば、現旧の「町」の「よみ」ほど確認に手間どるものはほかにありません。

けれどもとにかく、現在では「小川町」は駿河台下に一丁目から三丁目、「神保町」はその西隣に一丁目から三丁目が存在し、今日ではそれぞれ頭に「神田」を冠(かぶ)せられている。
つまり、「小川町」と「神保町」は、地名としては同格の別物である。

ちなみに、現在の神保町をとりまく近隣地名をあげてみれば、小川町の北には「駿河台」(するがだい)、反時計廻りに「猿楽町」(さるがくちょう)、「西神田」(にしかんだ)、「三崎町」(みさきちょう)、「九段北」(くだんきた)、「九段南」(くだんみなみ)、「一ツ橋」(ひとつばし)、「錦町」(にしきちょう)ときて一巡する。
このうち、旧神田区を示す「神田」を頭に付けるのは、先にあげた小川町と神保町のほかに、錦町がある。

『東京区分地図帖』(昭和41年新版、同52年38版、日地出版)から「千代田区」の一部
『東京区分地図帖』(昭和41年新版、同52年38版、日地出版)から「千代田区」の一部

現在、地表平面に同格で並んでいるこれら「地名」も、その来し方を時間の地層に探ってみれば、また別の相貌を露出するかもしれません。
そうして、人間も建物も、現在ほどひしめいていたわけではない近代以前にあって、地名が指し示す地域の範囲は、あるいは漠然とし、もしくはおおらかで、そもそも「住所・地番」という微細な土地所有あるいは行政区画表示は存在しなかったという事実も、「地名の時間」を探る場合には念頭におくべきでしょう。

ともかくも小川町が神保町を含む広域地名だとして、しかしながら今度はその小川町自体が、『御府内備考』では、元来が三崎村付属の「田畑」で、江戸開府後幕府の鷹匠(たかじょう)が多く住んだために「元鷹匠町」と呼ばれ、元禄6年(1693)9月11日に「小川町」と改称されたとされているのです。
先に挙げた『神田文化史』の記述とは大いに矛盾する。なにせそこでは「小川町」が長禄すなわち太田道灌時代からの地名だと主張している。けれどもその根拠が示されているわけではない。

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