「神保町」の町名について、『神田文化史』(中田薫著、1935年)は次のように記述しています。

「神保町町名の起源は幕臣神保長治が元禄二年三月、神田小川町の邸地九百九十五坪(旧南神保町一丁目十番地)を賜わったことにより神保家は明治御維新前後までこの地に住んで居た。江戸時代の絵図に神保小路と記されてあるものは小川町の内にある一俚称であって、漸次附近の地域を拡大称呼して、神保町と公称することとなったもので、震災後、区画整理によりて現今の神保町は、神田区随一の大地域を占むるに至ったものである。/神保町は今から二百五十年前に起源するが、その町名の母体である小川町は、遠く長禄時代、今から四百七、八十年代、太田道灌の江戸築城時代を物語る町名であって頗る感慨深きものがある。」(新字・新かなに訂正)

平凡社の地名辞典『東京都の地名』(日本歴史地名体系13、2002年)は「表神保町」の項で、「神保家文書」(『神田文化史』)を根拠に「小路〔神保小路〕の名称は、元禄二年」から、と記述しています(角川の地名辞典には「江戸期に神保某の居宅があったことによる」とのみ)。いずれにしても「神保町、起源は元禄」というわけです。

  『神田文化史』の著者は、当時井草町(現在の杉並区井草)に隠居されていた神保さんのご子孫(九代神保安太郎氏)から示された古文書を用い、初代神保源五左衛門長賢から、幕末の外国奉行として神奈川開港取扱にあたった七代長興、最後の幕臣八代長順までの事跡を伝え、菩提寺が小石川水道町の浄土宗還国寺(江戸川橋に現存)であることも記しています。そうして、この菩提所の地が神保氏の旧地で、二代新五左衛門長治が小川町に邸地を賜った後に、この寺を建立したというのです。

この「表・裏神保小路」をどう見るかですが、性急を回避してまずは図の周辺に目をこらしてみましょう。部分拡大図1の左下に一箇所、部分拡大図2には4箇所に見える細長い□(四角)形は何でしょう。
そう、これは武断の風が卓越していた江戸時代初期まで、武家地周辺で頻発した「辻斬り」防止のための、「辻番所」を表すものでした。
日本が世界に誇る‘koban’を凌ぐ密度で、交差点ごとに設置されていますね。近代の警察制度も、その伝統を江戸時代の草創期まで遡り得ることがわかります。
さて、この図に記号凡例の記載はないのですが、実は近江屋板切絵図の手本となった吉文字屋板の江戸切絵図には「駿河台小川町図 全」(明和元年・1764)があって、収録図の範囲もほぼ同じ(近江屋板は多少東に出張っている)、しかしこちらには凡例が付いている。

部分拡大図a
部分拡大図a

これによれば辻番所は2種類。それだけでなく、町内火見櫓の記号もみえる(部分拡大図a)。
ところで、吉文字屋板と近江屋板のこれらの図には、江戸時代の半ば過ぎと幕末近くにまたがる85年の懸隔がある。
それでも街区の形はほとんど変わらずで、神保邸も動かない。小路も「ジンボフコフジ」と記載がある(部分拡大図b)。

部分拡大図b
部分拡大図b

2009年の現在から85年前というと大正13年、関東大震災直後の東京です。江戸時代の、すくなくともこの地域のスタビリティと比較すると、近・現代というのは目のくらむような激変の時代だったのですね。

この吉文字屋板については、現物ではなく斎藤直成編『江戸切絵図集成』(第1巻、1981年、中央公論社)の図を引用しています。

「その1」の掲載地図(全体図)では、いくら拡大しても細部の文字はよみとれませんね。今日の技術段階における画像容量限界のためですが、これも日々「進化」するこの世界のことですから、いずれはそう遠からず解決されることでしょう。
けれども、このぼんやり画像のままでは、どうにもなりません。
それで「部分拡大図」手法が登場することになります。パワー・ポイントを使った講演などの場合は、これをもっと多用しなければなりません。なんといっても、プロジェクター画像は粗すぎますからね。
で、部分拡大画像。

部分拡大図1
部分拡大図1

図の中央、やや左寄り部分です。
神保さん宅は、逆立ちして中央に「神保伯耆守」(じんぼうほうきのかみ)と記載されています。とくに大きな邸宅でもなく、切絵図でみる限り偉そうな名前とはそぐわないような、旗本としてはその他大勢の部類に属していますね。ところが通り名は「表神保小ジ」となっている。これはなにか謂れがありそうな雰囲気になってきました。
よく知られているように、江戸切絵図などの古地図では、多くの場合、ばらばらに記入されたように見える屋敷名の頭が邸宅の表門にあたります。つまり短冊形に奥深い神保邸の表が「表神保小路」。
では、「裏神保小路」が神保屋敷の裏側にあるかというと、さにあらず。
もう少し広い範囲に目をやると、さらに1本「表」の通りが「裏神保小路」なのです。

部分拡大図2
部分拡大図2

神保町は出版人にとっては伝説の巷。
伊達得夫の《書肆ユリイカ》(『ユリイカ』)があった。森谷均の《昭森社》(『本の手帖』)があった。
ラドリオがあった(いまもあるが)、ランチョンがある、ミロンガがある、キッチン南海の黒カレーも健在。
ハーバード大学のエリセーエフが言ったからかどうか知らないが、この「世界最大級の古書店街」は空襲を免れた。だからところどころには看板建築も、近隣には神田やぶそばやまつやなどの古い建物も残存している。
そうして物書きのほとんどが、この界隈に足跡を遺し、今なお徘徊する。

けれども往古を訪ねれば、旗本邸が居並んだ人影淋しいお屋敷町。「北神町会」の町名由来板によれば、元禄時代に神保長治さんが広い屋敷地を割り当てられたことが地名(神保町)のはじまりという。

なにはともあれ、場所の記憶を訪ねるには、まず古地図。
江戸の古地図と言えば、すぐ思い浮かぶのは「切絵図」でしょう。
けれども、知られた古地図ほど「シン古地図」が多い。つまり、よく目にするのは、後世というか現代につくりなおされた「アトカラ古地図」の類です。
だからここでは、できるだけ本ものを見ていただく。
汚れや折線、虫食穴があるのはその証だと思ってください。

お目にかけるのは、いく種類かある切絵図のなかから、比較的地誌が正確と言われる近江屋板(近吾堂)の図で、この界隈を含む「駿河台小川町図」。刊行の嘉永2年(1849)はペリー浦賀来航の4年前で、もうほとんど幕末。広げた地図の大きさは65×46センチ(紙の概寸)。結構大きいのですよ。

江戸切絵図(近江屋板「駿河台小川町図」嘉永2年・岩田文庫蔵)
江戸切絵図(近江屋板「駿河台小川町図」嘉永2年・岩田文庫蔵)
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古地図は最新地図

古地図が「最新地図」であるとは、奇矯なロジックと思われるかも知れませんが、真面目な話です。
敏い向きは、ひねった「温故知新」話かと予防線を張られるでしょうが、そうでもありません。
 結論を先に言えば、「当時の最新地図」であることが、古地図の真贋を決定する最大の要素であるということです。つまり、そうでなければ古地図の資格がないのです。
 
 私のような仕事をしていると、時々「今は地図ブームなんですか」とか、「古地図が流行だそうですね」と訊かれることがあります。
 従来の「業界」の激変、苦境を覗い知る者としては、このような質問には大変答えづらい。たしかに、書店にあふれる地図付「ナントカ散歩」や「古地図でたどるナントカ」の類は、人をして地図ブームを思わせるものがあるでしょう。けれども、すくなくとも「古地図」についていえば、その名に相応しいものを見かける機会は、大変に少ない。

 「地図」は実用に供するのが第一の目的ですから、その時点で最新の情報が盛られていることが最低条件となります。Out of dateの図は使えない。だから、例えば東京でいえば「六本木」に「防衛庁」が残っていたりすると、普通は書店の店頭から撤去される。けれども、その地図は、通常は作られた時点で最新だったはずです。つまり、たとえば「東京ミッドタウン」が以前はどんなところだったかを知りたい時には、地図の出版年記を確認し、その場所をめくればそれを確かめるにもっとも相応しい資料が出現する。このようなものを「古地図」と言うのです。古地図の定義を狭くとる人は、江戸時代以前の図を古地図としますが、新陳代謝の激しい極東島国の都市部では、数年前の地図も古地図の資格は十分にあるでしょう。いずれにしても、古きを温(たず)ねるには、その当時で最新の図が必要です。
 
 逆に「古地図の資格のない古地図」というものはどういうものかと言えば、断わりのない「こしらえ古地図」や「シンコ(新古)地図」ないし「偽装古地図」、そして「復元図」や「推定図」、「歴史地図」の類です。このようなものは枚挙に遑(いとま)がありませんので、図例は割愛します。
 一方、「当時の最新の地図」を、「古地図資料」と銘打って、図の「史料性」に依存しながら刊行される複製地図も見かけますが、言うまでもなく「複製」ですから本物ではありません。けれどもそうしたものでも、断わりなくそのまま印刷されていれば、古地図そのものと誤解されることがすくなくありません。まして和紙に印刷されていたり、時間を経たりすると一般には古地図と区別がつき難くなります。そうして、そのような出版物は、往々にして「そのまま」ではなく、文字を勝手に削除していたり、書き換えていたり、印刷色が現物とはほど遠いものであったりするのです。
 ですから、資料出版の常識として、複製図には一般書籍の奥付と同様、複製であることを示す「複製責任者、複製時期、原本所蔵者名」などの諸元を直接記載するのが最低のルールです。しかし、「複製古地図」出版の現状では、そのルールが守られているのを見かけるのは、稀でしょう。
  
 「古地図は最新地図」という言葉を念頭におきながら、手元にある地図類を見直してみましょう。
できるだけ「本物」の地図や、オリジナルな古地図の、良心的な複製を見る機会を増やしましょう。そうして養われた眼力は、身近なところに転がっている「お宝」や、その潜在候補を見つけることができるかもしれませんよ。

万治年間江戸測量図

《江戸図の始原》を完全覆刻!
万治年間江戸測量図 オンデマンド・レプリカ版
MANJI-NENKAN EDO SOKURYOZU, 1:2400 Plan of Edo, 1657
ISBN978-4-902695-13-7                                      
之潮編集部編/解説:秋岡武次郎(地図学)・桐敷真次郎(建築史)
定価924,000円(本体880,000円+税)

“究極の江戸図”がついに公刊

明暦の大火(1657年)直後、幕命により時の大目付北条安房守氏長が責任者となって実測作成された大縮尺精密原図(1:2400)。
原本は財団法人三井文庫架蔵にかかる本邦無二の資料にして、「江戸図の祖(おや)」と謳われた遠近道印の「寛文五枚図」の元となった官製図で、その貴重さおよび巨大さ(約4・20m×3・20m)故に、これまで詳細な調査・研究の及ばなかった原本を、はじめて最先端機器による高精細デジタル撮影に付した。
日本の近世史・科学史・都市史・都市計画史上、最重要資料のひとつ。

本資料はオンデマンド出版です。
ご希望により現物見本を持参いたします。ご覧になりたい向きは、小社までご連絡ください。

地盤災害

新刊

フィールド・スタディ文庫4

 梅雨入りしたのに西日本は渇水状態。それも気候変動の故か、局所的豪雨も増加。
今月の《フィールド・スタディ文庫》の新刊は『地盤災害』。
 震災は、決して手抜きや偽装建築だけの問題ではなかったのです。
 本書はかつての宅地開発の具体相をあきらかにし、現在なお足元で進行する事態に警告を発します。
「安全」「安心」が叫ばれる今日、そのもっとも基礎的な問題を指摘します。

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デジタル地形図の幻

「省紙化」の果てにあるもの

日本地理学会2009年春季学術大会が、3月28日から帝京大学八王子キャンパスを会場に開催されました。
29日には地理学会理事会主催の「これでよいのか国土の記録!-日本の地形図が変わる-」というシンポジウムがもたれ、国土地理院の担当課長による「基調報告」をもとに、数人の「問題提起」や「コメント」が表明され、またそれらに対するまことに流暢な回答が開陳されたのでした。

シンポジウムが特別設定されたのは2007年8月に施行された「地理空間情報活用推進基本法」によって、「紙地図(地形図)」が供給されなくなる恐れがいよいよ現実化したためでした。

その「法」つまり「国会決議」という「国民の総意」によって、「デジタル時代情報活用の爆発的拡大」に対応するため積極的に基盤地図情報を整備し総じて「軸足をデジタルにシフト」し「修正に時間がかかり」すぐに「古くなる従来の(紙)地図は使えない!」が故に、2万5千分1地形図については当面継続するものの、1万分1および5万分1地形図の修正予算は2009年度からゼロとした、というのです。

地図という実用メディアの世界に露出した、社会の急激な地殻変動を見たように思ったのは当方だけだったでしょうか。
「20年30年先を見据えた、デジタル化社会・情報化社会への対応」という答弁は、新聞や雑誌といった紙媒体ジャーナリズムが次々と「退場」し、「受け」や「垂れ流し」「取材なし」のデジタル情報がニュースとして跋扈する世界的潮流とオーバーラップして実に空虚な言葉に聞こえたのでした。

結論を先に言えば、物的に固定されない「地図」は地図ではありえず、変形自在の「情報」と「画像」に解体されるほかないということです。
電子という、瞬時を走り圧倒的な利便を誇るが故に、不安定きわまりない媒体が「物」を駆逐する様は激烈なものがあります。
例の「年金記録問題」も、元はといえば電子化による紙記録の廃棄に端を発したものでした。
「紙の記録」とは「典拠」もしくは「証拠」の異名です。
原文書をわざわざ廃棄し、「電子」にすべての「証拠」を委ねるとすれば、我々は100年や「20年30年」どころか寸刻前のことですら、自らが拠って立っていた「場所」を根こそぎ失ってしまう時代に移行しつつあると言っていいのです。

先般、都立多摩図書館から地域資料のほとんどが抜かれ、都立中央図書館に移管し、一部は廃棄するという、甚だしい「住民無視」の政策が強行されましたが、目録類がデジタル化されて久しかったが故に、今日ではいったい何が移管され、何が廃棄されつつあるのか、住民がその実態をつかむことは不可能となってしまいました。
ことほど然様に、行政「文書」や「記録」類の電子化=紙文書廃棄は、一般にではなく、まずは特定者にとっての「利便」です。

政治社会の原理から言えば、行政文書類のデジタル化とは、紙記録類の保存と並行させなければ不当為事項にあたるでしょう。
図書館や文書館は行政の書類庫ではなく、本来「事実」と「主権者」の権利の根拠を、形あるモノとして担保するために存在するものです。

話を「地図」に戻せば、人類は長らく地を這い、手探りの作業(測量)を繰り返した揚句、「地図」という上空からの「垂直視線」を手に入れました。
しかし、間もなくそれは空中写真(測量)にとって代わられ、さらにインターネットにより「宇宙からの眼」を当たり前のものとして享受する(Google Earth)時代に到達しました。

このテクノロジーの巨大な進展の成果を「ハイ・イメージ」という言葉で肯定的に評価した向きもあったようですが、どうでしょうか。その結果、豊富な「文書類」や「絵図」を今日に伝える江戸時代にはるかに劣る、広大な無記録の荒野が遺されるとすれば、我々の未来、いや現在ですら決して明るいわけではないと言うほかありません。

(同趣旨は、「図書新聞」第2914号2009年4月18日号5面、「季刊Collegio」第36号等の紙媒体にも掲載)

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新刊2点

江戸・東京地形学散歩 増補改訂版 書影

風土紀行書影



フィールド・スタディ文庫2・3

お待たせしました。「フィールド・スタディ文庫」の新刊2点です。
ひとつは、昨年2月に刊行して間もなく品切れとなったものの大幅増改訂版。もう1点はまったくの新版ですが、いずれも実地の「フィールド・スタディ」を誘う内容を備えていると信じます。是非店頭でご覧いただき、おもとめくださいますようお願いいたします。
なお、新刊といえどもこうした本を置いてある書店は都内でもそう多くはありません。ジュンク堂書店池袋本店と同新宿店、日本地図センター地図の店、神保町の岩波ブックセンターが数少ない常備店です。書籍のラインナップの充実とともに、置いていただける書店も増やしていきたいと思っています。

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「崖線」と「三日月湖」

「タモリ倶楽部」再び(2月27日金曜日深夜0:15~)

「季刊Collegio」がまだ「月刊Collegio」だった2007年6月、「生きている『池霊』」という寄稿がありました(第23号、田中正大執筆)。《場所と記憶》を標榜する小誌にまことにふさわしい内容で、鮮やかなイメージを刻む記事でした。

先般またまた「タモリ倶楽部」からお声が掛り、今度は「国分寺崖線」特集だと。

当方はJR中央線国分寺駅前、「国分寺崖線」を利用してつくられた旧岩崎の別荘「都立殿ヶ谷戸庭園」の目の前を事務所兼自宅(標高約70m)としているものだから、そのことを知ってのお誘いかと思ったらそうではなかった。単にアイツなら何かオモシロイことになるかも、という程度らしい。ロケ地も世田谷区域の成城から等々力渓谷に至る国分寺崖線(標高約40m)という。

場所は大方スタッフが調べていて、「ほかに適当なロケ地がありますか」というので、思い出したのは、上述の世田谷も野毛にある国分寺崖線直下の河跡湖(三日月湖)「明神池」跡。
埋立てられた湖跡は昭和35年ころには住宅地となった。頻々と火事も起こる。夢枕に龍神が立つ。土地の人々は浄財を持ち寄って祠をつくる。そうしてその祠と由来を記した看板が現在も住宅地を貫く緑道のすみにひっそりと佇むことになった(世田谷区野毛三丁目17番9号)。

ロケ中に、祠のお向かいの家の方が庭先から声を掛けてきて、「そりゃあきれいな水だった。潜ると、底からブクブクと水が噴き出しているんだな。水泳も覚えたし、魚もいろいろ獲った・・・」と。「崖線」に湧水は付きもので、それが湖を維持してもいたのでした。

傍らを流れる多摩川に堤防がつくられる以前、この湖から見る光景はいかさま神秘的であったかと思われます。多聞、夕陽の方角にはシルエットの富士も見えたのでしょう。

龍神とはまさしくゲニウス・ラクスGenius Lacus(このラテン語表記は文法的に保証のかぎりにあらず。ゲニウス・ロキGenius Lociのもじり)、それは人々の生まれ育った場所に関する記憶の象徴であり、一方、日本の多くの神がそうであるように、祠は人間の腕力行為に伴う罪障感が形を変えたものだったのです。

ところで「崖線」という言葉は、どんな国語辞典を探しても見出しに出てこない。地学辞典、地理学辞典、地形学辞典の用語としても存在しない。これは普通名詞ではなく、「国分寺崖線」と「府中崖線」にかぎって、接尾辞的に出現する特殊な語。「崖」も、厳密には傾斜角70度以上を言い、それ以外はせいぜいが急斜面。独立した言葉として(「街宣」「外線」「凱旋」はあっても)「崖線」は存在しない。さらに、厳密な定義を適用すると、「崖」としてもほとんど存在しないということに気がついたのでした。

ついでに言うと、「桃栗3年、崖10万年」というのは当日のオープニングに出る看板の文字ですが、「崖8万年」が正しい。スタッフに言ったのですがそのまま。これは言い訳です。

『帝都地形図』から、国分寺崖線と明神池

図は、小社刊『帝都地形図』第6集から、「玉川」図幅(昭和14年3月測図)の一部。国分寺崖線がこれほど明瞭にわかる地図(等高線間隔2尺:約60cm)も珍しいでしょう(画像をクリックすると拡大します)。

明神池が崖裾からわき出る湧水で涵養されています。崖下には花卉栽培の温室農園も。現在等々力渓谷に架かる橋に「ゴルフ橋」というのがありますが、大塚山古墳の周辺がゴルフ場だったのですね。現在、東急大井町線の地下化計画で帯水層の切断が心配されている等々力渓谷はこのすぐ右(東)側。

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