Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.
この原作者不明の詩に、新井満さんが訳詩作曲したのが、ご存じ「千の風になって」(2003年11月発表)です。
原詩はしっかり脚韻を踏んでいるのがわかりますね。
11月1日の講演会の第1章「風-見えないもの」のなかで、以下のような私訳をご披露しました。
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 眠り居ず
吾は吹く風 千の風
煌(かが)よいはじく 雪の色
穀物(みのり)差し入る 日の光
はた やはらかな秋の雨
汝(なれ)里の朝 目覚めなば
吾はすばしきアマツバメ
音なく円く 天翔ける
吾また夜映(は)ゆ 澄める星
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 吾死なず
ご覧のように、私の訳は七五調ですが語彙としてもそこそこ原詩に忠実、雰囲気もしっかり再現したつもりです。
「風」は、「死」と「不在」を象徴するもの、同時に「万物」:Universeの暗喩で、こうした「死」あるいは「不在」を唄うのは英詩の伝統なのではないかと思われるのです。
昨日昼過ぎに神保町に出て行ったら大変な人の渦。もちろん第50回目の神田古本まつり(10月27日から11月3日まで)で、お天気もよかったからなのですが、第19回神保町ブックフェスティバル(10月31日と11月1日)の各種イベントも目白押しだったのですね。
私の講演会は定員80人のところにおよそ100人。あの倍の広さの会場が必要だったかもしれませんね。でも、お世話になっている岩波ブックセンターと秦川堂書店の上ですから、こんな名誉なことはありません。
しかしながらいつもの伝で、1時間半の持時間に対して、2時間以上の内容を用意してしまって、3パーツのうち最後の部は飛ばしてのお話で、おいでいただいた方々には申し訳ありませんでした。飛ばした部分から、このサイトで少しずつご紹介していきたいと思っています。とりあえずは、今朝11月2日『東京新聞』朝刊の18面での紹介記事を掲載しておきます。
今朝の東京新聞の記事
昨日は、たましん地域文化財団と多摩交流センター共催の【多摩の歴史講座】第13回 「今に伝わるむかしみち」 の第2講を担当し、《三千分の一多摩地形図にみる道と近代化》と題して、1時間30分ほど話をしました。小社刊『多摩地形図』を素材に、というご要望でしたが、それは後半にまわし、前半分は「みち」そのものを話題にしました。皆さん結構面白く聴いていただけたようです。
その場でご紹介したら、早速本日の淑徳大学公開講座「江戸東京水際散歩」の《一葉の坂・鷗外の坂》にも何人かご参加いただけたのは、大変ありがたいことです。
来月はじめにも、小生単独の講演会が予定されています。
以下、取敢えずお知らせを掲げます。お運びいただければ幸いです。
■2009年神保町ブックフェスティバル・タイアップ企画
芳賀啓講演会『神保町地図物語』
11月1日(日) 13時30分開場・14時開演(入場無料)
会場=岩波ブックセンター3階・セミナールーム
<申込み方法>
郵便番号・住所・氏名・電話番号を明記して、
ハガキは100-8502(住所不要)東京新聞出版広告部「神保町地図物語」係へ
ファックスは03-3502-7227へ
メールはhttp://www.tokyo-np.co.jp/ad/book09へ
いずれも10月23日必着。定員80名。応募多数の場合は抽選。
「地図」というお題でしたし、スペースも限られていたために、古地図や地図史といった分野での紹介を欠き、もっとも大切にしている本のひとつ「イメージの冒険 1 地図」(1978年、カマル社編集、河出書房発行)に触れることもできませんでした。とはいえ、これで完結。ご参考になれば幸いです。今回はカラーページでした。
2009年9月27日
研究会で大分県は臼杵に2泊。
そこから足を伸ばして福岡・博多、さらには佐賀まで。
臼杵市では、担当の方にお世話いただいて、古絵図などをたくさんみることができました。
また、佐賀市の「徴古館」で展示中の、初公開城下町絵図も圧巻でした。
そうこうしているうちにあっという間に1週間が過ぎました。
で、今回も「東京新聞」「中日新聞」の記事掲載ということにします。
2009年9月20日
繁忙にまぎれ、ブログを中断していますが、明日からまた出張で1週間ほど不在します。
そのかわりでもありませんが、9月13日、20日、27日と3回にわけて、「東京新聞」「中日新聞」の読書欄用に執筆したものがありますので、それぞれ掲載直後ここにアップしておきます。(記事はクリックで拡大します)
2009年9月13日掲載
本連載「その10」で触れた、神田一ツ橋中学校遺跡から出土した、「牡蠣殻付きかすがい」について、昭和51年12月18日の読売新聞夕刊のコラム「話の港」記事を入手しましたので、下に掲げます。
付着していたのは、小さな牡蠣の赤ちゃん。
といっても立派な幼生ですが、魚屋さんで売っているような、生食用殻付オイスターではない。
大人の指先くらいの牡蠣殻。
けれども、これが「発見」なのですね。
読売新聞 1976年12月18日夕刊のコラム
つまり、この一帯が汐入の低湿地だった時分、宅地造成を意図してまずは水道(木樋)が敷設された。
そうして、土砂が投入され地面が築(つ)きたてられるまでの、ほんの短い時間、汐入の湿地に放置されていた木樋の鉄材(かすがい)の部分に、汐間を泳いできた牡蠣の幼生が付着した。
付着してから生育が止まるまでいったいどのくらいの時間が経過していたかは、この小さな牡蠣殻を見せて、専門家に判断してもらわなければならない事柄です。
けれどもとにかくも、そのうちに土砂が運ばれ、地下に埋もれて再び日光にさらされたときには既に4世紀近い「時」が経過していたのでした。
この小さな牡蠣殻を都市史研究者たちが重要視しているのは、宅地造成の前提として、まず水道が敷設されていたという、「常識」や「予想」をくつがえす事実が明らかになったからです。
そのような重要な「証拠物件」であるにもかかわらず、付着した牡蠣殻はかすがいからそぎ落とされ、この遺物は単なる「上水樋資料」として展示されたのち、どこかへ仕舞いこまれたとは後日の話。
けれども都市形成・都市計画のプロセス云々以前に、ここでは、ひとつのモノが「現在」に浮上し、私たちの貧しい想像力をさえ、時の彼方の「その場」へ誘う、そのモノ自体の力に瞠目しておくべきでしょう。
そうして、この地は低湿地というよりも潮干満の「入江」であったと、はっきり書かれているのです。
神保町は、江戸の初期には「汐入の地」でした。
汐入とは、東京では荒川区南千住の一画、隅田川が大きく蛇行して東から南へ向きを変える、その角あたりのことを指す固有名詞ですが(汐入公園あり)、元来は普通名詞です。
九段坂下に縄文時代の貝塚が埋もれ、岩波書店の隣の神田一ツ橋中学校の地表下に牡蠣殻付きの江戸初期の遺構が眠っているのは、「あたりまえ」なのでした。
そうして、「その11」の『東京地盤図』で見てきたように、神保町は地表から十数メートル下までは泥でできた軟弱地盤でした。
さて、神保町は靖国通り南側にずらりと並ぶ古書店のなかでも、正面にユニコーンのような避雷針を立て、シックなファサードを誇るのは老舗の一誠堂書店で、これは昭和6(1931)年竣工の5階建てビル。
1931年に建てられた一誠堂ビル(左側)
この一誠堂書店ビルの正面エントランスには、一段だけコンクリート製の踏み段が付けられています。これは建設当初からあったものではありません。
このようなものを「後付け階段」と呼び、その多くは地盤沈下の結果生じた地面との段差のため、応急的に付けられた階段です。
一誠堂入口の「後付け踏み段」
おそらく一誠堂書店ビルは、当時のしっかりした工法で、泥をつきぬけ堅い基盤にまで届く基礎杭の上に建てられており、ために泥が収縮して地盤沈下した周囲の地面から何十センチか「浮き上って」しまったのです。
家康が江戸入りしたのが天正18(1590)年の8月1日(八朔)。
翌年から家康は江戸城の応急普請にとりかかり、文禄元年(1592)には西の丸造営に着手、番町も成立したといわれます。
けれども江戸草創期の一次資料が隠滅していて、年代確定しがたく、とくに日比谷入江埋め立て時期には、文禄2(1593)年と慶長8(1603)年の2説があるようです。
「その13」の図が示しているとされるのは慶長7(1602)年ですから、どちらかといいうと、後者の説に符合します。ただし細かいことをいえば、「埋め立て」の範囲がどこまでを指すかという問題もありますね。
いずれにしても、この時期の各種土木工事には、特別の工具や重機・車輛など一切存在せず、すべて人力で行われたわけで、今日でいえば巨大なダムをつくるようなプロジェクトが、せまい範囲で、いくつか、同時進行的にすすめられたことは確かです。
当時の江戸はほとんど新開地で、人と石、材木が流れ込み、あちこちで右往左往が絶えない喧噪の巷だったでしょう。
今日の東京の中心部は、そのような「地業」によって形成されたのです。
神保町といえども例外ではありません。
神保町は、日比谷入江のさらに北側。
『事蹟合考』という江戸時代の書物に、木村源太郎なる人物が家康の頃許しを得て「飯田町の東」を埋め立て、「四、五町」をもらった、と記されています。
飯田町は、江戸時代初期には九段坂の両側にあったとされますから、この「埋め立て」地はまさに神保町一帯にほかなりません。
この界隈が埋め立てられた時期は年代を特定できるほど明確ではないにしろ、江戸の草創期には入江の浪が寄せ、満潮時に牡蠣の口が開く汐入の地であったことだけは確かなことなのです(「その10」神田一ツ橋中学校遺構の記事参照)。
古地図の話のはずが、登場するのは最近の図ばかり、というご不満もあるでしょうから、この辺で「最古の江戸図」をいくつか参照することにしましょう。
まずは『別本慶長江戸図』と呼ばれるもの。
江戸草創の頃の簡単なスケッチのような地図で、弘化2(1845)年の写図ですが、考証者によって慶長7年頃の様子を示すとされています。
つまり家康が江戸入りして12年後、征夷大将軍となって江戸幕府を開く1年前。五街道の制もなく、日本橋が架けられる以前の江戸城周辺(内濠一円)の概観で、この図のもっとも特徴とするところは、「日比谷入江」が明瞭に図示されていることなのです。どんな江戸古地図といえども、このような図はほかにありません。
古地図は現代図と照合しやすいように、ほぼ北を上にしています。
「別本慶長江戸図」
これで本題の「神保町」周辺をさぐってみましょう。
そうするとなんとなくお判りかも知れませんが、左上の川筋でゆるく囲まれた凸部が、現在の北の丸公園にあたる地域で、つまり凸部の先端が「田安門」ですから、その内側は現在の「日本武道館」があるところです。このあたりは、緑色に着色され「竹やぶ」と記入があります。
「別本慶長江戸図」部分図
その右手、内濠をかねた川筋の外には「登り坂四つや道」と書かれています。
この「登り坂」が現在の「九段坂」とかんがえられますから、神保町はこの坂下に位置することになります。
そうすると濠の内側に「士衆住居」とあるあたりが「パレスサイドビル」(毎日新聞社ビル)。まだ「一ツ橋」はなく、そのさらに右手の橋(「柴崎口ト云」とある)が神田橋に相当。
そうして、先ほどの「士衆住居」の下辺に「平河ト云フ所」と「竹やぶ」の間にある橋が、現在の平川門でしょう。
日比谷入江は、慶長7年の時点で大分埋め立てが進んでいたのではないかと思われる節があります。残されている海面は、日比谷-有楽町辺でしかないのです。
「別本慶長江戸図」部分