Who has seen the wind?
Neither I nor you
But when the leaves hang trembling
The wind is passing through.
Who has seen the wind?
Neither you nor I
But when the trees bow down their heads
The wind is passing by.
文部省編集『四年生の音楽』(1947)にある「風」(西條八十訳詞・草川信作曲)の原詩です。
クリスティーナの童謡集「Sing Song 」(1872) にあるこの詩を、西條が雑誌『赤い鳥』に翻訳掲載したのは大正14年(1925)。
誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木(こ)の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく
誰が風を 見たでしょう
あなたも僕も 見やしない
けれど樹立(こだち)が 頭をさげて
風は 通りすぎてゆく
心にしみる歌です。
誰が風を見たか。
風ではなく、雨の「見たか」歌もあります。
いわく、“Have you ever seen the rain? ”
Creedence Clearwater Revival の曲で 1971年にヒット。
どろくさいバンド音と歌声がなつかしいですが、ここで歌われている「雨」は、ベトナムの地に落下するナパーム弾のことでした。
ナパーム弾の前身は、かつて日本のほとんどの都市に落下した、焼夷弾。「雨を見たかい?」 日本でこの雨を見た人は、少なくなりつつあります。Creedence Clearwater Revival という一風変わったバンド名は、「清水回復教団」とでも訳すんでしょうか。当時はCCRというアクロニムでわかったような気になっていましたけれど。
When I am dead, my dearest,
Sing no sad songs for me;
Plant thou no roses at my head,
Nor shady cypress tree:
Be the green grass above me
With showers and dewdrops wet;
And if thou wilt, remember,
And if thou wilt, forget.
I shall not see the shadows,
I shall not feel the rain;
I shall not hear the nightingale
Sing on, as if in pain:
And dreaming through the twilight
That doth not rise nor set,
Haply I may remember,
And haply may forget.
これは、クリスティナ・ロセッティ Christina Rossetti(1830-1894) 、あのラファエロ前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹さんの作です。
例によって、私訳は
吾死なば いとしき人
悼(いた)み歌 うたうなかれ
薔薇の花 影差す糸杉 汝(なれ)植(う)うなかれ
吾が上には雨また滴、露けき草を
意あらば 想い出し
意なくば 忘れかし
吾影を見ず
風を覚えず
痛みある如(ごと)夜啼く鳥も 耳に覚えず
さありてまどろめる 薄明かりのなか
夜明けなく 日没なく
はた 想い出し
はた 忘れ去り
ですが、「ああ、あの歌」というくらい知られたクリスティーナ原詩の歌はまた別にあって、それをはじめて唄ったのは多分私達が小学校の四年生の時なのでした。
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.
この原作者不明の詩に、新井満さんが訳詩作曲したのが、ご存じ「千の風になって」(2003年11月発表)です。
原詩はしっかり脚韻を踏んでいるのがわかりますね。
11月1日の講演会の第1章「風-見えないもの」のなかで、以下のような私訳をご披露しました。
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 眠り居ず
吾は吹く風 千の風
煌(かが)よいはじく 雪の色
穀物(みのり)差し入る 日の光
はた やはらかな秋の雨
汝(なれ)里の朝 目覚めなば
吾はすばしきアマツバメ
音なく円く 天翔ける
吾また夜映(は)ゆ 澄める星
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 吾死なず
ご覧のように、私の訳は七五調ですが語彙としてもそこそこ原詩に忠実、雰囲気もしっかり再現したつもりです。
「風」は、「死」と「不在」を象徴するもの、同時に「万物」:Universeの暗喩で、こうした「死」あるいは「不在」を唄うのは英詩の伝統なのではないかと思われるのです。
昨日昼過ぎに神保町に出て行ったら大変な人の渦。もちろん第50回目の神田古本まつり(10月27日から11月3日まで)で、お天気もよかったからなのですが、第19回神保町ブックフェスティバル(10月31日と11月1日)の各種イベントも目白押しだったのですね。
私の講演会は定員80人のところにおよそ100人。あの倍の広さの会場が必要だったかもしれませんね。でも、お世話になっている岩波ブックセンターと秦川堂書店の上ですから、こんな名誉なことはありません。
しかしながらいつもの伝で、1時間半の持時間に対して、2時間以上の内容を用意してしまって、3パーツのうち最後の部は飛ばしてのお話で、おいでいただいた方々には申し訳ありませんでした。飛ばした部分から、このサイトで少しずつご紹介していきたいと思っています。とりあえずは、今朝11月2日『東京新聞』朝刊の18面での紹介記事を掲載しておきます。
今朝の東京新聞の記事
昨日は、たましん地域文化財団と多摩交流センター共催の【多摩の歴史講座】第13回 「今に伝わるむかしみち」 の第2講を担当し、《三千分の一多摩地形図にみる道と近代化》と題して、1時間30分ほど話をしました。小社刊『多摩地形図』を素材に、というご要望でしたが、それは後半にまわし、前半分は「みち」そのものを話題にしました。皆さん結構面白く聴いていただけたようです。
その場でご紹介したら、早速本日の淑徳大学公開講座「江戸東京水際散歩」の《一葉の坂・鷗外の坂》にも何人かご参加いただけたのは、大変ありがたいことです。
来月はじめにも、小生単独の講演会が予定されています。
以下、取敢えずお知らせを掲げます。お運びいただければ幸いです。
■2009年神保町ブックフェスティバル・タイアップ企画
芳賀啓講演会『神保町地図物語』
11月1日(日) 13時30分開場・14時開演(入場無料)
会場=岩波ブックセンター3階・セミナールーム
<申込み方法>
郵便番号・住所・氏名・電話番号を明記して、
ハガキは100-8502(住所不要)東京新聞出版広告部「神保町地図物語」係へ
ファックスは03-3502-7227へ
メールはhttp://www.tokyo-np.co.jp/ad/book09へ
いずれも10月23日必着。定員80名。応募多数の場合は抽選。
「地図」というお題でしたし、スペースも限られていたために、古地図や地図史といった分野での紹介を欠き、もっとも大切にしている本のひとつ「イメージの冒険 1 地図」(1978年、カマル社編集、河出書房発行)に触れることもできませんでした。とはいえ、これで完結。ご参考になれば幸いです。今回はカラーページでした。
2009年9月27日
研究会で大分県は臼杵に2泊。
そこから足を伸ばして福岡・博多、さらには佐賀まで。
臼杵市では、担当の方にお世話いただいて、古絵図などをたくさんみることができました。
また、佐賀市の「徴古館」で展示中の、初公開城下町絵図も圧巻でした。
そうこうしているうちにあっという間に1週間が過ぎました。
で、今回も「東京新聞」「中日新聞」の記事掲載ということにします。
2009年9月20日
繁忙にまぎれ、ブログを中断していますが、明日からまた出張で1週間ほど不在します。
そのかわりでもありませんが、9月13日、20日、27日と3回にわけて、「東京新聞」「中日新聞」の読書欄用に執筆したものがありますので、それぞれ掲載直後ここにアップしておきます。(記事はクリックで拡大します)
2009年9月13日掲載
本連載「その10」で触れた、神田一ツ橋中学校遺跡から出土した、「牡蠣殻付きかすがい」について、昭和51年12月18日の読売新聞夕刊のコラム「話の港」記事を入手しましたので、下に掲げます。
付着していたのは、小さな牡蠣の赤ちゃん。
といっても立派な幼生ですが、魚屋さんで売っているような、生食用殻付オイスターではない。
大人の指先くらいの牡蠣殻。
けれども、これが「発見」なのですね。
読売新聞 1976年12月18日夕刊のコラム
つまり、この一帯が汐入の低湿地だった時分、宅地造成を意図してまずは水道(木樋)が敷設された。
そうして、土砂が投入され地面が築(つ)きたてられるまでの、ほんの短い時間、汐入の湿地に放置されていた木樋の鉄材(かすがい)の部分に、汐間を泳いできた牡蠣の幼生が付着した。
付着してから生育が止まるまでいったいどのくらいの時間が経過していたかは、この小さな牡蠣殻を見せて、専門家に判断してもらわなければならない事柄です。
けれどもとにかくも、そのうちに土砂が運ばれ、地下に埋もれて再び日光にさらされたときには既に4世紀近い「時」が経過していたのでした。
この小さな牡蠣殻を都市史研究者たちが重要視しているのは、宅地造成の前提として、まず水道が敷設されていたという、「常識」や「予想」をくつがえす事実が明らかになったからです。
そのような重要な「証拠物件」であるにもかかわらず、付着した牡蠣殻はかすがいからそぎ落とされ、この遺物は単なる「上水樋資料」として展示されたのち、どこかへ仕舞いこまれたとは後日の話。
けれども都市形成・都市計画のプロセス云々以前に、ここでは、ひとつのモノが「現在」に浮上し、私たちの貧しい想像力をさえ、時の彼方の「その場」へ誘う、そのモノ自体の力に瞠目しておくべきでしょう。
そうして、この地は低湿地というよりも潮干満の「入江」であったと、はっきり書かれているのです。
神保町は、江戸の初期には「汐入の地」でした。
汐入とは、東京では荒川区南千住の一画、隅田川が大きく蛇行して東から南へ向きを変える、その角あたりのことを指す固有名詞ですが(汐入公園あり)、元来は普通名詞です。
九段坂下に縄文時代の貝塚が埋もれ、岩波書店の隣の神田一ツ橋中学校の地表下に牡蠣殻付きの江戸初期の遺構が眠っているのは、「あたりまえ」なのでした。
そうして、「その11」の『東京地盤図』で見てきたように、神保町は地表から十数メートル下までは泥でできた軟弱地盤でした。
さて、神保町は靖国通り南側にずらりと並ぶ古書店のなかでも、正面にユニコーンのような避雷針を立て、シックなファサードを誇るのは老舗の一誠堂書店で、これは昭和6(1931)年竣工の5階建てビル。
1931年に建てられた一誠堂ビル(左側)
この一誠堂書店ビルの正面エントランスには、一段だけコンクリート製の踏み段が付けられています。これは建設当初からあったものではありません。
このようなものを「後付け階段」と呼び、その多くは地盤沈下の結果生じた地面との段差のため、応急的に付けられた階段です。
一誠堂入口の「後付け踏み段」
おそらく一誠堂書店ビルは、当時のしっかりした工法で、泥をつきぬけ堅い基盤にまで届く基礎杭の上に建てられており、ために泥が収縮して地盤沈下した周囲の地面から何十センチか「浮き上って」しまったのです。