月が鏡で あったなら
恋しあなたの 面影を
夜毎うつして 見ようもの
こんな気持ちでいるわたし
ねえ 忘れちゃいやヨ 忘れないでネ
(1番。2~4番省略)

こんな唄がありました。昭和11(1936)年に大日本帝国内務省が「官能的」の理由をもって発売禁止処分とし、うたった渡辺はま子は女学校を退職した由(最上洋作詞、細田義勝作曲「忘れちゃいやよ」)。私が憶えているくらいですから、敗戦後まもなくリバイバルしたのでしょう。

一体どこが官能的なのか。戦後も1970年以降の「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」(「ひと夏の経験」作詞千家和也、作曲都倉俊一、唄山口百恵、1974年)とか、「セーラー服を脱がさないで」(作詞秋元康、作曲佐藤準、唄おニャン子クラブ、1985年)といった、唄い出しやタイトルからしてエロマンガのような唄が平然と街に流れる地点からみればまだかわいらしい、伝統的日本の「芸者歌謡」。ただの、「いい気な男の唄」なのですね。
しかし、すばらしい発想ですねえ、月が鏡とは。
もしも月の表面がつるつるした平面反射体だったとしたら、巨大望遠鏡が今日の「グルグル・アース」の代りをつとめることができたかも知れませんね。ただしその場合、「月の鏡」は「ライヴ」ですから、現在のグルグルなんとかよりよほどリアルで有効なのです。
さてとにかくも「月が鏡であったなら」、伊能忠敬あたりが苦労して日本列島の海岸線や主街道を這い回ったような「努力」は、多分必要なかったのです。
けれど仮にそうであったとしても、この歌のように「恋しい人」の顔を識別するほどに月の鏡の倍率をあげるのは、とてもできない相談だったでしょう。

初源の鏡は、やはり静止した水面でしょうね。出土した人類最古の鏡は、トルコのチャタル・ヒュユク遺跡の紀元前約6200年前の黒曜石製だといいます(『鏡の歴史』M・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳、2007)。
人は、自分の視線が届く範囲外にある自分の体を、直接目にすることはできません。つまり、自らの顔は通常は「見えないもの」だったのです。水面であれ黒曜石であれ銅であれガラスであれ、鏡という反射体を介することなしには。
同様に、人は己が住む村であれ町であれ島であれ大陸であれ地球であれ、ほんの身の回りの空間を除いては、通常自己の位置する「場」を直接視野に収めることはできないのです。
そうしてこの場合、「顔と鏡」の関係にあたる、「場所とX」のX、つまり鏡のような即自的な反射体は存在せず、ために人は憶測や確認、「天測」や「量地」等々、粒々辛苦して布や紙の上にその「場所のかたち」をしたため、それをたよりとしてきたのでした。
仮に地図というものを知らない、あるいは見たことのない人がいたとして(多分いるでしょう)、説明するに「地図とは場所を映した巨大な鏡のようなもの」であると言っても、あながち間違いではないのです。

これまでは、風や死(不在)にまつわる英詩を素材としましたが、今度は日本の昔話です。
出典は『少年少女世界文学全集』(45、日本編第1巻、1965年、講談社)のなかの「日本民話」(浜田廣介)。いま50~60歳の人々にはなつかしい書名でしょうが、そのうちの一話(pp.211-217)。

「むかしむかし、阿波の国の海ばたに大きな町がありました。町から見えるおきあいに小さな島がありました。
だれが見たのわかりませんが、空から見ると、島の形が、おかめの面に似ていました。それで世間の人たちは、小さな島を「おかめ島」とよんでいました。島のまわりを歩いても、一里ともない小さな島でありましたが、島人たちは力をあわせて漁にでて、いつもたくさんの海のさかなをとりました。さかなを大きな町に運んで金にかえ、ものにかえして、島人たちは、ゆたかなくらしをしていました。
その島に、ある日、ひとりのぼうさんが、わらじをはいてわたってきました。・・・」

そこから先のあらすじは、―――坊さんは7日後に、鎮守の社の狛犬の目が赤く染まったら、その日の夕方には島は海にしずむと、不気味な予言をして島を発っていった。島のかしらは、五十年、百年と代々言伝えを守って、毎朝社にお参りしてきた。あるあらしが吹き荒れた日、6人の男が乗った難破船が島に吹き寄せられた。島人たちの介抱によって元気になった男たちは、島に伝わるいい伝えを聞いた夜、こっそり鎮守の森にでかけ、絵具で狛犬の目を赤く塗った。その男たちは実は海賊だった。翌朝狛犬の目が赤いのを見た島のかしらは、驚いて危急を告げ、島人は夕方までに一人残らず船に乗って島を引き揚げた。たくらみがうまくいった海賊たちは酒盛りをはじめたが、そのうち海鳴りがとどろき、島は海賊たちもろとも海にのみこまれてしずんでいった―――という因果応報・勧善懲悪話です.

しかし、ここで肝心なところは、「誰が見たのかわかりませんが、空から見ると、島の形が、おかめの面に似ていました」という冒頭の部分です。
この出だしからして、むかしばなしは聴く人を「不思議」、つまり人知を超えた神秘性に引き込んでいくのです。なぜならば、飛行機も、まして人工衛星など、考えることもできなかった時代、自分たちの住んでいる地域の「かたち」を知る術(すべ)は、想像でなければ神のわざだったからです。
そのままでは見えないもの――自らの姿、を映し、それをわが目で見ることのできる道具である「鏡」は、ヨーロッパにおいても魔力をもつとされ、日本ではいまでも神社の「御神体」なのでした。しかしながら、自分たちの住む「場所のかたち」をそのままに見てとるのは、望遠「鏡」をもってしても不可能なことだったのです。

Who has seen the wind?
Neither I nor you
But when the leaves hang trembling
The wind is passing through.

Who has seen the wind?
Neither you nor I
But when the trees bow down their heads
The wind is passing by.

文部省編集『四年生の音楽』(1947)にある「風」(西條八十訳詞・草川信作曲)の原詩です。
クリスティーナの童謡集「Sing Song 」(1872) にあるこの詩を、西條が雑誌『赤い鳥』に翻訳掲載したのは大正14年(1925)。

誰が風を見たでしょう 
僕もあなたも見やしない 
けれど木(こ)の葉をふるわせて 
風は通りぬけてゆく

誰が風を 見たでしょう
あなたも僕も 見やしない
けれど樹立(こだち)が 頭をさげて
風は 通りすぎてゆく

心にしみる歌です。
誰が風を見たか。
風ではなく、雨の「見たか」歌もあります。
いわく、“Have you ever seen the rain? ”
Creedence Clearwater Revival の曲で 1971年にヒット。
どろくさいバンド音と歌声がなつかしいですが、ここで歌われている「雨」は、ベトナムの地に落下するナパーム弾のことでした。
ナパーム弾の前身は、かつて日本のほとんどの都市に落下した、焼夷弾。「雨を見たかい?」 日本でこの雨を見た人は、少なくなりつつあります。Creedence Clearwater Revival という一風変わったバンド名は、「清水回復教団」とでも訳すんでしょうか。当時はCCRというアクロニムでわかったような気になっていましたけれど。

When I am dead, my dearest,
Sing no sad songs for me;
Plant thou no roses at my head,
Nor shady cypress tree:
Be the green grass above me
With showers and dewdrops wet;
And if thou wilt, remember,
And if thou wilt, forget.
I shall not see the shadows,
I shall not feel the rain;
I shall not hear the nightingale
Sing on, as if in pain:
And dreaming through the twilight
That doth not rise nor set,
Haply I may remember,
And haply may forget.

これは、クリスティナ・ロセッティ Christina Rossetti(1830-1894) 、あのラファエロ前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹さんの作です。
例によって、私訳は

吾死なば いとしき人
悼(いた)み歌 うたうなかれ
薔薇の花 影差す糸杉 汝(なれ)植(う)うなかれ
吾が上には雨また滴、露けき草を
意あらば 想い出し
意なくば 忘れかし
吾影を見ず
風を覚えず
痛みある如(ごと)夜啼く鳥も 耳に覚えず
さありてまどろめる 薄明かりのなか
夜明けなく 日没なく
はた 想い出し
はた 忘れ去り

ですが、「ああ、あの歌」というくらい知られたクリスティーナ原詩の歌はまた別にあって、それをはじめて唄ったのは多分私達が小学校の四年生の時なのでした。

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.

この原作者不明の詩に、新井満さんが訳詩作曲したのが、ご存じ「千の風になって」(2003年11月発表)です。
原詩はしっかり脚韻を踏んでいるのがわかりますね。
11月1日の講演会の第1章「風-見えないもの」のなかで、以下のような私訳をご披露しました。

吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 眠り居ず
吾は吹く風 千の風
煌(かが)よいはじく 雪の色
穀物(みのり)差し入る 日の光
はた やはらかな秋の雨
汝(なれ)里の朝 目覚めなば
吾はすばしきアマツバメ
音なく円く 天翔ける
吾また夜映(は)ゆ 澄める星
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 吾死なず

ご覧のように、私の訳は七五調ですが語彙としてもそこそこ原詩に忠実、雰囲気もしっかり再現したつもりです。
「風」は、「死」と「不在」を象徴するもの、同時に「万物」:Universeの暗喩で、こうした「死」あるいは「不在」を唄うのは英詩の伝統なのではないかと思われるのです。

collegio

おかげさまで盛会

昨日昼過ぎに神保町に出て行ったら大変な人の渦。もちろん第50回目の神田古本まつり(10月27日から11月3日まで)で、お天気もよかったからなのですが、第19回神保町ブックフェスティバル(10月31日と11月1日)の各種イベントも目白押しだったのですね。
私の講演会は定員80人のところにおよそ100人。あの倍の広さの会場が必要だったかもしれませんね。でも、お世話になっている岩波ブックセンターと秦川堂書店の上ですから、こんな名誉なことはありません。
しかしながらいつもの伝で、1時間半の持時間に対して、2時間以上の内容を用意してしまって、3パーツのうち最後の部は飛ばしてのお話で、おいでいただいた方々には申し訳ありませんでした。飛ばした部分から、このサイトで少しずつご紹介していきたいと思っています。とりあえずは、今朝11月2日『東京新聞』朝刊の18面での紹介記事を掲載しておきます。

今朝の東京新聞の記事
今朝の東京新聞の記事
collegio

講 演 会

昨日は、たましん地域文化財団と多摩交流センター共催の【多摩の歴史講座】第13回 「今に伝わるむかしみち」 の第2講を担当し、《三千分の一多摩地形図にみる道と近代化》と題して、1時間30分ほど話をしました。小社刊『多摩地形図』を素材に、というご要望でしたが、それは後半にまわし、前半分は「みち」そのものを話題にしました。皆さん結構面白く聴いていただけたようです。
その場でご紹介したら、早速本日の淑徳大学公開講座「江戸東京水際散歩」の《一葉の坂・鷗外の坂》にも何人かご参加いただけたのは、大変ありがたいことです。
来月はじめにも、小生単独の講演会が予定されています。
以下、取敢えずお知らせを掲げます。お運びいただければ幸いです。

■2009年神保町ブックフェスティバル・タイアップ企画
芳賀啓講演会『神保町地図物語』
11月1日(日) 13時30分開場・14時開演(入場無料)
会場=岩波ブックセンター3階・セミナールーム
<申込み方法>
郵便番号・住所・氏名・電話番号を明記して、
ハガキは100-8502(住所不要)東京新聞出版広告部「神保町地図物語」係へ
ファックスは03-3502-7227へ
メールはhttp://www.tokyo-np.co.jp/ad/book09へ
いずれも10月23日必着。定員80名。応募多数の場合は抽選。

「地図」というお題でしたし、スペースも限られていたために、古地図や地図史といった分野での紹介を欠き、もっとも大切にしている本のひとつ「イメージの冒険 1 地図」(1978年、カマル社編集、河出書房発行)に触れることもできませんでした。とはいえ、これで完結。ご参考になれば幸いです。今回はカラーページでした。

2009年9月27日
2009年9月27日

研究会で大分県は臼杵に2泊。
そこから足を伸ばして福岡・博多、さらには佐賀まで。
臼杵市では、担当の方にお世話いただいて、古絵図などをたくさんみることができました。
また、佐賀市の「徴古館」で展示中の、初公開城下町絵図も圧巻でした。

そうこうしているうちにあっという間に1週間が過ぎました。
で、今回も「東京新聞」「中日新聞」の記事掲載ということにします。

2009年9月20日
2009年9月20日

繁忙にまぎれ、ブログを中断していますが、明日からまた出張で1週間ほど不在します。
そのかわりでもありませんが、9月13日、20日、27日と3回にわけて、「東京新聞」「中日新聞」の読書欄用に執筆したものがありますので、それぞれ掲載直後ここにアップしておきます。(記事はクリックで拡大します)

2009年9月13日「東京新聞」「中日新聞」掲載
2009年9月13日掲載

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