4月4日、日立中央研究所の開放日にあわせた『川の地図辞典』多摩東部編の出版記念ウォーク(午前9時45分、JR国分寺駅集合)ですが、そろそろ参加申込を締切ます。
年度末で製本の日程が厳しく、4月4日にはとりあえず十数冊だけ別につくってもらい、間に合わせる、というのが確実になったからです。
奥付日の4月10日までには出来ると思いますが、4日に本を手に出来る方は限られます。
ただし、本は後でもいい(あるいは要らない)、とりあえず参加したい、という方はどうぞ。
恐縮ながら当日購入は、参加申込先着順とさせていただきますのでご承知おきください。
千葉県は船橋市のMという地名だったが、津田沼駅から多少下がり気味の道を結構歩いてたどり着くそこのお宅の東側は急斜面で、地図でみると「緑の帯」。
下総台地の一部が小河谷によって開析されたところだろうが、崖ぎわの東向きの庭は丹精こめたお花畑。ただしそこは垂直なコンクリートの壁を立てて土を充填し、無理やり拡げた庭だった。
ある日のこと、庭で飼われていた柴犬(雑種)が下に落ちて、腰を抜かしてしまったと。歩道に這いつくばった状態になっていたのを、近所の人が知らせてくれたらしい。
それでも幾日かすると歩けるようになったが、もうすっかり老犬のお運び状態。がしかし、一瞬シャンとなるのは、牝犬と出逢ったときなのだそうだ。尻尾がちゃんと立つ、というのは話し手の脚色だったかも知れないが、崖と犬というとり合せでいつも想い出すことではある。
犬が落ちたのは、フェンスに穴でもあったのか、耄碌したからなのかは聞きそこなったが、落っこちたのが犬だけだったのは幸いなことで、これが地震で庭半分が崩落したとか、家の土台の一部が宙ぶらりんになった、というのでなくてよかったのだった。
余談ついでに、これも昔聞いたエピソードで、Mという高名、高齢な文献学者が養老院で寝たきりになっていたが、若い看護婦さんの声がするとその方に頭が少し向くのだったと。
こういうことは、人も犬も同じであろう。
東京都心の垂直な崖から、犬や猫、人間が落っこちてくる、というのはあまり聞かないことだが、高速道路から何かが降ってくるというのは時々ニュースになる。
そうして、昔はそこを通るのが怖いような薄暗い切通しや崖、坂はいくらでもあって、幽霊坂や暗闇坂という名がついたものだけれど、今日はあかるいのである。たとえばDNP(大日本印刷)城下町の市ヶ谷は長延寺町の切通しのような歩道には、真っ白な石の擁壁が歩く人を圧するように直立して続いているのである。真っ白な崖から、ある日何かがドタリ落ちてこないという保証はない。いやいや、灰色だったり白だったりする壁そのものが、落下物体の第一候補なのだ。
崖からとんだ逸脱話とはなってしまったが、今日はこれくらいで。
新聞報道によると、東北大学などの国際研究チームが各地の地層を精査し、恐竜絶滅論争に決着をつけたという。約6550万年前、白亜紀末の大異変はやはりメキシコのユカタン半島付近の隕石衝突が原因で、広島型原爆の10億倍のエネルギーが大気中に塵を拡散し、まずは光合成生物を死滅させたのだと。(2010年3月5日 読売新聞)
ここにあるのは、ダーウィンの漸進的で気の遠くなるような「時間」を前提にした進化論ではなくて、典型的なカタストロフィー光景。非連続が現在につながる「その後」を用意したことになる。
通常、自然河川の「光景」は「悠久の」流れに喩えられる。美空ひばりの「アーアー、川の流れのように」(作詞秋元康、作曲見岳章、1988年)である。秋元はニューヨーク在住で、付近のイーストリバーが念頭にあったという。私に言わせれば歌手の歌唱力だけで持上げられた「空虚な唄」である。ひばり伝説に相乗して、その掉尾を飾るにはまことに都合がよかったというだけの中身である。それに比較して、「病葉を今日も浮かべて 街の谷、川は流れる」(作詞横井弘、作曲桜田誠一、1960年)は、名曲である(「川は流れる」唄仲宗根美樹)。ただし、我々が通常目にする「街の谷」つまり都市の小河川は、一定以上の降雨でもなければ通常「流れる」ことない。水がコンクリの底に「残っている」状態か、あるいは汐の干満に感応して「たゆたっている」にすぎない。
さてしかし、ある日突然、猛烈に膨れ上がり、丘を呑みこみ、みるみるうちに山腹をえぐり、自分の流路すら変えてしまうのも、川である。川の「本態」である。川は静劇併せもった存在なのである。
すこしずつ、すこしずつ、そのうちそれが臨界点に達してある日突然、という現象は、金属疲労による破断が代表例だろう。これによく似たプロセスに、地震の結果出現する断層崖がある。同じすこしずつ、すこしずつでも、海面変動による河川下刻が生成する斜面は、ある日突然出現するわけではない。気付いたら、いつの間にか崖。いつの間にか崖には氷河のような巨大な削岩体とその作用でも生成想定しうる。カール地形(圏谷)やU字谷(そのひとつがフィヨルド)が造り出す、えぐりとられ斜面である。もちろん、東京で氷河地形をみることはない。断層崖も聞いたことがない。氷河は氷河でも、東京にあるのは、ほとんどが氷河性海面変動の結果、河川侵食(水)がつくりだした段丘斜面(崖)である。
しかし、我々が東京の街中で実際に見かける垂直あるいは垂直に近い崖は、だいたいが人工の法(のり)面で、いわゆる「切通し」である。そうして一見「切通し」でも、崖上の敷地を広くしようと、斜面上部に土盛りし、擁壁で垂直をつくりだしている、コワーイ「貼付け崖」も少なくないのである。
目の前は、崖である。
といっても、垂直な懸崖ではない。
都立庭園である。いわゆる国分寺崖線の斜面にできた「ハケ」の庭園である。旧三菱財閥岩崎の別荘である。と、エラそうに言ったところで別に私がエライわけではない。
ただし、私が崖っぷち男であることは確かで、常に資金に窮している極小一人出版社がいつどうなるかわからない、という意味で常に崖っぷちである。
けれども、崖の上である。
昼も夜も、眼下は殿ヶ谷戸庭園の森。その向うの崖下は立川面。府中の町と、またその先の多摩丘陵が目の先である。
晴れた日は、よみうりランドの大観覧車が肉眼でも小さく見える。
ちょっと窓から顔を出せば、70年代村上春樹夫妻がやっていたジャズ喫茶があった、茶色のビルが見える。ただし私が村上の作品に興味があるわけではない。「ハリー・ポッター」も、ナントカの巻を途中まで読んで放り出した。村上もそうである。こんなものを読もうと思った自身を恥じよ、だ。
さて、崖である。
崖とは傾斜角の絶対値ではなく、地表傾斜変化の程度、つまり相対的な概念である、というのは鈴木隆介先生の『建設技術者のための地形図読図入門』第1巻120ページの趣意。ただしそれは山地や丘陵などの自然地形での話で、掘ったり埋めたり切り取ったりの平坦地を畳みあげる現代都市にあっては、やはり傾斜角の絶対値が評定の基本となろう。よって、建物の充満している都市部においては、各都道府県の建築基準法施行条例中の崖規定、すなわち傾斜角30°以上、高さ2m以上を認定基準としてみる。けれどもこれはミクロな崖定義で、そもそも崖の幅については何の規定もない。そうして、崖は斜面の一種である。しかし自然の生成プロセスを考えた場合、斜面が崖をつくりだすのではなく、崖つまり垂直面が斜面の母体だと考えた方がよい。このことについては、おいおい触れることになる。
このあたり(小金井、国分寺)では、「hakeハケ」というのが国分寺崖線の、とくに湧水流出場所を指示する謂いであるとは、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』冒頭で開陳され、巷間に知れ渡るようになった。方言の類であるが、他所では「hakkeハッケ」「bakkeバッケ」、「bakeバケ」とも言う。これらについては漢字で「八景」や「化」と書くこともある。「hakaハカ」や「hagaハガ」というバージョンもある。皆、地形を言い表した用語で、「崖」の意である。
これらの-ake(-akaは変形)に注目すれば、「kake欠け」が語源と思うのは自然の勢いだ。これにはまったく対蹠的な説もあって、アイヌ語のパケ(頭。突端。岬)から来たというのである。こちらは否定(マイナス)思考でなくて、肯定(プラス)というか、余剰思考である。コブである。突出である。余分なのである。けれども「欠け」に似たマイナス語源説にはもうひとつあって、それは「禿ハゲ」。禿は動詞「剥ぐ」の連用形の名詞化であるから、海波や河流の侵食作用を成因とする崖にはぴったりではある。「ha」は「端」であって、それに「ケ」という助辞がついて「ハケ」である、という説もあるらしい。
まあ、たくさんあるけれど、とにかく私(芳賀ハガ)が崖に深い関係のある人間である、ということはこれで納得していただけたことかと思う。
とにかく、崖である。
崖はどうして出来たのか。
ある日、突然出来たのか。
少しずつ、ちょっとずつ、いつの間にか崖、なのか。
カタストロフィーか、斉一作用の膨大な蓄積によるのか。
ううむ、うまくいかない。
『川の地図辞典 多摩東部編』の出来日には、もう少し時間がかかるようです。
で、「出版記念ウォーク」の日程は、いっそのこと国分寺の「日立中央研究所」庭園開放日に設定しようと思います。
なんと言っても、野川の源流が見られる数少ない機会(春秋各1日、年間2日)ですからね。
今年の春のオープン日は、4月4日(日曜日)午前10時~午後2時半。
午後は庭園内の桜の木より人が多いような状態となりますから、オープンと同時に入場したいので
集合は午前9時45分、JR中央線「国分寺駅」びゅうプラザ付近ということで。
雨天決行ですが、その場合庭園には入れません。
参加費は、資料代として300円いただきますが、『川の地図辞典 多摩東部編』ご持参の方は無料とします。もちろん、当日購入していただいても結構です。
水筒とお弁当をお忘れなく。
現在、考えているコース(予定)は以下の通りです。
国分寺駅→日立中央研究所(野川源流)→伝村上春樹夫妻旧居跡→恋ヶ窪・姿見の池→西国分寺駅→古代官道跡(東山道武蔵路跡)→都立武蔵国分寺公園→国分寺崖線→真姿の池→武蔵国分寺跡→お鷹の道→タンポポハウス(藤森照信氏邸)→池の坂(押切間)→国分寺駅
参加申し込みはメールで、どうぞよろしく。
2月初めから、2月中になって、とうとう3月に。
いつもの、ズルズル刊行予定で、大変申し訳ございませんが、
品切れ中の『川の地図辞典』江戸・東京23区編の3刷目(補訂版)
は、出来日が確定しました。
3月15日。
新刊の『川の地図辞典』多摩東部編については
あと3.4日で刊行日が判明すると思います。
でも、多分同じころでしょう。
刊行記念ウォークについてはそれからお知らせします。
少々お待ちを。
中沢某が「アースダイバー」(略称「アダイ」)で吹聴している「縄文地図」が、縄文地図でもなんでもなくて、ただの「沖積層/洪積層」分類図で、それは縄文時代の海岸線を表わすものではまったくない、ということを中心に、先日駒澤大学の深沢校舎であった「地理学サロン」でもお話してきましたが、会場のお一人から「そのように言ってもせんないことで、粛々と正しい仕事を世に問うしかない」というお言葉をいただきました。
そうなのですね、昔から「江戸東京歴史地図帳」をつくるのが、私の出版業の目標のひとつだ、と公言してきたのですから、まずは「正しい」「縄文地図」をつくるところからはじめなければならない、と志を新たにしたのです。
酒詰仲男さんのように、小さなスケールの地図なら貝塚の分布から海岸線を推定することも可能ですが、ヒューマンスケールを標榜する者から言うと、例えば目黒区の東山貝塚はそこに海があったわけではない。
つまり、魚介類を積んだ小舟を川沿いに曳いてきて、集落の近くで交易品としての乾貝をつくっていた可能性がある。
だから貝塚分布が即汀線復元にはつながらないのです。
しかしながら、まずは遺跡・遺物の分布を詳しい地形図にプロットしていかないことには、話ははじまらない。
そこから「縄文地図」はようやく一歩が始まるのです。
中沢ナントカは、勝手な地図解釈をおこなって、牽強付会に「死」や「霊」の「場所」を取出し、オカルトや「スピリチャリズム」と同レベルの言説を振りまいているわけです。
彼の言説は、「たわむれ」などではなく、まして思考のパラダイム変換などでもなくて、「縄文ナントカ」も明確な意図をもったひとつのイデオロギー操作だと思っています。
ところで、人間の基本は生物にあるのですから、生死そのものももっと即物的で、合理的です。
東京は、大昔は「どこでも海」だったし、まして『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生)でした。
日本列島におけるオカルト(呪術や祭祀)のピークは縄文晩期(約3000年前)。
縄文晩期の直前、縄文後期から、気候の冷涼化が始まっていたのでした。
今日の逆ですね。
気候も食料も不安定な時期、そこに同調波をおこそうというのが中沢某の小手先です。
「アダイ」で中沢に「桑原武夫学芸賞」を授与した某氏らも、「ほぼ日刊イトイ新聞」で「縄文地図」対談を垂れ流している連中も、易々とノセられていて、皆さんいい気なもんだと思うしかありませんね。
こういうのを、行きはよいよい、帰りは怖い、というのです。
前回お知らせした「トークサロン」にお運びいただき感謝申し上げます。
いつも話は面白いと言っていただけるのですが、本人は後からもっとあそこを丁寧に、もっと絵を増やして、と後悔。
できれば、十分にかたちを整えて本にして・・・と考えますが、これもいつもながら目の前の仕事で流れてしまう。
どこかの雑誌に連載するとか、他社で本にする、というように他人に強制されないとダメなのですね。
話するのは好きですので、また聴いて頂ける機会があるかと思います。
原則としてその都度「その場所」の話をメインにしますため、準備に結構時間がかかるのが欠点ですね。
今月末、30日にも話する予定がありますが、こちらは地理学・地図学関係者の内輪の会のようです。
また、来月末刊行予定の『川の地図辞典』〈多摩東部編〉と同〈江戸・東京23区編・補訂版〉の【刊行記念ウォーク・玉川上水に沿って】を、3月はじめに実施したいと考えています。
確定次第この場でお知らせいたしますので、お楽しみに。
今週の土曜日の午後2時から、早稲田で地図がらみの話をすることになっています。
どなたでも参加できます。
お時間のある方はどうぞ。
《第7回奉仕園トークサロン》
「地図と古地図のはざ間」(仮題)
日時:2010年1月16日(土)午後2時半から4時半頃まで
話す人:地図研究家 芳賀 啓氏(早稲田奉仕園・友愛学舎OB)
場所: 早稲田奉仕園敷地内 日本キリスト教会館6階フォークトルーム
参加費:1000円(資料・お茶・お菓子など含む) ※学生無料
お申し込み・お問い合わせ:鍛治 tel. 03-3435-5657 (直通)
e-mail: takashix@giga.ocn.ne.jpまたは kaji@wtctokyo.or.jp
財団法人早稲田奉仕園〒169-8616 東京都新宿区西早稲田2-3-1
地図はこちら http://www.hoshien.or.jp/map/map.html
中沢某の『アースダイバー』(以下、『アダイ』という)の初版は2005年5月だから、もう5年前に近い。
ずいぶん話題となり、売れもした本だったが、当初から?付きだった。
10年以上前、東上野にあった彼の事務所で、私は彼に向って「土地の凹凸」の話をしたが、彼は面白がって聴いていただけだった、というエピソードは、彼の本が出てからどこかで披露したことがある。
しかしそもそも、ベストセラーというもの自体に?を付けておいたほうがよい。あれは「空気現象」だから。
今朝の「東京新聞」(2010年1月9日)の26面(最終面)の《東京どんぶらこ》というシリーズの411回目は、中沢某が顔写真付で「四谷三丁目」を書いていて、その見出しが例によって「異界との境界地帯」というのだった。
中身は『アダイ』を、新聞用にちょっと書きなおしただけなのだが、本ではさすが担当編集者が疑問部分にチェックを入れていたと見えて、アヤシイ部分は入念に糊塗隠蔽されていたのが、新聞ではそれが「そのまんま」になっていて、4年と7ヶ月ぶりに馬脚が露呈することになった。
曰く、「このあたりがどうしてこんな地形をしているのか、その理由をいまでは私はこう考えている。いまから数千年前、地球は温暖化して、海水面はいまよりも数十メートルも高くなった。いわゆる縄文海進である。その時代、海の入り江は内陸深く侵入していた。そのために、洪積地であった四谷の高台(ここにいまの新宿通りの走っている)は、南北からの深い渓谷によって、エッジも鋭くえぐられていたのだった。/その谷の両脇の傾斜地に、古墳時代になると横穴墳墓がたくさんつくられるようになった。こうしてここは生と死をつなぐ境界地帯となったのである。」(原文ママ)
チェックの入らない文章だから、うんとわかりやすい。
「数メートル」の誤植ではない。「数十メートル」と書いている。
確かに、新宿あたりの標高は40メートル前後だから、海に溺れさせるためには「数十メートル」でなければならない。
つじつまを合わせたわけだ。
けれども、縄文海進時の海面変動は現在とくらべて3メートルほど。百歩譲っても数メートル、というのが定説。
新宿三丁目が海だったのは、数千年前ではなくて、最終間氷期の12~13万年前。
それは縄文時代なんかではなく旧石器時代だが、関東平野の大部分は「古東京湾」の下で、人間の痕跡は存在しない。
「昔々、ここは海の底」という話は、どこにでもある。わかりやすい。間違い、ではない。
地球表面全体が水だった時代もある。氷だった時代もある。
問題はその「昔」がいったいいつの話なのか、だ。
『アダイ』は、「雰囲気」と「つじつま合わせ」でできあがっていたようだ。
まことしやかなエライ人、神がかりの断言者はほかにもたくさん居て、その「説」や「人物」がなんらかのきっかけで浮上し、神話化すると、とりまきや「弟子」の類がまたそれで一商売やらかす。
世の中は、いつも変わらない。