年明けですが、当方にとって「地図の本」は、なんといっても『川の地図辞典』。
その〈江戸・東京23区編〉は再版も品切れで、現在第3版「増訂版」を作製中です。
同時に、『川の地図辞典』〈多摩東部編〉も製作中。
昨今は、再校ゲラの点検で野外に出ることが仕事。
晴天つづきでまことにありがたい。
今回は「地元」ですから、電車と自転車の組合せ。
しかしアラカン卒業アフタカンとなると、一日中自転車を乗り回すのはキツイ。
でも、昨日は朝7時から10時までが電車。それから夕方5時までが自転車。
両方をなんとか2月中に刊行できるよう、努力しています。
以下は今年の「私の3冊」。『東京新聞』2009年12月27日の「2009年 私の3冊」に掲載されたものの元文です。
詩人の茨木のり子が、「刷られたばかりの新刊本が/手の切れそうな鋭さで軒なみ並び/出版業の高血圧にたじたじとなる」と歌ったのは40年以上も昔(「本の街にて」)。時代は大きく転じた。
ある著名な書店人はかつて、本の購買動機はa実用、b見栄、c宗教にある、と喝破したが、今やbは壊滅、a、cもネットに追い込まれた。しかしネットでも書籍でも、「これこそ求めていた」といったものに遭遇することは稀である。
私にとっての今年の3冊は、
①『地図でみる西日本の古代』(島方洸一ほか編・平凡社)
②『東京の道事典』(吉田之彦ほか編・東京堂出版)
③『ベーシックアトラス 中国地図帳』(平凡社)。
①は旧版5万分の1地形図の上に古代官道と条里制を推定記入した大判の歴史地図帳。脇付に「日本大学文理学部叢書」とあり、学術書籍として出版されたようだが、古代のみならず日本史に興味ある一般人の参照すべきもっとも基本的な書籍。カラー印刷であるのもうれしい。「東日本編」が俟たれる所以である。
②は、東京を調べる向きには必須アイテム。一般に「地名辞典」は現旧の「居住地名」あるいは「行政地名」に終始していて自然地名には疎。まして道路は顧みられることがほとんどなかった。しかし「道路」は都市の基本である。著者は多数にわたるが、基本的に道を踏破して執筆している。
これこそ求めていたものだが、、項目遺漏もみえるし、文章にも不審や未熟がかいま見られる。ところどころ挿入されている名所図会の類の図版や写真はむしろ不要である。改版をのぞみたいところだが、「実用」から言えばこうしたものはネット上に公開され、アクティヴに加除訂正されていくのが「理想」である。
③地図出版で定評のある平凡社の1冊。来年は上海万博の年。中国ものも出版ネタであるが、これは2008年7月初版。写真や余分な解説が一切なく、十分な索引(日本音と中国音の両引)を備えてハンディであることに好感がもてる。地域別の地図縮尺が統一されていれば、との思いもあるが、利用者の贅沢な思いであろう。
しかし、総じて紙の出版物がwikipediaのベース役に甘んじないためには、それ自体がモノとしての完成度をもつ必要があることをあらためて確認した1年であった。
年末になると、新聞や雑誌で「今年の3冊」と銘打ったページが目につくようになります。
人はそれを読んで、興味のわかない方面は度外視しつつわかる範囲で、こんな本もあったのかとか、これは読んだな、といった反応をするわけですがさて、今年はどんなモノが登場するか………。
なにせ世界中が不況で底の見えない不安を抱えるなか、出版のそれは突出して根深く前年割れを繰り返しながら部数が出ない分を出版点数で数字維持しようとするのはここ数年つづけられてきた「努力」でした。ために、納本制度によっている国立国会図書館の倉庫があと3年もたないと悲鳴をあげているという噂がまことしやかに蔓延するまでになって、今年の3冊といっても「もういいよ」ということになりかねない。
若い人は本を読まない、とはよく言われるけれども、読書好き人口数にそれほどの変動があったわけではないのです。本を買わないわけでもなく、その証拠に古書やブックオフ、そしてアマゾンあたりは結構繁盛している。つまり垂れ流しの、中身の薄い新刊書は定価で買う魅力に欠けるということなのでしょう。とくに注目されるのは、本を身近に置いておく、あるいは持っているという習慣が、若い人々にはもうないように見受けられる点です。
これは本に限ったことではなく、新しいモノに対する欲望が、旧世代とは隔絶するように希薄になっている。いやむしろこの(安)モノ溢れの時代にまともな感性をもつほどの人間であれば、それへの欲望を掻き立てられる愚かさにとうに気付いているというだけのことなのかも知れません。
気候も含めて、時代はまさしく大転換期。いつまでも「モノづくり」「モノうり」の旧モデルを追求している時代ではないのでしょう。モノでなければ「金融」というわけでもない。こちらはダーティあるいはバブル(球乗り)を覚悟で「踊りを踊る」基本資力と体力が必要なのだと思われます。
『経済は感情で動く』(紀伊國屋書店2008年4月初版)という本がありますが、実は「政治」の根底にも感情があり、とくにこの国の場合は背後の「空気」の支配力が強い。それならばむしろその感情の根源にまで立ち至って「産業」の基軸に据えるのがこの転換期になすべき業なのです。
さて、某新聞の要請により、間もなく締切の「今年の3冊」原稿を抱えています。年末掲載の予定ですが、マスプロダクツ、マスセールの世界で言えば間違いなく今年の1冊は「1Qナントカ」(この本は2冊1セットでした)でしょうが、私がそれを取り上げる必要はもちろんないのです。
書店業界でリーダー的な立場にある方の説に、本の購入動機は①実用、②見栄、③宗教にある、と言っておられましたが、(実際は「はやり」が入る)今日②は壊滅状態。③はむしろ「エコ」を含めた転換期における文明論的なものだと承っておいて、当方はむしろ、「本当の実用に供し得る本」をこそ探し、あるいは供すべきなのだろうと思っています。
時間つぶしも実用でしょうが、また流行や話題に遅れないこともそうかも知れませんが、転換期における「実用」とは、ある意味で予言なのです。無意識にでも、時間的なパースペクティヴを思考の基底にもたないかぎり、実用書は成立しないのです。
地図にまったく無縁の人々がこの世に存在すると言えば、人は疑問に思うかも知れませんね。
どんなかたちにしろ「地図のようなもの」は人間の能力に備わっているのではないか、と。
書名は忘れてしまいましたが、昔読んだ地図史の本に、壺だか洞窟だかに地図のような表現がみられたとか、地図は文字よりも古い人間の表現形式だというようなことが書いてありましたが、果してそうでしょうか。
図も絵も同じようなものだから、洞窟絵画があるなら似たような時代に地図(的絵)もあって然るべきだろうというような、「ぬるい」憶測がそこにはあるように思えます。
それが所与のものとして社会に流通している今日では、とりわけ難しい表現だとは思われないかも知れませんが、地図は結構高度な認識構造であって、文字などと同じく人類史の末期に出現した人工メディアのひとつといっていいのではないでしょうか。
むしろ、地図的認識(=地表に対する上空からの垂直視線)は、そのメディアの普及と学習の結果、後天的に備わったイメージの一形式と思われるのです。
ためしに、通常地表面を生活圏とする生き物としての私たちが、紙や布あるいは液晶画面などに再現された「地図」を持たないで移動する場合の、一般的なプロセスを思い浮かべてみましょう。
「××の店の先を右折」して、それから「2本目の角を左折して・・・」というように伝達や記憶をたどり、常に前進しつつ、そのルートのポイントごとに行動をシフトしていくのが普通ですね。
カーナビがその典型で、画面の方位は進行方向に従って変化し、音声が右だ左だとシフト点を瞬時に提示してくれますから、それに従って常に前方を見ていればよい私たちの世界像(イメージ)は一本の流れ(ルート)のように認識されます。カーナビの本質は、「面」と「一覧性」をもった地図ではなく、時間に沿って途切れなく連続する楽譜に近いのです。
地図は平面つまり二次元に描画展開していますが、それをつくり、また見る(利用する)には上から見下ろす視線を前提としています。つまり地図認識の骨格は三次元になっているのです。
それに反して、地表面に接して導かれるナビゲーションは、左に曲ろうと右しようと、それをたどって行く側の認識としては二次元ですらなく、一次元(直線)構造で済んでしまう。「地図」が常にそれを前提としている「想像の視座を空中に翔け上がらせる」必要は、まったくない。カーナビやケータイナビの要諦を地図的視点から堅苦しく言い表せば、「認識のディメンション・ダウンによる直接性」ということになるでしょう。
かつてグラフィック・デザイナーの杉浦康平さんによって試みられた一連の実験的作品がありました。「犬地図」と名付けられたそれは一部の人々の間で反響を呼びましたが、杉浦氏自身は失敗作であると語って完成まで続けることを断念されたようです。
そこで表現されていたのは、「地図」というよりも一種のルート表であって、単純化すれば一本の線のところどころに結節点を設け、臭いや音、曲折(右折、左折など)その他の情報を記載したリボン状のもので、それは「面」という広がりのなかに事物の位置関係を配置したMapではなく、むしろNavigation Graphというべきものでした。
「犬地図」は地図ではなかったのです。
犬と人間を一緒にする、と言って怒られるかもしれませんが、すくなくとも人間の狩猟採集経済社会においてはナビゲーション伝達が専らであって、地図はとくべつ必要なかったと考えていいのです。
「地図らしい地図」の発生は、領域国家の出現と軌を一にしていたことでしょう。強力な地方管理とその登記を必要とする「上からの視線」が、地図の誕生に決定的な役割を果たしたでしょう。つきつめてみれば、地図の視座は心的視座でもあったのです。領域を所有したり、統治したり、配置したり、攻め込んだり、爆撃したり・・・といった視座に縁遠い、「地図を読めない人」がいるのは当然の理でした。「とりあえず今日を生きる」身であれば、「領域世界を一覧し、策謀する」必要はどこにもないのです。
月が鏡で あったなら
恋しあなたの 面影を
夜毎うつして 見ようもの
こんな気持ちでいるわたし
ねえ 忘れちゃいやヨ 忘れないでネ
(1番。2~4番省略)
こんな唄がありました。昭和11(1936)年に大日本帝国内務省が「官能的」の理由をもって発売禁止処分とし、うたった渡辺はま子は女学校を退職した由(最上洋作詞、細田義勝作曲「忘れちゃいやよ」)。私が憶えているくらいですから、敗戦後まもなくリバイバルしたのでしょう。
一体どこが官能的なのか。戦後も1970年以降の「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」(「ひと夏の経験」作詞千家和也、作曲都倉俊一、唄山口百恵、1974年)とか、「セーラー服を脱がさないで」(作詞秋元康、作曲佐藤準、唄おニャン子クラブ、1985年)といった、唄い出しやタイトルからしてエロマンガのような唄が平然と街に流れる地点からみればまだかわいらしい、伝統的日本の「芸者歌謡」。ただの、「いい気な男の唄」なのですね。
しかし、すばらしい発想ですねえ、月が鏡とは。
もしも月の表面がつるつるした平面反射体だったとしたら、巨大望遠鏡が今日の「グルグル・アース」の代りをつとめることができたかも知れませんね。ただしその場合、「月の鏡」は「ライヴ」ですから、現在のグルグルなんとかよりよほどリアルで有効なのです。
さてとにかくも「月が鏡であったなら」、伊能忠敬あたりが苦労して日本列島の海岸線や主街道を這い回ったような「努力」は、多分必要なかったのです。
けれど仮にそうであったとしても、この歌のように「恋しい人」の顔を識別するほどに月の鏡の倍率をあげるのは、とてもできない相談だったでしょう。
初源の鏡は、やはり静止した水面でしょうね。出土した人類最古の鏡は、トルコのチャタル・ヒュユク遺跡の紀元前約6200年前の黒曜石製だといいます(『鏡の歴史』M・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳、2007)。
人は、自分の視線が届く範囲外にある自分の体を、直接目にすることはできません。つまり、自らの顔は通常は「見えないもの」だったのです。水面であれ黒曜石であれ銅であれガラスであれ、鏡という反射体を介することなしには。
同様に、人は己が住む村であれ町であれ島であれ大陸であれ地球であれ、ほんの身の回りの空間を除いては、通常自己の位置する「場」を直接視野に収めることはできないのです。
そうしてこの場合、「顔と鏡」の関係にあたる、「場所とX」のX、つまり鏡のような即自的な反射体は存在せず、ために人は憶測や確認、「天測」や「量地」等々、粒々辛苦して布や紙の上にその「場所のかたち」をしたため、それをたよりとしてきたのでした。
仮に地図というものを知らない、あるいは見たことのない人がいたとして(多分いるでしょう)、説明するに「地図とは場所を映した巨大な鏡のようなもの」であると言っても、あながち間違いではないのです。
これまでは、風や死(不在)にまつわる英詩を素材としましたが、今度は日本の昔話です。
出典は『少年少女世界文学全集』(45、日本編第1巻、1965年、講談社)のなかの「日本民話」(浜田廣介)。いま50~60歳の人々にはなつかしい書名でしょうが、そのうちの一話(pp.211-217)。
「むかしむかし、阿波の国の海ばたに大きな町がありました。町から見えるおきあいに小さな島がありました。
だれが見たのわかりませんが、空から見ると、島の形が、おかめの面に似ていました。それで世間の人たちは、小さな島を「おかめ島」とよんでいました。島のまわりを歩いても、一里ともない小さな島でありましたが、島人たちは力をあわせて漁にでて、いつもたくさんの海のさかなをとりました。さかなを大きな町に運んで金にかえ、ものにかえして、島人たちは、ゆたかなくらしをしていました。
その島に、ある日、ひとりのぼうさんが、わらじをはいてわたってきました。・・・」
そこから先のあらすじは、―――坊さんは7日後に、鎮守の社の狛犬の目が赤く染まったら、その日の夕方には島は海にしずむと、不気味な予言をして島を発っていった。島のかしらは、五十年、百年と代々言伝えを守って、毎朝社にお参りしてきた。あるあらしが吹き荒れた日、6人の男が乗った難破船が島に吹き寄せられた。島人たちの介抱によって元気になった男たちは、島に伝わるいい伝えを聞いた夜、こっそり鎮守の森にでかけ、絵具で狛犬の目を赤く塗った。その男たちは実は海賊だった。翌朝狛犬の目が赤いのを見た島のかしらは、驚いて危急を告げ、島人は夕方までに一人残らず船に乗って島を引き揚げた。たくらみがうまくいった海賊たちは酒盛りをはじめたが、そのうち海鳴りがとどろき、島は海賊たちもろとも海にのみこまれてしずんでいった―――という因果応報・勧善懲悪話です.
しかし、ここで肝心なところは、「誰が見たのかわかりませんが、空から見ると、島の形が、おかめの面に似ていました」という冒頭の部分です。
この出だしからして、むかしばなしは聴く人を「不思議」、つまり人知を超えた神秘性に引き込んでいくのです。なぜならば、飛行機も、まして人工衛星など、考えることもできなかった時代、自分たちの住んでいる地域の「かたち」を知る術(すべ)は、想像でなければ神のわざだったからです。
そのままでは見えないもの――自らの姿、を映し、それをわが目で見ることのできる道具である「鏡」は、ヨーロッパにおいても魔力をもつとされ、日本ではいまでも神社の「御神体」なのでした。しかしながら、自分たちの住む「場所のかたち」をそのままに見てとるのは、望遠「鏡」をもってしても不可能なことだったのです。
Who has seen the wind?
Neither I nor you
But when the leaves hang trembling
The wind is passing through.
Who has seen the wind?
Neither you nor I
But when the trees bow down their heads
The wind is passing by.
文部省編集『四年生の音楽』(1947)にある「風」(西條八十訳詞・草川信作曲)の原詩です。
クリスティーナの童謡集「Sing Song 」(1872) にあるこの詩を、西條が雑誌『赤い鳥』に翻訳掲載したのは大正14年(1925)。
誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木(こ)の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく
誰が風を 見たでしょう
あなたも僕も 見やしない
けれど樹立(こだち)が 頭をさげて
風は 通りすぎてゆく
心にしみる歌です。
誰が風を見たか。
風ではなく、雨の「見たか」歌もあります。
いわく、“Have you ever seen the rain? ”
Creedence Clearwater Revival の曲で 1971年にヒット。
どろくさいバンド音と歌声がなつかしいですが、ここで歌われている「雨」は、ベトナムの地に落下するナパーム弾のことでした。
ナパーム弾の前身は、かつて日本のほとんどの都市に落下した、焼夷弾。「雨を見たかい?」 日本でこの雨を見た人は、少なくなりつつあります。Creedence Clearwater Revival という一風変わったバンド名は、「清水回復教団」とでも訳すんでしょうか。当時はCCRというアクロニムでわかったような気になっていましたけれど。
When I am dead, my dearest,
Sing no sad songs for me;
Plant thou no roses at my head,
Nor shady cypress tree:
Be the green grass above me
With showers and dewdrops wet;
And if thou wilt, remember,
And if thou wilt, forget.
I shall not see the shadows,
I shall not feel the rain;
I shall not hear the nightingale
Sing on, as if in pain:
And dreaming through the twilight
That doth not rise nor set,
Haply I may remember,
And haply may forget.
これは、クリスティナ・ロセッティ Christina Rossetti(1830-1894) 、あのラファエロ前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹さんの作です。
例によって、私訳は
吾死なば いとしき人
悼(いた)み歌 うたうなかれ
薔薇の花 影差す糸杉 汝(なれ)植(う)うなかれ
吾が上には雨また滴、露けき草を
意あらば 想い出し
意なくば 忘れかし
吾影を見ず
風を覚えず
痛みある如(ごと)夜啼く鳥も 耳に覚えず
さありてまどろめる 薄明かりのなか
夜明けなく 日没なく
はた 想い出し
はた 忘れ去り
ですが、「ああ、あの歌」というくらい知られたクリスティーナ原詩の歌はまた別にあって、それをはじめて唄ったのは多分私達が小学校の四年生の時なのでした。
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.
この原作者不明の詩に、新井満さんが訳詩作曲したのが、ご存じ「千の風になって」(2003年11月発表)です。
原詩はしっかり脚韻を踏んでいるのがわかりますね。
11月1日の講演会の第1章「風-見えないもの」のなかで、以下のような私訳をご披露しました。
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 眠り居ず
吾は吹く風 千の風
煌(かが)よいはじく 雪の色
穀物(みのり)差し入る 日の光
はた やはらかな秋の雨
汝(なれ)里の朝 目覚めなば
吾はすばしきアマツバメ
音なく円く 天翔ける
吾また夜映(は)ゆ 澄める星
吾が墓に立ち 泣くなかれ
吾そこに居ず 吾死なず
ご覧のように、私の訳は七五調ですが語彙としてもそこそこ原詩に忠実、雰囲気もしっかり再現したつもりです。
「風」は、「死」と「不在」を象徴するもの、同時に「万物」:Universeの暗喩で、こうした「死」あるいは「不在」を唄うのは英詩の伝統なのではないかと思われるのです。
昨日昼過ぎに神保町に出て行ったら大変な人の渦。もちろん第50回目の神田古本まつり(10月27日から11月3日まで)で、お天気もよかったからなのですが、第19回神保町ブックフェスティバル(10月31日と11月1日)の各種イベントも目白押しだったのですね。
私の講演会は定員80人のところにおよそ100人。あの倍の広さの会場が必要だったかもしれませんね。でも、お世話になっている岩波ブックセンターと秦川堂書店の上ですから、こんな名誉なことはありません。
しかしながらいつもの伝で、1時間半の持時間に対して、2時間以上の内容を用意してしまって、3パーツのうち最後の部は飛ばしてのお話で、おいでいただいた方々には申し訳ありませんでした。飛ばした部分から、このサイトで少しずつご紹介していきたいと思っています。とりあえずは、今朝11月2日『東京新聞』朝刊の18面での紹介記事を掲載しておきます。
今朝の東京新聞の記事