萩原延壽(のぶとし)という在野の歴史家が遺した仕事に、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』(文庫本で全14冊、2008年完結)がありますが、このタイトルには、ヨーロッパから海路はるばるたどり着いた極東の島国の、連続する霞んだような青い海岸線を望見する実感がこもっています。それもただの海浜ではない。容易に異人の上陸を許さない構えの、急斜面の連なり。
文久2年(1862)9月8日、初めて横浜に来航し、後に英国駐日特命全権公使となったE・サトウについては、『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、岩波文庫、上下巻)がよく知られていますが、しかしながらこの「遠い崖」が具体的に何処を指して言ったものか、両書いずれも確たるところを示しているわけではないのです。
一方、東京帝国大学の初代地質学教授でナウマン象にその名を残すH・E・ナウマンの後任教授となったD・A・ブラウンスが、その論文「東京近傍地質篇」(1881年)で「そもそも外客の始めて横浜あるいは東京に着するにあたり、まず眼に上るものは、いわゆる沿岸の峭壁にして、その海浜よりの距離はつねに一定せずといえども、たいてい彎曲線をなして互いに連続するを見る」と述べていることを紹介し、この場合の峭壁(しょうへき)つまり崖とは「東京あるいは横浜の山の手台地が、下町低地に接する崖であ」るとしているのは、『東京の自然史』(貝塚爽平)でした。
たしかに、浦賀水道を通って横浜に接近する船のデッキから西北に視線を投ずれば、東京湾の水際に目立つのは今日では、珍しくもない高層ビルの林立姿でしょうが、当時は地形が一目で判然としたでしょう。手かざしで眺めれば東京湾奥と横浜の間、山手の台地と下町低地を画する台地東縁の崖は一本の線となって走っていた――。サトウはこれと別の場所を指してガガーリン(「地球は青かった」)並の感慨を漏らしたのかも知れませんが、以下、東京の山手と下町を画すほぼ南北の長大な崖線を、仮に「遠い崖」と呼んでみたいと思います。
永井荷風は『日和下駄』のなかで、「崖」を「坂」の前に据えて一項を立て(第九 崖)、次のように述べています。
《崖は閑地や路地と同じようにわが日和下駄の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。何故というに崖には野笹や芒に交って薊、藪枯(やぶから)しを始めありとあらゆる雑草の繁茂した間から場所によると清水が湧いたり、下水(したみず)が谷川のように潺々(せんせん)と音して流れたりしている処がある。また落掛るように斜(ななめ)に生(は)えた樹木の幹と枝と殊に根の形なぞに絵画的興趣を覚えさせることが多いからである。もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ宛然(えんぜん)堡塁(ほうるい)を望むが如き悲壮の観を示す。》
古来、ガケは文章というよりは絵画において好んで表現されてきたと思われますが、ここにあるのは近代の文章に独立してとどめられたガケ一般のイメージの典型です。
この後、荷風は次のように文をつづけます。
《上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中(うち)で最も偉大なものであろう。》
この「偉大な」ガケを確かめたいと思う向きは、JR山手線内か京浜東北線に乗って、上野から田端あるいは王子までの間、西側に走るガケ並に目を凝らすか、もしくは例えば日暮里駅北改札口を出て、下御隠殿橋なる陸橋(跨線橋)の上から線路にそってつづく垂直崖をじっくり「観賞」するか、いずれにしても移動と定点と両様の方法がありえるわけです。
タイトルに謳っておきながら、一体「江戸」はいつ出てくるの、と羊頭狗肉を疑っておられる向きもあるかもしれません。
たしかに、この「江戸の厓 東京の厓」という設定には、現在残された手掛かりから、どこまで「地形」を遡りそれを露出させられるか、というモチーフが横たわっています。
もうすこし言えば、「人間以前の場所」への憧憬。
けれども、江戸や東京はその逆遠近の眺望から、もっとも遠いところに位置しているようです。
多摩ニュータウンも、山を崩し、谷を埋め、鉄とコンクリート、アスファルトで表面をコチンコチンにしてしまったのですが、江戸の中心部は実はその初期に、今日からみてもとんでもない大規模土木工事を積み重ねていて、オリジンな地形はほとんど残されてはいないのです。
そうして、もっとも難儀なのは、江戸時代初期の、リアルタイムな地誌記録が、まったく湮滅していることなのです。
鈴木理生さんは、家康江戸入府から100年間の地誌欠落について、徳川氏による意図的な史料抹殺のためと断定しておられますが、たしかに有力な仮説でしょう。
つまり、すんなりとは受け継がれない、何か強引無道なわざを、徳川「進駐軍」は力にまかせて行った可能性がある。
だから、記録は残さない。人の書いたものまで探し出して破棄し、水も漏らさぬ情報管理を徹底した・・・と。
秀吉命下、旧姓松平は根拠地からの転封で、加増とはいえ鄙の遠地に追いやられたのだから、逆に「伝統」や「権威統制」のきかないところで、徹底して地堡を固める決心をしたものか。
鈴木さんは、鎌倉円覚寺領としての江戸前島の例を挙げて、中世以来の寺社権門利権を強奪したため、と言っておられたと思いますが、いまだ明らかならざる謎が隠されているのかも知れません。
いずれにしても、江戸・東京の記録(歴史ドキュメント)のレインジには、大きな断絶がある。
たった300年遡って、そこからはもう断崖。
先は潜るか掘るかしなければわからない。
その300年前の突端に遺された数少ない記録のひとつが、私の好きな戸田茂睡の「紫の一本(ひともと)」。
ただし永井荷風も指摘しているように、「紫の一本」にも、他の江戸の地誌類と同様、坂や窪、山や池などの項はあっても、「崖」の一文字を見出すことはできないのでした。
1992(平成4)年11月30日、新宿・紀伊國屋ホールで「国際シンポジウム・地図の世界」を主宰したことを思い出しました。
地図資料(古地図)を素材に日米英の専門家をお招きしたのでしたが、その際冒頭のスピーチをお願いしたのが井上さんでした。
鎌倉のお宅に張り付いて、朝方ひっぱってでもこなければ実現は難しいと思われたほどの超多忙な方でしたが、なんとか間に合いました。
お話は例によって軽妙で、難しい話の多いなかで、井上さんのお話は一般の聴衆の方々を引きつける役割を果たしていただけました。
彼の座右の銘というか揮毫の常句が、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」であることはよく知られていますが、その通りのお話でした。
その後も時々お付き合いはつづいていたのですが、私が自分の会社をおこした時は、1セット36万円也の『帝都地形図』や5万円ほどの『多摩地形図』をすぐさま購入。
現在まで続いている地図資料を満載の『季刊Collegio』もずっと定期購読していただいていました。
そうして何よりも励まされ、また意を得た思いをしたのは、「芳賀さんがやっていることは《有益です》」と言ってくださったことです。
まだまだ力になっていただけるはずの方を亡くしました。
4月9日、肺癌のため75歳で逝去。
惜しんで余りあります。合掌。
さて、その「有益」な本の新刊です。
奥付けは、この10日にしていますが、大好評の『川の地図辞典』の2冊目、〈多摩東部編〉を出しました。
新宿のジュンク堂書店では、さっそく立てて陳列(これを専門用語でメンチン(面陳)といいますが〉してくださっています。感謝、感謝。
新宿ジュンク堂書店8階地図コーナーの一角で
写真はシャメです。ちゃんとしたものにとりかえをと思ったのですが「店内での撮影は固くお断りします」の貼紙に気付いて、断念。
いずれにしてもありがたいことです。
どうかまた完売して、「改定版」が出せますように。
『川の地図辞典』〈江戸・東京/23区編〉のほうは3刷目、「補訂版」が発売中です。
ガケは、通常「崖」と書くでしょうが、字義からいえばとくに山地でもないかぎり、また江戸・東京という都市部を扱うからには「厓」としたいのです。中国文字を吟味するには今時流行の白川静先生の説を参照しないと手抜きということなのでしょうが、「厓」くらいはパスしてよいでしょう。白川流の無理やりシャーマニズム(呪術)や奴隷制という、人間の脳内作用投影の必要もないのです。
で、話は突然動物の世界に飛ぶのですが、漢字では「とり」を表わすに二種類の基本型があり、ひとつはもちろん「鳥」、そしてもうひとつは「隹」つまり部首の「フルトリ」で、前者の代表はニワトリの類、対して「隹」は尾の短い小鳥をあらわす、というのが一般的な説明でした。
森鷗外の小説のタイトルでもある「雁」は、しかし鳥でなく隹。野生のそれを実際にご覧になった方は多くないかもしれませんが、江戸の田圃や水辺ではよく見られた冬鳥で、結構大型の鳥です。今日東京周辺では決して見かけることができない。
ウミウかカワウが飛んでいるのをカン違いしたらしく、近時東京でも雁行を見たと仰った先生がおられましたが、それはあり得ない。編隊飛行はガン類に典型的ではあるけれども、ガンだけの特性でもなく、またガン類は鵜などとは異なり、植物性の餌であの結構大きい体躯を維持しなければならないので、今日の東京とその周辺を住処とすることは不可能でした。
人間自身の水ないし飲み水を考えてみても、「都市」ないしそこに住む私たちは、それほどまでに「遠くに来てしまった」のです。
さてしかし、この鳥にはなぜだか「厂」(雁垂・ガンダレ)が付いている。けれどもガケの鳥というわけではない。「ガケの鳥」は別にいて、それはブログでも書いたようにウミウとイワツバメが代表選手です。
雁にどうしてガケが関係するかというと、「雁行」するからなのですね。昔、文部省唱歌「雁がわたる」で歌ったように、「カギになる」すなわち雁列が直角になるから「雁」だというのです。ガケ鳥というよりは、直角鳥なのでした。
ということは、「厂」はガケの形象から発して直角をもあらわす。逆に言えば「厂」は垂直崖=断崖である、ということにほかなりません。
今日垂直崖ないしそれに近い崖を目にしえる場所としてはやはり海岸が手っ取り早い。地形学的には海食崖(かいしょくがい)ということになる。それは海波によって、常に下部から侵食作用を受けているからなのですね。
逆に陸部のガケは風水によって角度がどんどん緩斜面にされてゆくから、ガケというよりはサカになる。坂と崖は出自を同じくする兄弟なのでした。
海食崖はまた、「地の涯(はて)」や「生涯」という場合の「涯」で、すなわち「みぎわ」の意。地平線の最後、陸世界の最終地点、人生の最期は、ガケだったのです。
ところで、「雁」の形を一部にもつ文字の鳥(面倒な言い方ですが)に、「鷹」があります。ただしこちらは「ガンダレ」ではなくて「マダレ」。「麻」つまりマという「部首」には、ガケの上に点がついている。ガケ上の小さなお家なのです。
マダレは建物を表わす文字をつくるようですが、「鷹」はどうしてマダレのガンで、しかもトリ付きなのか。
実証抜きで言わせてもらえば、それはガン・カモ類を捕獲するための、つまり鷹狩の鷹を表わしているのであって、その場合の鷹は鳥小屋に飼われている鳥なのです。
だから「鷹」という文字になる。「目をつむりいても吾を統(す)ぶ五月の鷹」(寺山修司)の鷹は、鷹匠(たかじょう)に言わせれば「吾が統(す)ぶ」なのでした。
ガン類は明治以降の埋立てによって食と住の環境を奪われ、さらに旺盛な狩猟のため個体数を激減させ、東京周辺ではその飛行列さえみることができなくなりました。
今日例えば関東では茨城県あたりまで出向かないことには、文部省唱歌を確認することは不可能です。
そうして東京にあって、垂直なガケはほとんど人工のそれであって、自然のガケを目にすることは大変難しいことなのです。
生物の営為は、地形環境に依拠しながら、逆にその地形をもつくりだす。
サンゴ礁のリーフは今日もっとも可視的な例だし、そもそもセメントの材料となる石灰岩はサンゴの死骸である。
人間様はさらにその石灰石を砕いて、地球のいたるところにおできのようなセメントコロニーをつくりだしている。
原野のところどころに出現する「アリ塚」もまた、ヒトの手になる「都市」と同様、生物がつくりだした「地形」のひとつである。
地形ではないが、鉄鉱石というものも、生物による光合成が開始されていなければ、生成不能だった。
それほどに、生物作用は地表に大きな結果をもたらしている。
無期質の「自然」は生物を生み、生物は「自然」をつくりだす。
そうして、ガケというのも、「自然」がつくりだすだけのものではない。
傾斜角30度以上、高さ2m以上という建築基準法施行条例の規定をあてはめれば、「切通し」は即ガケである。
有名な「鎌倉七口」のうち四口までは切通(きりどおし)で、残りは坂である。
サカは巨福路坂(こぶくろざか)・亀ケ谷坂(かめがやつざか)そして仮粧坂(けわいざか)。
切通は名越切通(なごえきりどおし)・朝夷奈切通(あさひなきりどおし)・大仏切通(だいぶつきりどおし)そして極楽寺切通(ごくらくじきりどおし)。
そうして、その三口の坂も、結局は切通し地形なのだ。
鎌倉のような切通しは、江戸にも多かった。
ただし鎌倉になかったのは、御茶ノ水のガケのような、開鑿水路のガケである。
書評その1とその2を弄(いじ)っていたら自爆。
コメントいただいたAki様には大変申し訳ございません。
日本国際地図学会のMLには「その1」をお送りしておいたので、そちらにはまだ生存していると思いますが、書評はまあ余当方の自慢になることではないので、厓追跡に戻ることにします。
上野の花と厓が途中でした。
2、3日上野周辺を歩いてきます。
4月4日 《『川の地図辞典』多摩東部編出版記念んウォーク》
今日はありがとうございました。
ちょっと肌寒く天候も危ぶまれるなか、沢山の方々に、4時間半もお付き合いいただきました。
日立中央研究所はもうお祭りの屋台状態でしたね。
どうしてあんな施設を1年に1・2回しか開放しないんでしょうね。
もったいつけて、結局囲い込んでいるだけだということが、よくわかったのですが。
で、なかには高崎から来られた向きもいて、ところがその方は都立武蔵国分寺公園のデザイン張本人だったりして、どうして保育園の北側に結構大きい礫石が投げ込んであるのかということはようやく理解したわけです。
つまり、それは公園全体の雨水集合施設なのだということ(津久井さん、これでいいですか?)でした。
こういうことは、何の説明もないから、人を得ないとどうにもならない。
今日はそれぞれ一家言ある方がお集りで、こんな素敵な日はめったにありません。
三次会までご一緒いただいた皆様、どうかご無事で。
1月1日は元旦。
3月3日はお雛様。
5月5日は端午の節句。
7月7日は七夕。
9月9日は重陽(ちょうよう)で「菊の日」。
1月1日は重要過ぎて五節句には含まれない。
1月7日人日(じんじつ)七種(ななくさ)をもってそのひとつとする。
同じぞろ目でも偶数は節句にはならないということ。
偶数は「陰陽」で言えば「陰」で、しかも「割れる」のでよくない、というのが一般俗説。
例えば、6月6日は雨ザアザア、でオーメンの日(6月6日朝6時に生れた悪魔の子)。
2月2日は?6月6日は?8月8日は?さておいて。
10月10日は双十節で、中国では国慶節にあたる。辛亥革命の記念日だから台湾でも大陸でも祝日。
実は6月6日も結構よい日で、宮中の故事をひいて「お菓子の日」とすべき、という意見もあるほど。
12月12日はもういいから、問題は4月4日。
次の日曜日。
この日は国分寺恋ヶ窪の日立中央研究所2010年春の庭園開放日にあたる。
で、『川の地図辞典』多摩東部編の出版記念ウォークをやろうという、実に慶賀すべき日。
多分申込先着十数名様にはこの日特別早くつくってもらった本が行きわたります。
奥付は4月10日だけれど、4月8日には多分出来ている。
で、今度の4月4日だけれど、多分雨にはならない。
四(si))の四は、「回生」なのです。
でも気温は谷間のようだし、国分寺は都心より幾分か寒いから、いらっしゃる方は十分お気をつけて。
寒い雨の日がつづいても、東京の桜は開花目前。
花と言えば、江戸の昔から「上野」。
いや、江戸は基本的に「田園都市」だったから、多分どこでも花を目にすることはできたのだろうが、やはり「上野か浅草か」。芭蕉様のこの句の上(かみ)は「花の雲 鐘は―」で「上野」へつづく。
それにしても、貧富貴賎を問わず花を愛でるには、つまり経済的社会的「身分差」を無化し、天を倶(とも)に戴いて生の一時を受容するには、生死をつかさどり、平等な死を配布する「神」や「仏」の領域が必要なのでした。
一部の宗教的場所と行楽地が見分けつかなくなるのは、身分制社会にあって当然のなりゆき。
とはいうものの、江戸時代=近世社会は前(プレ)近代社会。ゼニがモノいう世の中にほかならず、門前町や境内地が賑わい場所となるのは、それ相応の理由がある。神も仏も、現生の老若男女からゼニを集めたい。寺銭(テラセン)という言葉の所以。
話をもとに戻して、上野とは元来「崖」上の台地の意。
で、無理やり花と崖とを結び付けたいが、そもそも崖の花とは、なんだろうと考えてしまう。
植物を差し置いて、崖の動物となるとまっさきに挙げるべきはイワツバメ、そしてウミウ。営巣は断崖絶壁の中腹で行われる。天敵のヘビも近づけない。崖鳥(がけどり)である。台湾には「ツバメ崖」という名所さえある(嘉義県瑞里村。蝙蝠洞もある。ただし両者とも現在は主不在)。
哺乳類では、蝙蝠が崖に親しい。なんといっても洞穴を塒(ねぐら)とするから、断崖にできたそれは格好の住まいである。
時として狐や猫も崖をたよりにする場合がある。
落語などでおなじみの「王子の狐」のお宅を訪ねたら、神社(王子稲荷。昔は「岸稲荷」と称した)裏に設けられた急な石段を上った崖の穴であった。
最近言われる崖猫とは(がけねこ。誰も言わないか)、住宅地付近の急斜面を上り下りする猫で、怖くて途中から下りられなくなった猫のことではない。
山腹を四足で移動する哺乳類となると、鵯(ひよどり)越えの義経理論ではシカだが、この場合のシカは奈良にいるような日本ジカではなくて、同じ偶蹄類でもカモシカということになる。トカゲやナキウサギならまだしも、地下足袋や日本足袋のように割れた小さな足で、よくまあ崖面を走れるものだと思う。
そうして、多分江戸も海沿いの崖地下が人家で埋まる以前は、ウミウもイワツバメも、例えば田端や上野の海食崖に営巣していた、という可能性はゼロではないと思っています。そう、それは例えば縄文中期、6000年ほど以前の話か・・・
崖というのは本来崩壊地形だから、植物は定着しにくい。しかし、断崖の崩落が一段落して斜面となると、実生が着床して緑被され、宅地開発から免れて植生を残し、都市の海に浮かぶ「緑の帯」となる。
崖の植生は、その向きによってまったく異なる。つまり斜面が日陰か日向か。
ランの栽培種名に「垂崖」というものがあるらしい。これが元来崖地に生えていたものかどうか知らないが、どうも花の形が崖から垂れ下がるイメージということらしい。いずれにしても、ランは日陰を好む植物のように思われる。