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「一国の首都」

知人に示唆されて、あらためて幸田露伴の高名な文章にひととおり目を通してみた。
岩波文庫『一国の首都』のタイトルには、「他一篇」と付けたりがあって、その短い一篇は「水の東京」なのだが、そちらは必要があってすでに馴染みの文章であった。
しかし、メインの「一国の首都」を通読するようには、食指が動かなかった。

明治32年11月、一気呵成に書かれたといわれるが、現代人にとっては見慣れぬ漢語をちりばめ、見出しや章区切りもない、11万字余りのその文は、気軽に読み下せるものではない。

そうしてまた、劈頭の一文からして、その後を目で追う気を失わしめるのである。
曰く、「一国の首都は譬(たと)へば一人の頭部のごとし」と。

確かに「首都」というタームからしてみればそうだろう。
しかし、これは明らかにcapital cityの翻訳語であって、その本意は「首都」ではなく、「主都市」なのだ。
ひとつの国家を前提とし、その政治の府たる場を人体の頭部に比喩するのは、きわめて凡庸な「アジア的」スタイルである、としか言いようがない。

岩波文庫の巻末には中野三敏が注し、大岡信が解説を書いているが、それによると、書誌学者にして明治文学研究で知られる柳田泉はその著『幸田露伴』(昭和17年)のなかで、「一国の首都」は「曠世の奇文」であり、「この一文だけでも露伴の名は永久に伝はることが出来たらう」と絶賛している由。
大岡もつづけて、この文に「何らかの意味で匹敵しうるだけの包括的で懇切丁寧な東京論を書き得た人が他にいただろうか」と問い、「一人もいない」と結論づけている。
果してそうか。

3・11以降の事態は、従来の都市論や首都論がまったく説きおよばなかった異貌の東京の姿を露出させた。
そうして、実はその異貌の東京は、明治30年の3月に、足尾銅山鉱毒被害地の住民2000人が徒歩東京を目指し、警察の阻止線を突破した800人が日比谷に集結した時にも、また水俣病患者の代表らが上京した昭和44年4月にも、厳然として存在していたのである。

幸田露伴の「一国の首都」の後半35ページ、つまり全体の30パーセントあまりが、都市における「娼家制度論」となっていて、露伴の「博識」のほとんどはここに表れているのであって、まっとうな都市論としてはすでにバランスを失している。
その情熱、その博識、その文章力において、多分露伴は何人をも寄せ付けない、ぬきんでた才をもった人物であったろう。
しかし、その人物や才能と、そこから生み出された作品とは区別されなければならない。

今日この「都市論」は、及びもつかないと仰ぎ見られるのではなく、その内実に沿って、批判的に読まれるべきである。
そうして、この文章から今日くみ取るべきものがあるとすれば、例えば、駅前に簇生せる簡易賭博場(パチンコ、スロットの類)や簡易買売春店舗(テレクラの類)、そしてサラ金事務所とそれらの看板を一掃できないのは、すでに政治と民心が江戸後半あるいは末期の様相を呈しているからである、という読み換えが可能だという点にあるだろう。

東京は、そして「首都圏」は、ストロンチウムを持ち出すまでもなく、いまたしかに、末期の姿を呈しているのである。

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「地方という鏡」

「地方出版の雄」のひとつに数えられた福岡の葦書房から、その本が出たのは1980年の11月だから、30年以上昔のことになる。
上に掲げたタイトルをもった書物のことだ。
気になって、ずいぶん探して書函の底から引張り出し、再読してみた。
著者は、その18年後に同書肆から『逝きし世の面影』を上梓し、和辻哲郎文化賞を受賞することになる渡辺京二氏である。

3・11を契機に赤裸々に露出した、日本における[首都/地方]のグロテスクな図式を、どのようにこの伝説的著者は「解」したのだったか、それを確かめたかったのである。

氏の、「都と田舎の関係」についての予言はこうであった。
「東京対地方という問題の立てかたの根拠は、進展する全国的な都市化の波、劃一的均質化の動向によって、遠からず消滅するだろう」と。
もちろんこれは、都市化の波を危惧し、「地方の復権」を異口同音に求める「地方文化人」のなかにあって、反語的に主張された論であった。

しかし、「突出した首都」という、「古代的」あるいは「アジア的」な構図は、すくなくとも「遠からず消滅する」ことはなく、むしろ「首都の懸絶した大きさ」は、今日の世界的現象として指摘される。
あるいは、1%と99%のうち99%の半数以上が、首都に吸い上げられ、漂わざるを得ないのが現況であると言い換えてもよい。

氏の立論が、「地方文化人」たちの俗論に対する反動の域を出なかったのは明らかである。
「田舎」がいかに「電化」あるいは「情報化」され、コンビニが遍在し、ゴミ回収車がくまなく集落をまわるようになり、風景が均質化されたとしても、それが「都と田舎」の平準化を結果したわけではない。

なぜならば、人間そのものの「能力」序列において、その頂点から首都に回収され、国家に序列化される社会的価値のヒエラルキーはむしろ高次化したからである。
「価値」は、一極から垂れ流される。
それは、現代社会の「グローバル」な結合と、高度複雑化によって、必然的に巨大化する国家官僚システムと世界資本の運動にパラレルな現象である。

かつて「都市論」や「国家論」がジャーナリズムをにぎわせた時代があった。
羽仁五郎の『都市の論理』という書物はそのひとつであったが、今日それを顧みる者は誰もいない。
対して、増田四郎の『都市』は、なお味読に値する名著と思われる。
ただし両著の論旨は、ギリシャ-ヨーロッパ史の一定時期、都市は国家に包摂されず、分立、拮抗しており、制度としての商人・職人のギルドも、社会の分節として実効されていて、その「記憶」こそ「民主主義」の、実際上の淵源であった、という点で一致していた。
しかし、その規範としたヨーロッパ史自体が、歴史的思想的相対化を避けえない領域に、人類は踏みこんでしまったのである。

あるいはこう言い換えてもよい。
生物としての人間存在(人口)と、その空間的結合度の規模が、「民主主義」で解決できるほどのスケールを超えてしまったと。
つまり「現代世界」の、すくなくとも政治経済の一側面は、分節した「地域」と「社会」を備えたヨーロッパ式結合ではなく、国家官僚がすべてを統制する「古代アジア的形式」にかぎりなく近接するのである。
これを、「中国の世界化」あるいは「世界の中国化」と言えば、口が過ぎるだろうか。
「地方」の「都市化」とは、そのような世界的変容の末端現象であった。
渡辺京二氏の、30年前の楽観論の破綻の先に見えてきたのは、今日の「世界」の、すくむような立ち位置そのものである。

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そのときは そのとき

都心部の高級賃貸マンション、その多くは「外人」が利用していたのだが、その価格が半値ちかくにまで下がっているという。
六本木ヒルズの「外資系」オフィスも、実質ガラ空きという話もある。

「風評」とは、流言蜚語ではない。
株価同様、市場原理のひとつである。
そのかぎりにおいて、風評はモノの価値あるいはそれがおかれた実態を正しく指し示す。

「岡目八目」ということは常にある。
天津や大同あたりで原発事故が起きたら、北京在留の日本人の多くはさっさと引き上げるか、上海に拠点を移しただろう。
危機は、傍目にこそ明白に、あるいは的確に映るのである。
日本人の多くは、職場や学校の関係上、そう容易くは動けない。
だから、「現状」に合わせるように、希望的に、将来を「観望」するのだ。

そうして、多くの日本人の、とりわけ働き盛りの男性が口にするのは、表題のような「そのときは そのとき」という科白である。

しかし、「そのとき」どうするというのだろう。
多分何も出来ない。
自分の頭で考えることを放棄した人間に、自分の次なる行為を選択する余地はないからだ。

政府や行政、消防や警察の勧告や指示に従って、黙々と行動するしかないのだ。
それすら機能しなくなったときは、パニックに陥って、やみくもに遠くに移動しようとするだろうか。

ここに2冊の本がある。
佐々木孝著『原発禍を生きる』(論創社、2011年8月20日刊)。
鐸木能光(たくきよしみつ)著『裸のフクシマ』(講談社、2011年10月15日刊)。

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世代は異なるものの(前者は1939年生まれのスペイン思想史家。一方は1955年生まれの作家)、著者はともに上智大学出身。
そうして、ともに「東京」のために引き起こされた、史上最悪の人災下に今なお住み続けている人々のひとりである。

その「地域」からの言葉は鮮やかであり、重く、飄逸ですらある。
とりわけ佐々木氏の著書の65ページに記載された、以下のような「実話」は、人間の究極の「尊厳」というものを示しているように思う。
珠玉の一節である。

「時おりあのおばあさんの姿が目の前にちらつく。双葉町だったか、10キロ圏内ながら迎えに行った役場の人に向かって避難することを丁重に断って家の中に消えたあのおばあさんである。その後あのおばあさんはどうなったかは知らない。しかし毅然とした彼女の態度が、胸に深く刻まれたままである。
確かにあのとき、家の中には病人のおじいちゃんがいたのではなかったか。「私は自分の意思でここに留まります」といった意味の老婆の言葉に、困惑した迎え人がつぶやく、「そういう問題じゃないんだけどな!」
いやいや、そういう問題なんですよ。君の受けた教育、君のこれまでの経験からは、おばあちゃんの言葉は理解できるはずもない。ここには、個人と国家の究極の、ぎりぎりの関係、換言すれば個人の自由に国家はどこまで干渉できるか、という究極の問題が露出している。」

そうしてこの場合、「国家」とは「地域」に、「迷惑施設」を強制した挙句、文字通り未曾有の災害を引き起こし、人を「根こぎ」に追い立ててなお平然を装う下手人本人にほかならないのだ。
われわれ一人ひとりが、圧倒的な物理力と強制力をもつ「国家」を相手に、なお尊厳を失わないとすれば、それはどのようなことなのか、われわれがどのような時代に生きているのか、この文章は指し示しているように思われる。

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杞 憂

数年以上前から、9月も半ばを過ぎるときまって体調がくずれ、咽喉の痛みと微熱に悩まされてきた。
けれども今年は少し様相が異なる。
3月半ばから鼻の奥に異物感があって、オカしいと思っていたら咽喉に来て、9月には咳となった。
今、朝夕がつらい。
喘息とはこういうことを言うのか、と思わされる。

ちょっとの寒さがひびくので、外出には毛糸のキャップとマスク、マフラーが必需品となった。
いろいろ探して、ネットで肩蒲団なるものを見つけた。
不格好だが、家では昼間も着けている。
手首、足首も何か巻くものが欲しい。

医者に行ったらレントゲンを撮られて、専門医に紹介されたが、専門医もとくに異常は見出せないという。
アレルギーの薬を処方された。
しかし、薬は一向に効かず、現実に、とりわけ朝夕は苦しい。

あきらかに体の免疫力が低下している。
内外の被曝の影響は、個人によって千差万別である。
東電原発立地エリアでなくとも、東日本に住まいしている以上、何人もその発症の可能性について、一笑に付すことはできない。

還暦も過ぎたほどの人間は、多少の被曝は仕様がない、問題は子どもたちだ、というのは「正論」である。
しかし、「被曝する」ということは、身体的にも精神的にも「苦しむ」ことにほかならない、というのは、この喘息でよくわかった。
だから、むしろ「正論」は、何人といえども、できるだけ被曝を避けるに越したことはない、ということになる。

災厄咽喉元を過ぎ、「冷温停止」などという言葉になんとなく日常に返ってしまった「東京」だが、「最悪の事態」の可能性はまったくそのままである。
「保安院」も、最近こっそりシミュレート発表した「4号機の倒壊」の可能性である。
使用済核燃料1535本が、原子炉建屋の5階にプールの水に浸けられて、四六時中熱交換器で「冷却」されているけれど、この建屋自体が傾いている。
いま、世界中の「専門家」がもっとも注視しているのはこの4号機で、なんらかの「事象」が発生すれば、首都圏などひとたまりもない。

日本の大本営は「勝利」や「神風」、「転進」などという幻影をふりまいた挙句、都市部の徹底空爆・原爆攻撃をゆるし、最後には降伏するほかなかった。
今回もまた同じく、危機がまったく過ぎ去ってはいないのに、「復興」幻想をふりまきつつある。
現実に存在する危機の可能性を「杞憂」とは言わない。
それを無視したり、軽視したりするのでなく、正面から受けとめ、説明し、対処するのが「おとな」だろう。
聞きたくない、見たくない「現実」に耳目を逸らさないのも「おとな」だろう。
「日本人」は、子どもばかりか?

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ゆるい崖

(承前)
坂は、本源的に「ゆるい崖」、ないし人の手によって「ゆるくされた崖」なのである。
「無縁坂」(さだまさし、1975)などという、「坂」一般にまつわる日本的情緒を取り払ってしまえば、それは容易に近づきがたい異界であった。
ゆるゆるな情緒の背後にある異貌の世界に架橋しない、凡百の「坂の本」もまた、ただの与太話にすぎない。


渋谷道玄坂は古い坂である。
東海道脇道の矢倉沢往還、大山街道に数ある坂のひとつ。難所でもある。
傾斜角4度ほどの現在のような坂であれば、難所などにはならない。
道玄坂の説明標柱や碑が、渋谷マークシティ道玄坂口の道沿いにあるが、坂そのものの変容について触れているものはない。

「道玄坂へあがって行くと、坂がいわばおでこの額のように高くなっているあたりの左の方に狭い横町があって、それへと曲って、与謝野君の家に達するのであった。」
馬場孤蝶(『明治の東京』)が書き残していた、明治は35年頃の道玄坂の景である。

この当時の道玄坂の傾斜角度は、最低10度はあったと思われる。「おでこの額」のような急傾斜道こそが「道玄坂」なのである。
いまの、だらだら坂全体が道玄坂なのではない。

道玄坂のかつての姿、つまり「おでこの額」を見てみたいと思う向きは、ひとつは、渋谷109の裏手の「道玄坂小路」の「麗郷」という、昭和30年からある台湾料理のお店を目指せばよい。お店に向かって左手の駐車場へ向かう坂、およびその脇の階段(歩道)道がある。その傾斜は優に10度を超える。
もうひとつは、渋谷マークシティの南(道玄坂一丁目11・13)に沿った急坂。傾斜は二段構えになっているが、角度はこちらも10度はある。
この二つの急坂は、道玄坂を南北にはさんだ位置にあって、旧傾斜をある程度保存している。
それは、現在の1:10000地形図「渋谷」の等高線にもあきらかである。

道玄坂1-11-8 「魚がし 福ちゃん 2号店」 前の坂の傾斜はただものではない
道玄坂1-11-8 「魚がし 福ちゃん 2号店」 前の坂の傾斜はただものではない

つまり、メインストリートは拡幅され、掘り下げられるけれども、それに併行する脇道ないし裏道は、存外に手付かずなのである。
どちらかといえば、人ごみのないマークシティ南沿いの道のほうが、道玄坂の旧景をしのぶには適切である。

もし、現在の掘り下げられた道の構造を見ようとすれば、メインストリートの真中に立って左右の枝道ないしはビルの奥を見ればよい。そこがどのように掘削され、自分が樋(とい)の底のようなところに立っているかがわかるだろう。
道玄坂二丁目16番地の「幸楽苑」(ラーメン店)道玄坂店の裏手が3メートルほどの崖になっていて、東京都の急傾斜地崩壊危険個所、つまり崖地に指定されているけれど、この崖は「人工崖」以外ではありえない。

崖の形成要因には①変動崖、②侵食崖、③人工崖の3つがあって、①②いずれの可能性もありえないこの場では、すなわち人間が地面を開削してつくりあげた崖にほかならないからである。
この崖は、道玄坂の拡幅と傾斜緩和掘削工事を受けて出現した急傾斜土壁のひとつにすぎないのである。


こうした、近年の「人為の結果」しか知らない向きが、「地区の大部分を緩やかな傾斜地が占め、概ね東の渋谷川方向に下る傾向がある」(Wikipedia「道玄坂」)などというネット情報をうのみにして、それがまた拡散していく、という状態は嗤うべきであろう。

そういえば、道玄坂二丁目10番地にある、マークシティ道玄坂口の石碑のうち、「樋口清之」の署名と押印まである「渋谷道玄坂」の碑も、嗤うべき迷文である。

渋谷マークシティ道玄坂口への入口にある石碑のひとつ
渋谷マークシティ道玄坂口への入口にある石碑のひとつ

「渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。 それでこの坂を道玄坂というといわれている。 江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。
やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介、 柳田国男がここを通って通学したが、 坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことであろう。」

樋口「梅干」先生、第一高等学校および東大(教養学部)が駒場にあるのは、昭和10年以降のことであるのを知ってか知らずか。
駒場はそれまでは農科大学校で、今の東大農学部。柳田や芥川の高等学校時代は明治の30年代や40年代。まして彼らは農学を専攻していたわけではない。
柳田が砧村(今の成城)に居を移す前は市ヶ谷加賀町に自宅があったし、芥川が自殺するまで住んだ田端の家の前にいたのはいまの新宿二丁目のあたりで、それ以前は両国。

ウィキペディアでなくとも、ネットを検索すれば、「梅干文」をうのみにして、道玄坂と柳田や芥川を結びつけた、垂れ流し情報はすぐに、いくらでもみつかるだろう。
『梅干と日本刀』という、「日本くすぐり」の与太話は、「累計120万部のベストセラー」だという。

独立した取材に基づくことなく、「記者クラブ制」に依存した大本営発表や、タレント教授の空辞を垂れ流して誤謬に導く、列島上の巨大な「相互依存」の破綻が、石碑にまでみつかるのだ。

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フィールド・スタディ文庫

《宅地》や《地盤》に関心が集まる今、注目のシリーズ、フィールド・スタディ文庫が6冊になりました。『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』と『川の地図辞典 多摩東部編』の2冊の定評あるロング・ベストセラーを含むシリーズです。

→出版案内はこちら

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1 『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』
2 『江戸・東京地形学散歩 災害史と防災の視点から』
3 『風土紀行 地域の特性と地形環境の変化を探る』
4 『地盤災害 地質学者の覚書』
5 『川の地図辞典 多摩東部編』
6 『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』

震災直後から話題となっている明治初期の古地図と、現在の地図がすぐ対比でき、土地の過去が手に取るようにわかる、次の2冊はお奨め。定評ある、ロング・ベストセラーです。

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~『川の地図辞典  江戸・東京/23区編』の例~
●現代の渋谷と明治初期の渋谷を比較。
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●明治初期図に色ぬりをしてみましょう。田んぼは黄色、川筋や用水
を青、水車をピンク、主要街道をオレンジ、雑木林を緑で着色してみ
ると、都市化以前の渋谷がうかびあがります(本書そのものはモノク
ロ印刷です)。
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●川の辞典項目も充実。
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水元公園

東京の東北端、埼玉県三郷市と千葉県松戸市に境を接する水元公園は、江戸時代の小合溜井(こあいだめ)という灌漑用の遊水池をひきついだもの。
けれどもそもそもは、古利根川の旧流路の蛇行跡。
だから、雨量次第では昔の河川が復活する。
64年前のカスリーン台風時における、桜堤決壊はその一例。

この一帯には明治以降も、アシやガマ、マコモが繁茂し、季節がくればアサザの黄色い小さな花が咲いた。
ヨシキリも行々子(ギョギョシ)と鳴き、澪筋(みおすじ)を和船が通る、水郷風景がつづいていた。
行々子どこが葛西の行留り(一茶)。

戦前の水元緑地は170ヘクタールはあったのだが、昭和40年に開園したこの公園の面積はその半分ほどになっていた。
それでも23区中最大の面積をほこる。
そこに行くには、金町駅北口から京成バスを利用する。

水元公園の西の一画。対岸は三郷市
水元公園の西の一画。対岸は三郷市

しかし、この満々と湛えられた水も、現在は電気仕掛けである。
西につながっていた大場川から、ポンプアップした水を循環させて、水質を維持しているという。
電気が来なくなれば、ヘドロの水溜りと化す。
広尾の有栖川記念公園の池も、吉祥寺の井の頭公園の池も、都内ほとんどの公園の池は同然である。

自然の湧水池といえるようなものは、明治神宮の清正井くらいだろう。
なんといっても、あの周域は人工のサンクチュアリ森林に涵養されているから。

水のある風景まで、電気仕掛けにしてしまった「近代」は、いま末期(まつご)の姿をあらわしつつある。

以下は公園内の数値だが、実はそこに向かう途中、水元公園入口バス停付近側溝口では0.52μSV、水元中学校正門前の植込み表土は0.55μSv。
5ヶ月ほど過ぎてなお、きわめて高い数値が計測された(いずれも2011年8月4日午後)。

2011年8月4日午後、水元公園の刈草の上の数値
2011年8月4日午後、水元公園の刈草の上の数値
空中線量はそれほど高くない。やはり3月時点での降下放射性物質の遺留が影響している
空中線量はそれほど高くない。やはり3月時点での降下放射性物質の遺留が影響している

「近代」は、都市域を肥大化させ、「卑湿の地」を剥奪し、あらゆるものを電気仕掛にして止まない。
その挙句が、かくなる結果をもたらした。

「除染」の究極は、都市そのものを地下化したり宇宙船化することになるが、それは結局不可能である。
「地域」にとっては、「近代」そのものが、巨大な災害の時代にほかならないのである。

脱原発ではない。
脱(巨大)電力、脱(巨大)流通・移動こそが、今世紀の人類の着地点である。

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猿の惑星

国際放送Russia today映像報道。
福島で放射性物質計測中のグリーンピース。
「チェルノブイリの3-4倍のとんでもない量の汚染だが日本政府は市民を避難させない。ソ連でさえした。まるで別の惑星に来たようだ。」
http://t.co/PfFB8Eh

惑星といえば、ピエール・ブール原作の『猿の惑星』はハリウッド映画化されて、それも次々に続編がつくられた。
アタッタのだ。
いまハヤカワ・ノヴェルズで読める翻訳のあとがきによると、原著はPierre Boulle:La planete des singes,Ed. Julliard,1963.となっている。

ブールは1912年アヴィニョン生まれのフランス人。
理学博士であり電気技師でもあって、マレーシアでゴムのプランテーションにかかわり、第二次大戦中は自由フランス軍に加わりインドシナや中国各地を転戦したが、日本軍の捕虜となった。
イギリス軍の援助で脱走、抗戦をつづけ、戦後はパリに戻り文筆を主とした。
1994年死去。
代表作は『猿の惑星』と『戦場にかける橋』である。

その履歴に照らしてみれば、「猿の惑星」という発想のヒントは日本軍の捕囚となった経験であることが了解できる。
猿が馬に乗って、三八式鉄砲をもってやってくる、というわけだ。
チンパンジーも、オランウータンも、ゴリラもいる。
もちろん、会話が成立する理性的なチンパンジーで、最後は脱走を助ける者もいる。

「猿の惑星」の一場面
「猿の惑星」の一場面

今回の「事象」に照らして世界的な視座からみれば、原発を多少いじることはできても制御できず、事故に対する認識も欠落し、その対処もできない、猿たちが列島惑星にひしめいている、ということになろう。
ことはそれだけに終らずに、その列島から膨大な量の放射性物質を、空中に、海水に拡散させて、なおつづけているわけだから、現行犯猿なのだ。
よく野放しされているものだ。

この猿の頭目は、通常は官僚と言い慣わされている高級国家公務員ゴリラたちだ。
彼らはほとんど終身ゴリラである。
つまり失職しない。
選挙でまがりなりにも民意を体して浮沈のある政治家たちとは決定的に異なる。
その政治家たちが、専門知と情報、実質権力をもったゴリラを統御することはまず不可能だ。
ゴリラたちは、自分の都合のよいように情報を操作し、隠蔽する術に長(た)けている。

ここにおいて、日本の民主主義とは、変わりばえのしない政治家を低い投票率で選ぶ名目上の民主主義にすぎず、実際は中国などとかわらない、マンダリン(高級国家官僚)統治であることが判明する。
マンダリンが責任を問われることはめったにない。
原発事故の最終的な責任は、実は彼らにあるのに、である。

何度も言うが、カンリョー・ゴリラやトーデン・オランウータンたちは、江戸時代なら即縛に就き、獄門、さらし首である。
責任不在の、この一点において、現代日本の政治システムは決定的に誤っている。
責を問われるべきだ。

ただちに裁判にかけられるべきだ。
7万人が家や農地、仕事を奪われてさまよい、自殺者がつづき、何十万人が命と遺伝子を傷つけられ、次世代以降まで影響をおよぼしつつあるのに、彼らが老後をまっとうすることなど、あってはならないのだ。
不正義どころか、犯罪である。
犯罪が放置されるとすれば、放置した者の責も免れない。

そうして、政治システムにおいて、この列島に「民主主義」が存在するとすれば、結局はすべてを握る高級国家公務員が、選挙の洗礼をうけ、失職させられるシステムが確立し、ゴリラやオランウータンを一掃してからの話なのである。

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除染奪衣列島

日本列島の放射性物質汚染に乗じて、悪質な「除染企画」が蠢動している。

たとえば線量の高い、葛飾区の「都立水元公園」。
広大な水と緑にめぐまれたこの場所から、除染名目で草木を一掃し、コンクリートとアスファルト、人工芝の「運動公園」化してしまうとしたら、屋上屋を重ねる愚行というものだろう。

まずは局地的気候変動がおこる。
熱帯夜と集中豪雨が倍加する。
そうして、クーラーの稼働時間が延長され、その排熱もますます耐えられないものになる。

23区中最大規模の面積をほこる「水元公園」の入口付近
23区中最大規模の面積をほこる「水元公園」の入口付近

7月23日放映「NHKスペシャル 飯舘村 田中俊一の発言」。
浜岡原発は安全と発言した田中某(元原子力学会会長、元原子力安全委員会会長代行)が飯舘村の区長宅を訪れて、「除染のために木を伐って、谷ひとつくらい潰して汚染廃棄物処理場にしないと、村人は家に帰れませんよ、ヘッヘッヘ」というわけだから、醜怪(グロ)極まる。

ジャン・ジオノの「木を植えた男」という話は映画にもなったが、この男はその真逆で、放射能で汚染した挙句、村を丸裸にし、汚物を押しつけるわけだ。

そもそもどうして土下座謝罪し、汚染物はすべて自分のところで引受けますと言えないのだ。
村人も、どうして「下手人が何しに来た、とっとと帰らないとぶち殺すぞ」と言わないのだ。

現代日本は「倫理」も「正義」もなく、「居直り説教強盗」が横行する無法列島にすぎないことを、まざまざと示した場面だった。
江戸時代であれば、この男、ナントカ学会の一族郎党含めて、とうの昔に獄門さらし首になっていた。
すくなくとも、きょう日娑婆でちょろちょろできる分際ではない。

基本的な環境が「森林」である日本列島が、もっとも美しくまた緑豊かな土地から、その保水力を奪い、土壌を流出、壊死させ、溢水を誘発する禿げ山と汚染谷の出現に与(くみ)するとすれば、その中心に原発の推進者とその金にぶら下がる愚者たちの行いがあるだろう。

村が村であるためには、すなわち土壌流出と砂漠化を防ぐ手段は、可能なかぎり詳細な「汚染マップ」にもとづいた、村人自身の計画と実行による、きめ細かな除染と立入制限区域設定以外に方法はない。

「外部」の厖大な金(カネ)をアテにすることは、結局新たな「原発依存」にすぎないのだ。

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