あかあかと一本の道とほりたり 霊剋(たまきは)るわが命なりけり

「歌聖」柿本人麻呂以降の近世大歌人と言われ、帝国芸術院会員にして帝国学士院賞と文化勲章にかがやく斎藤茂吉の「元」は、山形県南村山郡金瓶村 (かなかめむら )の守谷家三男。
同郷の出郷者、浅草で医院を開業していた斎藤紀一に拾われて、入婿となった挙句、南青山の大病院の経営を継いだが、その生涯はなかなかに苦渋に満ちたものだった。

冒頭の歌がつくられたのは、大正2(1913)年(「あらたま」所収)。
歌の師伊藤左千夫亡きあと(同年7月30日)の、「アララギ」派中心人物としての決意を述べたものと言われる。
歌道の世界では、そう見るのが妥当で、またそのようにしか解釈できないのだろう。

大歌人の代表歌のひとつであるから、そのまま素直に受け入れればいいのだろうが、調子(チューニング)が合わない。
前の17音と、後の14音とで、韻律が分離している。
14音は連歌における他人の付句めいて、無理やりくっつけたような印象がある。

霊剋(たまきはる)は、「命」にかかる枕詞で、万葉集の山上憶良の長歌などに用いられていて、例は少ないものの「短命」な場合に使われたようだ。
当時31歳の茂吉は、枕詞の意味逆用して、むしろ「この歌道命(いのち)」と宣言したのだろうか。

いやいや、決してそれだけではないのではないか。
茂吉にとって、歌よりも斎藤家の後継者としての立場と仕事が優先していた。

その道は、実際の道。青山脳病院の正門前、赤茶けて土埃立つ関東ロームの舌状台地の上を、北西から南東に一直線に走り、渋谷川(古川)の支流、笄(こうがい)川の支谷に南下する尾根道だった。
まわりに建物などさして不在の当時、茅、薄などの草原(くさはら)の真中を通るその尾根道は、朝日に照らされ夕陽に焼かれる、文字通りのあかい道だった。

1:10000地形図「三田」の一部。図の真中、斜めに3つの谷が刻まれ、右下の青山墓地下に流下するのは、渋谷川(古川)支流の笄川。真中やや右下寄りに「脳病院」とある。
1:10000地形図「三田」の一部。図の真中、斜めに3つの谷が刻まれ、右下の青山墓地下に流下するのは、渋谷川(古川)支流の笄川。真中やや右下寄りに「脳病院」とある。

そうして、脳病院の裏手(北側)は、彎曲して延びる笄川支谷の崖が連続する。
崖斜面が竹藪となっていて、子どもたちがそこを抜け道として遊びに出たことは、北杜夫の『楡家の人びと』に詳(つまび)らかである。
「たまきはる」尾根道は、崖つまり谷筋に併行していたのだ。
(上の地図は明治42年測図。2段階表示の2番目の拡大図でみると、「立山墓地」下に水流がつづいているのがはっきりわかる。ちなみに、「脳病院」の南と西の塀はレンガ製で、東の立山墓地に面した塀は板塀。裏の崖側には塀もなく、竹ヤブだった。また、脳病院の向かいの建物の正面は「土囲」、西側は生垣、東は竹垣であることが、地図記号からわかる。)

「ローマ式建築」の偉容を誇る青山脳病院が、複式舌上台地の一画に開業したのは明治40(1907)年。
茂吉が、13歳年下の斎藤家の長女輝子と結婚したのは大正3(1914)年。
長崎医専の教授、ベルリン留学を経て、全焼した脳病院の跡に帰国し、病院院長を継いだのが昭和2(1927)年。
そうして、世間の耳目をそばだてた「ダンスホール事件」(「不良華族事件」)を契機に、茂吉が輝子と別居する(「追出す」)のは昭和8(1933)年。

旧青山病院裏を上る現在の陸橋階段。1段約15cmの階段が66段あるから、台地の上と笄川の谷とでは、約10mの高低差がある。
旧青山病院裏を上る現在の陸橋階段。1段約15cmの階段が66段あるから、台地の上と笄川の谷とでは、約10mの高低差がある。

その孤閨の暇、人生の「崖」が眼前するのに時間はかからなかった。
昭和9(1934)年9月19日の向島百花園のアララギ歌会。
永井ふさ子24歳、茂吉52歳の邂逅。

古比志佐乃波気志貴夜半者天雲乎伊飛和多利而口吸波麻志乎
(こひしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸はましを・昭和12年2月17日)

光放つ神に守られてもろともに / あはれひとつの息を息づく (合作)

明治神宮で、茂吉のつくった17音の上句に付句するようにとの指示に、ふさ子が「相寄りし身はうたがはなくに」と詠んだところ、「弱い」と言われ、「あはれひとつの息を息づく」としたところ、茂吉は「人麿以上」と喜んだという。

ふさ子は、崖上の青山脳病院を訪れてもいた。
正岡子規の縁者にあたるふさ子との関係は、しかし「アララギの道」に悖(もと)り、「家」に背く。

それゆえか、老いゆえか、恋は激しく、かつ粘着的であった。
一時は「駆け落ちも」と燃え上がる。
しかし一方で茂吉は、その150通あまりの書簡すべての焼却を、ことあるごとに指示してもいた。

昭和20(1945)年を契機に輝子との同居に復した茂吉は、同28(1953)年、72歳で死去。
ふさ子は書簡130通あまりを守り、茂吉の死の10年後に『小説中央公論』で公開する。
茂吉との記憶を生涯の証とし、郷里松山で独身を通して、平成5(1993)年に亡くなった。
享年83。

安全なはずの東京電力の原発が、東北電力管内の福島に次々と建設され、その事故の結果、福島県の一画にいま無人の放射性物質汚染エリアがひろがっている様は、首都あるいは中央が、地方を犠牲として成り立つ、現代社会のありようを象徴している。
社会学では、迷惑施設の地方配置のことを、いわゆるNIMBY (Not in my backyard)と言うようだが、日本において、ことは別様の根深い構造がある。

以前にも指摘したことだが、日本の近代社会は学歴を基本とした階層構造をなしている。
この場合、階層は階級と呼び変えてもかまわない。
日本は学歴階級社会であると。

その頂点はどこにあるかというと、「空間」的には東京であり、もっと狭く限定すれば、23区のなかでも千代田区と港区に特化される。
この2区については、先の「計画停電」にも計画外の特別エリアであったことは記憶に新しい。

ところで、「学歴」の最終着地点がどこにあるかといえば、もちろん上級国家公務員である。
そこに至る学歴階級社会のステップ、すなわち「時間」を、象徴的に取出してみれば、階級頂部に属す子弟が多く通う、千代田区立番町小学校、あるいは同麹町小学校、港区立南青小学校、そして同白金小学校などのうち、とりわけ番町小学校からスタートして、麹町中学校から日比谷高校、そして東京大学にたどりつくお定まりのコースとなる。

このルートは、学歴階級社会のもっとも知られた階梯だが、同様のアップステアー構造は、それぞれの地方において、なぞったように存在し、端末を東京大学に繋いでいる。
彼らは東京に「上り」、功成れば「中央部」に住まう。
列島外に目をやれば、東京大学のランクはいまや香港大学よりもだいぶ格下なのだが、なんといっても日本は島国であり、「日本語という壁」の内側では威光が効く。

そうして実は、この東京大学を頂点とした、「明治維新」以来140年ほどつづいた日本の近代階級社会が、フクシマの事故を契機に、自らほころびはじめているのである。
なぜならば、現在進行している事態は、ヒエラルキーの拠って立つ基盤としての「地方」とその「住民」の切り棄てであり、挙句の果ての、「中央」すなわちエリアとしての東京自体が、放射性物質で汚染されつつあることによるのだが、それと同時にこの学歴階級社会が、とどのつまりその頂部維持機能しかもちあわせていないことが露呈してきたためである。

今回の原発事故汚染の特徴として指摘される、半減期30年のセシウム137の多さは、新陳代謝のいちじるしい、子どもたちの身体の、とりわけ神経系つまり頭脳の発達に影響をおよぼすとみられる。
放射性物質汚染のダイレクトな情報が「ただちに」入手できるのは、上級国家公務員とその周辺の一部である。
だから、たとえば番町小学校などにおける微細(マクロ)な「人口移動」は、「状況」の深刻度を反映することになる。

学歴階級社会が、空間としての「中央」、時間としての「現在」、実在としての「頂部とその家族」しか保存し得ないこと、つまり「空間」としての「中央」が汚染にさらされるなかで、情報を積極的に公開せず、自らの「家族」を先に「疎開」させつつあることがあきらかになれば、「学歴階級」そのものが、国家という「公共性」のなかで存在根拠を失い、崩壊していくしかない。

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敗戦と原発 ―御厨貴氏に

ベアテ・ゴードンさんは、1923年10月のお生まれだから、今年88歳。
女性の年齢を言うのは失礼にあたるが、近年は来日のニュースを耳にしないけれども、まだ矍鑠(かくしゃく)として、ニューヨークの自宅にお住まいだろう。

現在の「日本国憲法」制定作業に携わり、そのプロセスを証言する、今日では唯一の「生存者」となった。
父親は、山田耕筰に請われ東京音楽学校教授となった著名ピアニスト、レオ・シロタ氏で、ベアテさんの少女時代、一家の住まいは赤坂の乃木邸近くにあった。
だから彼女は、戦前の日本女性の、美徳も、家財道具にも等しい無権利状態も、つぶさに目にし、耳にして育った。

アメリカの大学に進み、戦争が終わるまで、日本の両親のもとに帰ることはできなかった。
厳寒の軽井沢に隔離され、やせ細った両親と抱き合った日は、1945年のクリスマスだった。

占領軍の軍属として来日した彼女は、ケーディス大佐の下でGHQの日本国憲法制定作業を担い、とりわけ第24条(「男女平等」条項)の実現に力をつくしたことで知られる。

「日本国憲法」をめぐる、あれこれの論議にはいま触れない。
しかし、憲法問題調査委員会委員長松本烝治国務大臣の案を基本とする日本政府側の「憲法改正要綱」(「大日本帝国憲法」の改正案)がGHQによって一蹴され、「マッカーサー草案」を元とした「日本国憲法」が実現したことは事実である。

日本の政治家たちは、敗戦を機にしてなお、新たな国家イメージを形成することがなかった。
旧憲法の一部手直し、可能な限りの現状維持、そして既得権維持をはかることが、目の前の最大課題になっていたからである。
もちろん「政治」は、男どもの専管領域だった。

今回の、人類の歴史に類をみない、巨大な原発事故は、第二の敗戦である。
「スリーマイル島事故の、レベル5」から、「チェルノブイリなみのレベル7」に引き上げられ、しかしその放出された放射性物質の量は「レベル7」を超える。

歴史は繰り返す、というより、日本は、日本人自身は、あの敗戦からさえ何も学んでおらず、何も変わっていなかったのだ。
パニック回避という名目の情報統制、そして後出し、日本国内でしか通用しない「暫定基準」の引上げ、といった、ご都合主義優先の陋劣きわまりない「大本営発表」は、われわれの眼前で、政権交代した「民主」党政権のもとで、いまなお腐心中である。

「発送分離」などという首相発言にもかかわらず、政府の「新成長戦略実現会議」は「原子力を最重要戦略」と位置づける。
東京、福井、青森の選挙では、それぞれ原発推進派の知事が再選された。

これだけの「敗戦」にもかかわらず、「島内空間」においては学習能力ゼロであり、ために自分の力で自らの未来をきりひらくことができないのだ。
自然災害の集中する弧状列島にあって、膨大な量の放射性物質を漏出し、拡散させている日本政府は、すでに国際的には科人(とがにん)であり、日本の原発は重要な監視対象である。

このままでいけば「日本の政治」は、「世界の孤児」となった挙句、国際管理という名の「第二の占領」が必要となるだろう。
「黒船」と「占領」は、「外圧」なしでは変ることのできない「列島政治」の象徴であった。

日本近代政治史専攻の東京大学先端科学技術研究センター教授御厨貴氏は、東日本大震災復興構想会議議長代理などという、あやふやな仕事は即座に断るべきだった。

彼の本領は、この稚にして惨な「日本の政治」の病弊そのものの解析に向けられるべきたっだのである。

collegio

青空文庫と公共図書館検索

スマートフォンを利用するようになって、電車のなかで青空文庫を利用できるのは大変にありがたい。
ウィキペディアもそうだが、青空文庫も、利用者にとってははかりしれない貴重な公共財産である。

しかしながら、パソコンで利用していたときからの最大の不満は、「底本」を明記しているにもかかわらず、というかその故か、当該作品の成立年代情報、たとえば初出の掲載誌の情報などはほとんど参照できないことだ。
それを知りたければ、「底本」にあたれ、ということなのだろうが、利用者は図書館などに出掛けて行って「ブツ」としての「底本」を手にしなければならず、情報の「あと一歩」がないために、結局は不完全なデジタル公共財にとどまっている。
これは、まことに残念な、しかし明らかな欠陥である。

さて、では実際に、公共図書館でその「底本」にあたるとして、例えばそれが「全集」だった場合、公共図書館のOPACでは、通常どの巻に収載されているかがわからないのだ。
つまり、例えば『斎藤茂吉全集』は第1巻から第56巻まであるが、各巻ごとの収録作品明細が目録化されている図書館は、国立国会図書館などごく少数である。
また、個人全集ではなく、アンソロジーとしての「文学全集」などの場合も、収録作家名はあるけれども、作品名の明細はないのが普通だ。
これでは、検索の「目録」たりえない。

だから、「全集」で当該作品にあたり、その年譜や解説を参照したい場合は、書庫から全巻出してもらって、片端から見ていくしかない。
図書館によっては、一回の閲覧冊数が3冊や5冊などと決まっていることがあるから、そうなると厄介さが幾倍にもなる。

まあ、こういうことも、いずれは全ページがデジタル化され、ネットでそれを検索閲覧できることになるのだろうから、過渡的不満といえばそれまでだが、各図書館で、そのような「中途半端」な目録が、それぞれの予算でつくられていくつも存在しているとすれば、ばかばかしい思いが先にたつ。

肝心の点が欠落して、中途半端な情報が溢れる、というのは、ナントカ「学会」でも同様だが、現在のネット情報のありようを象徴しているようだ。

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疎開

近代になって「開発」され、先の大戦を契機に急速に一般化した言葉である「疎開」dispersal は、「総力戦」に対応し、産業施設や建物、そして人員を分散させる軍事・政治用語だとは、『日本国語大辞典』をみれば簡単に了解できる。

そうして、日本においては、おもには空襲つまりair-raidによる対策として、都市の木造家屋密集部分を「疎」にし「空ける」ことを指していた。いずれにしても、為政・統治者の「時局用語」であった。
しかし、壊された家の住人の移動をも意味するところから、空襲の結果もはや「疎開」する建物自体がなくなる事態にいたって、もっぱら人間の地方への移動を指す言葉となった。
「民」の疎開記憶は、その時点に基盤をおいている。

今回の原発事故による、ほぼ日本列島東半分におよぶ、放射性物質汚染の、将来に対する計り知れない影響に対応して、いま、人はふたたび「疎開」という語を使用しはじめている。
「ただちに影響はない」と言われ、しかし目には見えない放射線 radiation の来襲に、「空爆」以上の恐怖を抱くのは当然だ。
それは、今回の「事故」の「規模」が未曾有であることによる。

いまなお隠微にネットなどで喧伝されている、「米ソ」や「中国」の原水爆実験時の「放射能」どころではなく、そしてチェルノブイリをもはるかにしのいで、今回のフクシマの事故、つまり既に撒きちらされ、なお漏出し、さらに爆発する可能性のある「放射能」の「量」はケタ違いに巨大である。

だから、「疎開」は正しい。
しかし、それは実際上、「移住」migration かも知れないのだ。

NHKのETV特集、「原発汚染地図」の続報が今日の22時から放映された。
チェルノブイリのくわしい汚染地図が、郡ごと、そして地区ごとに作成されているのが紹介された。
そうして、放射線の種類の詳しい分析が、重要であることが強調された。
これらのことは、とりわけ「地域汚染地図」の指摘は重要であった。

しかし、この列島上、国、あるいは県がすすんでそのような「地図」をつくることはないだろう。
この3月11日以降、わたしたちがはっきりと見てきたことは、国あるいは県の為政者がやってきたのは、時間をかけて情報を選別統制したあげく、後出しして、深刻な住民被曝を拡大した、ということだった。
いま、かろうじて「ヒューマン・スケール」の思考ができる政治分節は、市町村のレベルだろう。
ただし、「金」につられて「大合併」をした広域の「市」は、残念ながらそこからは除外される。
そうして、結局は地域あるいは家族や個人が、それぞれ生き延びるほかないのである。

さて、前回の「放射能汚染地図」の前回の放映は、見応えがあったし、1時間半番組だった。
しかし今回はたったの30分で終了。

そうしてその続きのETV特集は「暗黒のナントカ」と題した1時間番組。
震災を機に、インテリ・タレントの荒俣宏が梅棹忠夫をもちあげてみせた茶番。

前回の「原発汚染地図」と今回の「続報」、そして「暗黒のナントカ」。
この3つの番組の落差を見て、茫然とした人は多かったはずだ。

いま、必要なのは、安全圏に居る人間が、「文明」などという知ったようなことを高所から「語る」ことではない。
それは、恥かしい行為でしかない。

わたしたちは、まず自分で自分の足元を測るところからはじめなければならないのだ。

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カエル

40年ぶりで「ぎっくり腰」というものになって2週間ほど経ったが、いまだ椅子に坐ると腰に鈍痛と言うか、嫌な感覚が生じる。
中学時代の運動がひびいているらしい。
陸上部で走っていたのだが、腹筋や背筋のいわゆる「筋トレ」で、妙な負荷がかかったようた。

幸いよい鍼灸医に診てもらっているけれど、患部になかなかヒットしない。
よほど深いところとみえる。

寝ている間にも、事態は進行していた。
業界メディアはほんの申しわけ程度にしか触れなかったが、いわゆる「20ミリシーベルト」事件というか問題というか、福島の親ごさんたちが文部科学省門前で、雨中座り込みまでやったおかげで、「大臣」の「1ミリシーベルトを目指す」という言質をようやく引き出した。
校庭の放射性物質汚染表土の削平も、国の費用でやらせるところまでもってきた。
新宿区百人町の東京都健康安全センターに設置されている、文部科学省の放射線モニタリングポストも、地上18メートルという非常識な位置から、人体への影響を測るのに適切な、地上1メートルに訂正されるらしい。
石原がそう言ったと。
都の担当者は、市民の抗議や疑問には、「文部科学省の仕事を請け負っているだけだから」という、木で鼻をくくる返答しかしなかったのだ。
昔話に、「江戸のカエル、大坂のカエル」というのがあったが、役人というのは、目が上にしかついていないカエルみたいなものだな。両生類としてのカエル目(もく)には大変失礼だが。

けれども、水や食品の放射性物質汚染の基準値は、ずいぶんとまた上げられたから、実際は日本列島の広範囲なエリアで汚染と体内被曝は進行しているとみたほうがいい。
「国の基準値内」だから大丈夫、と言われても、誰もそのまま信用する者はいない。

「隣りの国」や半球の反対側ではなくて、「自国」エリアで原発事故が発生すると、その「国」では、基準値自体を上げざるを得ないのだな。
生産者や被害者への補償、そして「避難地域」の拡大や、膨大な「難民」の発生、そしてパニックに対処しなければならないからな。
なにせ、いまの列島東半分は、チェルノブイリをはるかに凌ぐ、放射性物質汚染の長期実験場だからな。
そうして、すべては、「ただちに影響はな」く、5年先、10年先、20年先に「結果露呈」する話だからな。

またカエルを持ち出すとすれば、熱湯に放り込むのではなく、水からすこしずつ温度を上げてやれば、カエルはおとなしく「煮殺されて」しまう、というあの例え。
情報は、関心が低下してから、少しずつ、「驚愕」の事実を後出しする。
そうすれば、カエルは、そのうち往生してくれる。
為政者は、「民百姓」がおとなしく「往生」するのを待っているようだ。
しかし、現実のカエルは水温が一定限度以上となれば、我慢なんぞするわけがない。
与えられた水槽を捨て、その外に飛び出すのだ。

小社の「フィールド・スタディ文庫」も、4年かかってようやく6冊目。
この20日までには、それが出来あがる予定。

ISBN978-4-902695-13-7  四六判226ページ 本体1800円+税
ISBN978-4-902695-13-7  四六判226ページ 本体1800円+税

1969年渋谷区生まれの著者が、「渋谷川」に目ざめて約20年。
そして、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員として、平成20年9月に行われた《「春の小川」が流れた街・渋谷》展を大成功させた。

その展示図録はたちまち完売。いまでは、「渋谷」や都内の「川歩き」に関心のある向きには「幻の資料」として垂ぜんの的。

しかし本書はその展示会のはるか以前から企画されていたもので、その間、著者は膨大な一次資料にあたり、暗渠をくぐってオリジナルな調査をつづけていた。

渋谷や渋谷川、さらには川歩きに関する本はあまたあるが、本書はそれらに卓絶する「渋谷・渋谷川原典」と言うにふさわしい。

図版・地図約160点。
折込地図「渋谷川とその支流」を付した本書は、「日本の都市河川」の来し方の典型を示し、「都市と川の未来」を語るうえでも欠かせない一冊。

「原発事故直後、元放射線医学総合研究所の研究員木村真三さん(43歳)は勤務先の研究所に辞表を出し、福島の放射能汚染の実態調査に入った。

強烈な放射線が飛び交う原発から半径10キロ圏にも突入、土壌や植物、水などのサンプルを採取、京都大学、広島大学などの友人の研究者たちに送って測定、分析を行った。

かつて、ビキニ事件やチェルノブイリ事故後の調査を手がけた放射線測定の草分け・岡野真治さん(84歳)が開発した測定記録装置を車に積んで、汚染地帯を3000キロにわたり走破、放射能汚染地図をつくりあげた。

その課程で見つけた、浪江町赤宇木の高濃度汚染地帯では、何の情報もないまま取り残された人々に出会う。
また飯舘村では大地の汚染を前に農業も居住もあきらめざるを得なくなった人々の慟哭を聞き、福島市では汚染された学校の校庭の土をめぐる紛糾に出会う。

国の情報統制の締め付けを脱して、自らの意志で調査に乗り出した科学者たちの動きを追いながら、いま汚染大地で何が起こっているのか、を見つめる。」

以上は、今度の日曜日、5月15日(日)22:00~23:30に放映予定の、NHK教育テレビETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2カ月」の「あらすじ」。

「地図」を研究する者としては、1854年の8月から9月にかけて、10日間で500人の死者を出したロンドンのソーホー地区のコレラ大発生の原因をつきとめた「地図」(S・ジョンソン『感染地図』、S・ペンペル『医学探偵ジョン・スノウ』などの翻訳書がある)をも連想するが、これは「津波浸水地図」や「震災被災地図」などのレベルをはるかに超えた、今日もっとも切迫した「地図学」のテーマである。

必見。

collegio

江戸の崖 東京の崖 その28

震災と原発ですっかり中止状態になった当ブログ不定期連載の「江戸の崖・東京の崖」だが、某出版社には同じタイトルで単行本1~2冊分の原稿は渡し済みだし、毎月1回、もう四十数回つづけている淑徳大学の公開講座名もこの春から「江戸・東京崖っぷち紀行」と変更したわけだし、日本、いや日本列島そのものが地震と津波と原発ですでに崖っぷちであることが世界中に知れわたったのだから、「崖話」もそろそろ開始してよいと思われる。
もちろん、かくいう当人が経済的にはますます崖っぷちで、辛うじて国分寺崖線の崖際にとどまっていることに変わりはないのです。
で、崖男の崖話を再開。

六本木ヒルズと東京ミッドタウンというきらびやかなランドマークを擁して、いまやトーキョーの顔となった感のあるロッポンギとその隣のアザブ地区だけれど、ロッポンギはいざ知らず、アザブが「崩壊地形」を意味する「アザ」「アズ」という語に由来する、とは当ブログ「江戸の崖 東京の崖」その18(昨年10月16日)で述べた通り。
だから、この一帯には、大小さまざまな崖が、捜せばあちこちにみつかるのです。

たとえば、
地下鉄大江戸線の六本木駅から地上に出、ミッドタウンガーデンを背にして外苑東通りを横断し三差路の南の並木道をくだると昔の陸軍歩兵三聯隊跡(1962年から2000年頃まではその建物を東京大学生産技術研究所に転用していた)、今、国立新美術館と政策研究大学院大学の二つの施設が割拠する一角に至るのですが、その並木道が妙なのですね。

奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる
奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる

ご覧のように、東南側が切られたように最深部で1.5メートルほど落っこちている。そうして、東南一帯はそのまま低い土地である。
これを崖と言うか否かはさておいて、どうしてこんな形になったのか。
放射能汚染地域ではあるまいし、わざわざ道の片側だけを掘り下げ、広範囲に表土を削り取るわけはないから、むしろその逆だと考えるほかない。

この道を下って、旧東大生産技術研究所の向いの低地の角地は、70~80年代は夜な夜なお盛んなところだったとは、土地の人からの話だけでなく、筆者も確かに覚えのある場所。今ではビルの一階でもガラスを透かして倉庫然として見えるけれど、昔は結構広くて、知的そうなママさんがいた店(バー)ではなかったか知らん。某文芸評論家との間にできた子がいるとの話だったが、その評論家は新宿方面でも子をつくっているので、あちこちに「落として」いたのだな・・・。

右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ
右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ

さて、そのかつての夜の街の一画はというと、これも都市繁華街の立地定式にもれず、実は渋谷川支流、正確に言うとその下流の古川の支流、笄(こうがい)川のそのまた支流が侵食した跡なのですね。もちろん水の流れが切り立ったように削ったわけではなく、外苑東通りの尾根筋から支路を通すため、低地に道の部分だけ盛土したのでしょう。

『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷
『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷

結局は人間の手が加わってつくりだされたかたちでしょうが、このようなところに、謎と疑問を感じるところから、人は、いま大きく世の関心を集めることとなった、「地形」にちかづくことができるのです。

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