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「一国の首都」

知人に示唆されて、あらためて幸田露伴の高名な文章にひととおり目を通してみた。
岩波文庫『一国の首都』のタイトルには、「他一篇」と付けたりがあって、その短い一篇は「水の東京」なのだが、そちらは必要があってすでに馴染みの文章であった。
しかし、メインの「一国の首都」を通読するようには、食指が動かなかった。

明治32年11月、一気呵成に書かれたといわれるが、現代人にとっては見慣れぬ漢語をちりばめ、見出しや章区切りもない、11万字余りのその文は、気軽に読み下せるものではない。

そうしてまた、劈頭の一文からして、その後を目で追う気を失わしめるのである。
曰く、「一国の首都は譬(たと)へば一人の頭部のごとし」と。

確かに「首都」というタームからしてみればそうだろう。
しかし、これは明らかにcapital cityの翻訳語であって、その本意は「首都」ではなく、「主都市」なのだ。
ひとつの国家を前提とし、その政治の府たる場を人体の頭部に比喩するのは、きわめて凡庸な「アジア的」スタイルである、としか言いようがない。

岩波文庫の巻末には中野三敏が注し、大岡信が解説を書いているが、それによると、書誌学者にして明治文学研究で知られる柳田泉はその著『幸田露伴』(昭和17年)のなかで、「一国の首都」は「曠世の奇文」であり、「この一文だけでも露伴の名は永久に伝はることが出来たらう」と絶賛している由。
大岡もつづけて、この文に「何らかの意味で匹敵しうるだけの包括的で懇切丁寧な東京論を書き得た人が他にいただろうか」と問い、「一人もいない」と結論づけている。
果してそうか。

3・11以降の事態は、従来の都市論や首都論がまったく説きおよばなかった異貌の東京の姿を露出させた。
そうして、実はその異貌の東京は、明治30年の3月に、足尾銅山鉱毒被害地の住民2000人が徒歩東京を目指し、警察の阻止線を突破した800人が日比谷に集結した時にも、また水俣病患者の代表らが上京した昭和44年4月にも、厳然として存在していたのである。

幸田露伴の「一国の首都」の後半35ページ、つまり全体の30パーセントあまりが、都市における「娼家制度論」となっていて、露伴の「博識」のほとんどはここに表れているのであって、まっとうな都市論としてはすでにバランスを失している。
その情熱、その博識、その文章力において、多分露伴は何人をも寄せ付けない、ぬきんでた才をもった人物であったろう。
しかし、その人物や才能と、そこから生み出された作品とは区別されなければならない。

今日この「都市論」は、及びもつかないと仰ぎ見られるのではなく、その内実に沿って、批判的に読まれるべきである。
そうして、この文章から今日くみ取るべきものがあるとすれば、例えば、駅前に簇生せる簡易賭博場(パチンコ、スロットの類)や簡易買売春店舗(テレクラの類)、そしてサラ金事務所とそれらの看板を一掃できないのは、すでに政治と民心が江戸後半あるいは末期の様相を呈しているからである、という読み換えが可能だという点にあるだろう。

東京は、そして「首都圏」は、ストロンチウムを持ち出すまでもなく、いまたしかに、末期の姿を呈しているのである。

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