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ギザギザ話

1983年に発売されたチェッカーズのデビュー曲は、康珍化作詞、芹澤廣明作曲の「ギザギザハートの子守唄」だった。
筆者は20年ほど前、時々この曲をカラオケで歌って顰蹙を買ったものだ。
近年は歳相応に衰え、酔うために朝方まで酒を呑む、というようなこともなく、加えて昨今は呼吸器系統がダメージを受けて、いまだそれをひきずっているものだから、歌の記憶からは遠ざかる。
しかし、「ギザギザ」には突然遭遇してしまう。
人と話をしていて、お互い急にギザついた感じになってしまうのだ。

「被曝」の影響などという話題に不期して触れてしまうとき。
観点を異にした者どうしがそれぞれマグマをかくしもっているものだから、互いに鎧袖一触。

A)
「被曝の影響などと言うが、煙草の害や排気ガスと比べると、そちらの方が深刻」
「内部被曝の影響を心配して、子供に給食を食べさせず、弁当をもたせるような親は、自分の子供のことだけを考えている(そういう親はデモにも行かないだろう)」
「被曝の影響が実証されないかぎり、言い立てるのはおかしい」

B)
「被曝は空気や水、食物にかかわる万人の問題で、煙草や排気ガスなどの汚染と比較してはいけない」
「被曝を避けたり逃れたりすることのできる者はそうすべき(生物として自然の行為には、卑怯もエゴもない)」
「被曝の影響は事故を概括して考えるべき。チェルノブイリ(1炉事故・短期間)と、フクシマ(3炉+4燃料プール・いまだ未収束)を比較しただけでも、今回の事故の巨大さが判断できる」

以上は、Bの側からのまとめだから、衡平を欠くものだろうが、手掛かりのためにとりあえず掲げてみた。
ニュアンスの違いや漏らした論点も多いかもしれないが、こんなものだろう。

排気ガスや煙草の害といったステージのまったく異なるものを引張り出す手法は3・11当初から存在していたが、それがリアリティあるもののように主張され、受け入れられえるのも、首都圏に住まう人間にとっては、現状肯定、日常化現象が必要だからなのだろう。

しかし、本当に「ギザギザ」なのは、巨大な原発「事故」そして人類史上空前の被曝という「人災」に対して、司法がまったく動かないことだ。
昨今の「オリンパス粉飾事件」ですら、東京地検は「幹部聴取」を開始するという。
強きに弱く、弱きに強い、のが司直の常だとすれば、中国あたりを「法治国家ではなく人治国家」などと言っていられないはずだ。

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