ただお湯を沸かして、タービンを回すだけの施設。
それが原発であったとは、今回多くの人が気付いた事実だった。
単なる蒸気機関。
それなら、どうしてこれだけの、巨大な事故災害がおこるのか。

吉本隆明氏は言う。
「原発をやめる、という選択は考えられない。発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。(略)お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない」(日経新聞、2011年8月6日朝刊)と。

この人の論は、「自立」という言葉で一括される。
戦争体験と戦時転向をえぐり、徹底した個の立場からもの申したわけだ。
いまだに信奉者も少なくない。
コピーライターの糸井重里なる人物もその代表格らしい。
かく言う本人も、10代の終りにはかなり影響をうけた。

吉本氏はまた、原発は「燃料としては桁違いに安い」という。
冗談ではない。
お湯を沸かす燃料としては確かに安い。
けれども原発システムのほとんどは、「制御」技術なのだ。
運転制御だけではなく、「安全対策」や、「使用済核燃料」の処理制御も含めると、その経費は実に膨大なものになる。

官政財学報の相互利権で成り立つ「原子力村」の活動の結果、細長い地震の巣のような列島に、54基もの原子炉がひしめいている。
しかしその原子炉も、通常でさえ「稼働率30%」、現状は20%以下。
経済原則もなにもあったものではない。

「持って行き場」のない膨大な放射性廃棄物を産む原発プラントは、「トイレのないマンション」に例えられるが、それはちがう。
糞尿は微生物が分解してくれるが、放射性物質の影響は煮ても焼いても変化しない。
それはただ「時」が解決するだけである。
しかしその「時」は、人間の「歴史」のおよばない「万年」の彼方である。

巨大な「国費」を注入して原発が無理やり「立地」し、維持されるのは、「科学の発達」のためではない。
政治的な理由が存在する。
それは、「原爆」である。

「核兵器」をもたない国家は、国際政治のうえで「自立」しえない、という官僚・政治家を中心とした力学認識があって、「原発」」はその「国防」の潜在力として、文字通り「力づく」で維持されているからだ。
だから、かれらにとってこそ「原発をやめる、という選択は考えられない」のだ。
なにがなんでも原発体制を維持するのが官僚たち、そして「原発村」の本音であり、「ストレステスト」などはアリバイ工作の一環にすぎない。

しかし、その「国防の拠点」こそ、実はミサイル攻撃の恰好の標的である。
原発プラントを複数同時攻撃されたら、「安全」も「防衛」もあったものではない。
狭小な列島上に逃げ場はない。
原水爆そのものの破壊力や放射線の影響よりも、原発プラント破壊による放射性物質拡散、そして汚染とその結果は、実は桁違いに深刻だからだ。
3・11は、「日本」という現代国家の「国防」上の最大の弱点を、満天下に曝(さら)したのである。
だから、これを「第二の敗戦」というのは、正しい認識である。

旧軍部と政治指導者そして臣民は、制空権を奪われてなお敗戦を認めず、主要都市のほとんどが火炎のなかに投じられ、人々は逃げまどい、何十万という数の「銃後」の人間が焼死した。
そうして今日、成功も失敗も五分五分のようなミサイル迎撃(MD)システムの構築に、毎年莫大な金が投ぜられている。

この、愚かな「金がらみ力づく構造」に説き及ばない、いかなる原発論も「国防」論も無効である。
第二の敗戦期に、「占領」という「他力」をたのまず、自ら省し、「自立」できるか否か、それが問題なのだ。

One Response to “昔の軍部、今原子力村 ―吉本隆明氏に”

  1. 木村on 22 11月 2011 at 11:58:37

    吉本の科学進歩不可止論については原文を読んでいないので吉本流に断定の凄みを効かせて言明することはできないが、原発を科学論で評価するのは少し間違いだと思う。
    前にも言った「科学・技術」か「科学技術」かの論議にも関わることで、目下木村はその辺のこだわりを解きたいのだが、それは措く。
    芳賀さん上記の通り、原発施設は決して科学の粋などではなく、広義の『制御』技術の集積物で、セメント屋さん、鉄鋼屋さん、配管工さんたちの技とそれを担保する金(コスト)が作ったモノであり、あのフクシマの原発は別に量子力学を持ち出すまでもなく、古典力学的にわかりやすく、ほとんどニュートンの重力の法則に従って壊れている。研究室の科学者より土建屋の技術者の対処すべき課題だ。
    日本の60年代前後、石炭化学の進歩が止まり、石油化学が取って代わったのは「自立」!した科学の問題ではなくエネルギー政策等によることは明らかだろう。「自律」的な科学史家でなく経済史・政治史家が説明できる。生殖科学の自己増殖とその実現である生殖技術の政治的抑制とか秋田大鉱山学部の栄枯とか、関説したいことはいっぱいあるが、それも措く。
    当時質量ともに従来の産業事故と異なるといわれた炭鉱爆発事故は採炭技術(吉本流にいえば「科学」)の進歩停止とともに消滅した。同じく芳賀さんがいう質・量とも従来と比較ならぬ新次元の原発災害も原発技術(科学)の停止政策によって、“新規には”発生しなくなる。科学(技術)はいつでも人為的に止められる。ただし原子力ムラとやらの周辺の失業・再就職問題は派生する。
    60年代のエネルギー転換に際しては谷川が挽歌を詠わされたが、生き残ってしまった吉本はドラゴンズかジャイアンツへの応援歌を謳っているのだろうか?

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