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二枚橋 その1

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写真左手は小金井市東町1丁目で野川に架かる二枚橋、右手はかつて是政線と称していた西武多摩川線の土手である。またそれぞれの背後は、右手が都立武蔵野公園、左手が同野川公園である。
中央の奥が明地となっているが、ここには調布市、府中市、小金井市の3市によって1957年に設立、2010年に解散した二枚橋衛生組合の可燃ゴミ焼却施設が存在していた。写真奥は調布市野水2丁目1番地で、リサイクルゴミや粗大ゴミを扱う「調布市クリーンセンター」の建物が見える。
この一帯は府中市、調布市、小金井市、三鷹市と4市の境界が輻輳し、いわゆる迷惑施設が立地しやすいのである。

このはずれの地に、いずれの時ともわからず古くから存在したのは橋であった。その次に古いのは鉄道とその土手で、多摩川で採掘した砂利運搬目的で開設され100年以上の歴史をもつ。それ以外はすべて近年の施設である。
戦後間もなくのベストセラー『武蔵野夫人』(大岡昇平)に描かれたこの一帯は、次のような景観だった。

「道は多摩川から砂利を運ぶ軽便鉄道の土手の下をくぐると、初めて斜面に追従することをやめ、この辺で急に狭くなった野川の流域の湿地を渡って、右の方の陽(ひ)にあぶられた草原に進み入る。二、三尺に足りない灌木の若木が叢(くさむら)をなしている間に、ところどころ赤松が立っている。」

ここで言う「道」とはいわゆる「はけの道」のことであり、主人公の進行方向は鉄道をトンネルでくぐるまでは西側から東に向かっていた。進行方向を南に変え、橋をわたって進み入った「草原」は今の野川公園である。大岡はその戦場体験の故もあって、土地の高低差や川幅の広狭といった地形や景観に敏感であったが、この橋とその名前にとくに留意することはなかった様子である。

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下僕国家

摘発の予感におびえ政治の表面からトンズラしたアベの最大の功罪というより罪悪は、意のままになる官僚のみの体制をつくりあげ下僕化させたことだが、それをひきついだアベアバタースガが日本学術会議の下僕化をあらわにした。

学術会議メンバーは公務員だから任免権は政府にあるという論理だ。
バカを言ってはいけない。
首相は企業の社長だと言っているというか思っているのだが、そうだとすれば政治家が政治のイロハを弁えていないということになる。

ソーリダイジンは私企業のトップとは異なる。
公共性のトップでなければならない。
こんなことはプラトンの『国家』を読むまでもない。

学術は科学性以外の下僕であってはならない。
そうして公共性は科学にもとづかねば破綻する。
したがって次の定式のうち、左項が常に上位でなければならない。

科学≧学術>公共性≧国家>首長

権力は、自身の恣(私)意性を束縛されなければならない。
モンテスキューはそれを「三権分立」として定式化した。
それは一種の技術だが、アベ政治のもとでそれすら弁えていない政治家や官僚が近年の列島に叢生した。
「憲法」や「立憲」の意味を知らない選挙民と政治家も叢生した。

式をもっと単純化すれば

客観性>恣(私)意性

となる。

ヒトが歴史的に積み上げてきた英知、これを学術と言い換えてもいいが、その英知が上の二つの定式に込められている。それは、権力は常に恣意の誘惑にさらされていて、権力者は上の式の逆の磁場に存在するからである。
これらもっとも基本的な定式を了解せず、恣意の誘惑に抵抗しない政治は破綻を運命づけられている。
学術をおのれの下僕と見做す国家に未来はない。

「学問の自由」という言葉は「自由のはきちがえ」などといって誤解される。
むしろ「学の独立」こそが適切だが、さてその文句を「校歌」にもつどこぞの大学のトップは、この事態に対してその「精神」を示すのかどうか。
「経営」や「経済」なんぞを理由に逡巡するようなら、そんな「大学」はツブレてしまっていいのである。
わが加盟するいくつかの学術団体が、この事態にどう対処するかも見物である。

ドレイの主人はそれ自身がドレイである。
この格言は永遠である。

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潜在自然植生 その3

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神奈川県立東高根森林公園の県指定天然記念物シラカシ樹林。
下から見上げると、木々が互いに光の隙間をつくりだして葉枝の縁がモザイク状になっているのがわかる。英語でcrown shyness(樹冠のはじらい)、日本語では樹冠の譲り合いと呼ばれる現象であるが、実際は風による揺れでぶつかり合うのを避けた結果と見られる。
シラカシがなんらかの理由で独立樹である場合は、以下のような姿を呈する。樹齢40~50年であろうか(同森林公園にて)。
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ブナ科コナラ属の常緑広葉樹シラカシは武蔵野地域の潜在自然植生である。
東高根森林公園は自然林に近い貴重な植生を残しているが、実際の極相林は樹齢何百年という巨木で占められていた。林床に届く光は限られ、そこに生育する低木や草本の種も貧弱であった。
まして樹林の生産量は草原のそれに比べて著しく貧しいのである(岩城英夫『草原の生態』1971)。

数千年前、ヒトはこのような単相の大樹林を可能なかぎり多様な資源環境に変えるため、火をもってそれを切り開き、またその豊富な植生を維持するために、定期的な野焼きを行ってきた。
「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」とイメージされる武蔵野の「原風景」は、ヒトがつくりだした人為景観であった。
「縄文人」は決して「森の民」などではなく、ヒトとして生きるべく生きただけであった。

草本卓越を端的に示し「武蔵野屏風」の説明に引用される前掲歌は、『甲子夜話』巻七十に伊達政宗の和歌に関連して「古歌」として出てくるものだが、「武蔵野は月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲」(中院通方『続古今和歌集』巻第四)の本歌取りで、江戸時代に流布した俗謡とみられる。

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潜在自然植生 その2

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この図は「東京都潜在自然植生」(東京都環境保全局、1987年)の一部で、前の『日本植生誌』の附図が50万分の1であったのにくらべ基図を5万分の1と長さで10倍にし、より詳細である。
中央線国分寺駅を中心としたエリアを切り出したが、前の図では「シラカシ群集」(4)のみであったのを、この図では開析谷斜面や窪地、玉川上水(上辺1本斜線)沿いおよび国分寺崖線部(左端中央から右下へつづく)が析出され「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」(3)としている。

”樹の多いこの斜面でも一際(ひときわ)高く聳える欅(けやき)や樫(かし)の大木は古代武蔵原生林の名残りであるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出張っているところから「はけ」とは「鼻」の訛(なまり)だとか、「端(はし)」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」すなわち「峽(はけ)」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を溯って斜面深く喰い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。”(大岡昇平『武蔵野夫人』冒頭近く)
よく指摘されるのは地理や地形についての大岡の観察と知識だが、植生についても本質に迫る記述であることに気づかされる。

図の右上、東北東に向かうのは石神井川上流の谷、図中央から玉川上水の南を東にのびるのが仙川の谷頭部である。
左半中央に細長い斜めU字型をつくる2つの谷がみえる。南側は恋ヶ窪谷、北をさんや谷という。また国分寺駅の東側で北につき出しているのは本多谷である(『国分寺市史』1986)。
国分寺駅の南側一帯は大雑把に「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」(3)にくくられ、殿ヶ谷戸谷や丸山台(通称)などの起伏は省略されてしまったが、本来は小金井市中町や前原町付近のように「シラカシ群集」(4)と「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」(3)が混じるはずである。
国分寺駅の北に細長い水色部分があるが(18)これは日立中央研究所の池で、その植生は「ヒルムシロクラス」としている。
玉川上水や日立の池もそうであるが、人工的に改変された地形も、当然ながら潜在自然植生に影響を与えるのである。

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潜在自然植生

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図は宮脇昭編『日本植生誌 7 関東』(1986年)の附図KarteⅡ「関東地方の潜在自然植生図」の一部。
東京都の低地は緑色(1)の「イノデ-タブノキ群集」、武蔵野台地の東縁部は黄緑色(3)の「ヤブコウジ-スダジイ群集」、東京都と埼玉県にまたがる武蔵野台地の大部分は薄緑色(5)の「シラカシ群集」で、これらは統合して「ヤブツバキクラス域」(照葉樹林帯)とされる。なおヤブツバキクラス域の開析谷に沿った部分(11,12)はごく大雑把に言うとハンノキ群集である。
左端の山地および武蔵野中央部の狭山丘陵の茶色(8)および黄土色(21,24)は「ブナクラス域」(落葉広葉樹林帯)に区分される。

潜在自然植生 potential natural vegetationとは、いま一切の人間活動が停止し自然への影響力が断たれたと仮定したとき、そのエリアに復原されるであろう植物の一定相のことで、優占種名で代表させる。
そのもっとも基本的な条件は気候すなわち気温と雨量で、それに標高や土質、地形などが影響する。
武蔵野はブナ科コナラ属の常緑広葉樹シラカシが卓越することになるが、またニレ科ケヤキ属の落葉広葉樹であるケヤキが混在する。
いまその一端を平地で見ることは困難で、辛うじて残された国分寺崖線などの斜面のところどころに目にし得るだけである。

前掲詩3行目「かっぱらっていった鉄の器」とは、戦時供出させられた(「金属回収令」1943年8月12日勅令第667号)金属類を指し、それでつくられた兵器、軍需品は刀にかぎらないが、かりに軍用刀だったとしてもその時期のものはほとんどが間に合わせの「ごぼう剣」で、日本刀に鍛え上げる余裕などなかったのである。
しかしそのような実状や事情など、植民地にされた異民族の側からは知ったことではない。そもそも「かっぱらっていった」のは土地(国土)や言語、氏名(創氏改名)、そして「慰安婦」や戦時強制労働(連行=拉致)などヒトの身体そのものでもあったからである。しかし昨今の日本語の「情報」には、こうした「政策」は「強制ではなかった」といったひとりよがりの詭弁が流通している様相である。

さて、後ろから2行目の「素っ裸の女兵」と「素っ裸の娼婦」はそれぞれ当時の日本と韓国を象徴する。
「アジュッカリ」は前掲訳注にある通り。
この詩は平岡の「ハプニング」が、これまたひとりよがりの美意識つまり自己満足の到達点に過ぎないことを、率直な「他者の目と言葉」によって明らかにしたものと言っていい。しかし注意すべきは「ひとりの人間の生命の終焉がもたらす悲しみのみ受入れる」と付記している点で、ここに後の金の「サルリム(生命)運動」の伏線、すなわち政治に偏位しないヒューマンな視線を見ることができるのである。

金芝河(キムジハ、本名金英一キムヨンイル、1941‐)は、1960年の韓国四月革命(4・19)に参加、指名手配や地下潜行、逮捕を繰返しながらソウル大学を卒業、職業を転じつつ詩作。長編譚詩「五賊」が反共法違反に問われ逮捕、1974年死刑判決を受けるも一旦は釈放されるが、「人民革命党」事件捏造を批判して再逮捕される。
再度の死刑判決に対しては国際的な釈放救援運動もあって、1980年再釈放された。
しかしその後の金の主張は今日に至る韓国の政治潮流のなかで容れられず、忘れられた存在となった。

『長い暗闇の彼方に』の出版は、日本列島における金芝河支援ないし救援の一端でもあった。
その冒頭におかれた詩と「反対」のメッセージは、国際的にも一様に「衝撃」をもって受け止められ余韻まだ冷めやらぬ平岡の「蹶起」すなわちハラキリ死への精一杯の批判である。
しかし版元首脳部の意向は、この冒頭部の削除であったという。
平岡は日本のマスコミで「次期ノーベル文学賞候補」と話題にされながら、同性愛をはじめとしたスキャンダル種には事欠かなかった。だからその著作権継承者(遺族)の意向は忖度の対象となり、実際に遺族側が勝訴した「『剣と寒紅』事件」は1998年に提起されたのである。
編集部が削除に抵抗し、なんとか刊行にこぎつけた。
この冒頭部の活字のポイントがきわめて小さいのはその証左である。

平岡の死の2年前、世界的な「叛乱の年」として知られる1968年の7月に『中央公論』に掲載されたその「文化防衛論」は、戦後の日本の論調のひとつの極点であろう。そのひとりよがり極点がいまなお強力な磁力を保ち、列島内部に磁場を拡げていることは留意されてよい。しかし『長い暗闇の彼方に』の出版からほぼ半世紀を過ぎ、「世界」は大きく変容した。
もっとも巨大なステージ・シフトは、政治(軍事を含む)と経済の両面で東アジア各国の比重が飛躍的に高まり、そのなかで「日本」は評価も実力も相対的に沈下し、それはなお進行中であるという事実である。つまり金の「身の毛もよだつ」”大日本帝国復活”の危機意識は、今日では杞憂に終わる可能性が高い。しかし仮にも大日本帝国復活が現実化するとすれば、それは列島空間に限られるだろう。そのとき日本列島住民はさらに苛酷な「世紀の再敗戦生活」を余儀なくされる可能性が大きいのである。

リアルな政治は、常に相対的力学であり、時間の関数である。その反対に、美意識やひとりよがりへの傾斜は自滅への途である。
平岡の「防衛」とはヒューマニズムには無縁で、それは現在や未来を切り開くのではなく逆に特定の過去に拘束されるものである。他者には笑止な「勝手にエンペラー」の虚構に拠り、とどのつまりは死に収束するパラドックスである。醒めてみれば「神州無敗」同様愚かしい夢想であり、他者にとっては「三島事件」同様グロテスクなショーに終わるのである。

皇(おほきみ)は神にしませば戰(いくさ)負け人王(ひとわう)たるは詐欺のまた詐欺(『天軆地圖』p.49)

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どうってこたあねえよ
朝鮮野郎の血を吸って咲く菊の花さ
かっぱらっていった鉄の器を溶かして鍛え上げた日本刀さ
何が大胆だって、お前は知らなかったのか
悲愴凄惨で、まったく凄惨このうえもなく凄惨悲愴で
凄惨な神風もどうってこたあねえよ
朝鮮野郎のアジュッカリを狂ったようにむさぼり食らい、狂っちまった
風だよ、狂っちまった
お前の死は植民地に
飢(ひ)あがり、病み衰え、ひっくくられたまま叫び燃える植民地の
死のうえに降る雨だよ
歴史の死を呼びよせる
古い軍歌さ、どうってこたあねえよ
素っ裸の女兵が素っ裸の娼婦の間に割りこんでつっ立ち
好きなように歌いまくる狂ちがいの軍歌さ
(「アジュッカリ神風 ―三島由紀夫へ」)

*金芝河(キムジハ)著、渋谷仙太郎訳『長い暗闇の彼方に』(1971年初版)のエピグラフ。訳注「アジュッカリは植物のヒマ。これからとれる油で第二次大戦末期のガソリン不足を補おうと朝鮮でも大々的に植えさせた。神風も結局は朝鮮人の犠牲の上になりたっていることをさす」。三島由紀夫こと平岡公威(ヒラオカキミタケ)の死は1970年11月。

三島由紀夫の死に反対する。三島の死が含んでいるあらゆる意味、政治的なものであれ、芸術的なものであれ、いっさいの社会的な意味に対して私は反対する。ただ、個人的なもの、ひとりの人間の生命の終焉がもたらす悲しみのみ受入れる。
ある者は、かれの死をひとりの真の芸術家の美しい自己完成だと讃嘆する。またある者はかれの死を政治的なものとしてではなく、きわめて個人的な動機によるものとして認めるべき点もあるという。私は反対だ。これらすべての逃げ口上にたいして断固として。なぜならばかれの死はあきらかにわれわれの死。韓国民族のいまひとたびの魂の死を呼ぶ身の毛もよだつ軍歌であるからだ。
この種の素材を師に扱う場合、いつも感じる難しさがある。いまだにわれわれは現実と現実のさまざまの衝撃からあまりに遠くはなれていて、それらを息づまるほど、そして余裕綽々と取り扱うにはそぐわない詩形式のあるパターンのなかにとじこめられている。これを打ちこわさなければならないのに。打ちこわし、たたきのめさねばならないのに、いまはまだその時期ではないかにみえる。未熟なままではあるが、書くべきものは書かねばならない。やはり形式より内容が重要なのだから。

**同前、エピグラフ裏面。

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廃熱都市の座敷牢

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10階建てマンションの5階にいるため、真夏に天井から熱が降り注ぐこともなく、バス通りの排気ガスが吹き込むことからも免れている。
ただし何事も禍福は糾(あざな)えるごとしで、高層建築物の中層階は大地震の時はそこだけ圧潰する可能性が大きいとは、つくばの建築研究所の実験結果でも明らかである。
そのマンションの通路側、玄関脇の北向きの小部屋は、冬には極寒スポットとなるため最近まで物置として使っていた。
使っていたというより、戸が開かなくなるまでモノを放り込んでいたのだが、本などで売れるようなものは知人の古書業者に何箱も送り付け、捨てられるモノは膨大に棄てて、ようやく落ち着ける場所をそこに確保した。
つげ義春の「退屈な部屋」(1975、下掲カット)に似た、約2メートル30センチ四方の空間である。
その廊下側の窓を木材で加工したところ、「女郎部屋」ならぬ「座敷牢」の趣(上掲photo)となった。

ところで現役の牢屋で思いを致すのは、世界的にも稀かつ悪名高い日本の被疑者拘束施設すなわち警察の「留置場(所)」である。
もちろんエアコンなどは望むべくもなく、その存在と「保釈」を忌避した長期勾留はそれだけで刑罰兼拷問・自白強要と何ら変わるところがないからである。日本の冤罪の根源には、前近代から継承する「しょっ引いて来て吐くまで敲く」留置場(所)が存在するのである。

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さて「座敷牢」のある拙宅は、69年に竣工した古マンションではあるが標高約68メートル、駅から3分、向かいに都立庭園の樹々を見下ろす、位置的には比較的快適な棲みかではある。
しかしながらいくつかの問題が浮上した。
近年1階入口をオートロックに改修して不要となった各階廊下側窓の防犯格子が取り払われため、夏期の窓の開け放しが不可能となったのである。
エアコンを滅多に使用せずもっぱら南北の通風でしのいできたから、それは困る。
ホームセンターで木材を購入、新たに内窓格子をつくり付け「座敷牢」が出現したのではあった。
しかしこの暑さである。
窓開けだけでは如何ともし難く、1800円の小型扇風機を購入して後方に冷凍ペットボトルを立て、「冷風扇」を真似て夜の睡眠時間を繋ぎ留めた。

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ところでベランダのない古マンションは消防法違反でもあり、新たに戸別のベランダをつけてくれたのはいいけれど、エアコン室外機の置き場所設計を建物に対して90度向きにしたため、ベランダは熱のプール状態となって鉢植えなどは早晩枯れてしまう。
それ以上に問題なのは、室外機は背面から空気を吸い込み、正面から熱気を吐き出すのであるが、この場合背面側の空気取り入れ口のスペースが熱溜りの底側にあたるため、電力消費上まことに効率の悪い設置構造となっているのである。

似た状態は、地階の駐輪場にも指摘できる。
そこは商店街のエアコン室外機置場でもあるのに、隣地から侵入されないよう建材でぴっちり閉塞した結果、夏は猛烈な熱気充満地帯となってしまった。
さらに自働開閉ドアと自働ロックドアの間が、大きな二重ガラス空間となっている1階の出入口も問題である。
開口部がどこにも設けられていないため夏は熱がこもり、台風時は風圧で電動ドアの機能が麻痺し、扉が開かなくなるのである。

設計ないし施工発注者は電力に拠りかかって、熱(廃熱)と力の逃げ道つまり通風を、軽視というよりほとんど無視したのである。
千年どころか万年単位の気候変動期にあたって、熱力学に留意しない建築関係者は論外である。

東京圏は、おそらく地表上もっとも大規模に大気の廃熱ドームで覆われたエリアとなっているはずである。廃熱ドームをつくりだしているのは、もっぱら自動車等の排気ガスやエアコン等の廃熱である。近ごろ耳目にする「二層の高気圧」も加えて、ドームは「閉じた系」として現出しているのである。
熱力学の第一法則および第二法則は体験として知覚できる。
クーラーと無縁の生活保護受給高齢者が熱中症で亡くなるのは、「鉱山のカナリア」に似る。
エアコンが生存に不可欠となるのは、それだけ日常生活が宇宙船的人工環境に近づくことであり、同時に人間世界の終末時計が早まることでもある。

新型ウィルス市中感染の猛暑、エアコンなしの「座敷牢」閉居は、「私テフ獄ニ一生鉦叩(カネタタキ)」(『天軆地圖』p.77)「吾といふ檻(をり)腐(くた)るまでシヲマネキ」同、p.260)のエクササイズと自覚すればよいか。

しかし折角曲の付された「さくら横ちょう」ではあるが、「歌曲」となっては韻律や律動を楽しむことは難しい。
音数律も音韻律も、二つながらにアーティフィッシャルな(わざとらしい)旋律(melody) のなかに埋没してしまうからである。

埋没してしまうといえば、和歌である。
かるた取り(百人一首)や宮中歌会などでよく耳にする歌の読み(吟詠)は、儀式化され、高音を旨とし、やたら母音が引き延ばされて韻律は音としてはほとんど奪われ、無意味化している。
声明などの仏教経典披唱の影響であろうが、この音式が高位規範とされた結果、日本の詩歌は大きな変容を被ったとみなければならない。
つまり音として生き残ったのは、辛うじて音数律だけだったのである。

一方、近代における詩歌は、出版つまり紙と活字印刷の掌(たなごころ)の上にあった。音はせいぜいが目と脳の内側で視認されたにすぎない。
近代から現代にかけての日本語詩歌の栄光も虚像も、すべて紙の上のできごと、あるいは視覚の音であった。現代詩が意味ないし字像主体となって音声や律動を疎外したのは当然の成り行きであった。
そのいわば究極の到達点に、次のような作品が屹立することになる。

イエスは蒼白の顔を痙攣させて「枯れよ」とののしつた
紀元三十年四月三日月曜日の朝、痩せた一本の無花果に
弱者を鞭打つ冷ややかな言葉のまかりとほるのが神の國
ならば無花果に代つて、私が見事受けて見せうこの叱咤

あなたは果して實つたかベタニヤの無花果よりも疾くに
枯れねばならぬ不毛性を、マリアとともにこのとき知つた
あなたの母は虚妄を寝かしつけ續ける孤獨な留守番子守(ベビーシッター)
更に孤獨な男、ヨセフの名を猩猩緋で書かう鈍色の幕に

無花果は枯れた振りをする。四月七日昏い午後三時まで
佯狂にも陽死にも馴らされたからその鮮やかな枯やう
微笑しつつ眺める煉獄の夕映とその世界の終りの空模様

それ以後あなたの手はこの世の憎しみを掻きよせる熊手
無花果は蘇つて創口から乳白の液をとめともなく滴らす
ありもしないあしたが見えながら言葉の凍りつくテラス
(塚本邦雄、無花果 Ficus Carica L.)

脚韻を シッタ・クニ・クニ・シッタ、クニ・シッタ・シッタ・クニ、デ・ヨウ・ヨウ、デ・ラス・ラス と踏んだ4聯14行詩(ソネット)である。
しかしその韻よりも鮮やかなのは1行25文字、旧漢字で揃えた視覚性であって、鈴木漠は「音数律に代わるものとしてタイポグラフィーが採用された」と評し、さらに「従来のソネットがおおむねその風味とした抒情に代えて、稠密な物語性と、青酸の味をひそませた風刺を核とする、当代の押韻定型詩が現前している」と絶賛した(「押韻の木陰で」『鈴木漠詩集』2001)。
しかしながら、折角のソネット押韻は25文字の末尾、音としては離れすぎて韻律は視覚以外には無意味化し自己満足に終わっている。それは見た目の虚飾すなわち文字通りの「格好付け」にほかならないのである。

戦後詩の主流は目玉を肥大化させ、イメージないし観念の王国と化した結果、身体を失ってしまったのである。
もちろん、詩の朗読会などの試みもある。しかしそれは紙のオフ会とでも言うべき一種の補填行為ないし懇親会の様相が強い。
それに対して「マチネ・ポエティク」が、翼賛詩全盛の戦時下においていわば密かに、意識的に敢行された定型押韻試作朗読会であったことはあらためて想起されてよいだろう。

和歌における吟詠と、日本近代詩歌における印刷文化の規定性を端的に指摘したのは、ゆきゆき亭こやん「日本語と押韻(ライミング)」(第35回詩人会議《新人賞》評論部門受賞作、『詩人会議』2001年5月)であった。
ゆきゆき亭は漢詩、短歌、俳句、近代詩を並行して制作しつつ「韻を踏むことを勧むる者」であった正岡子規に拠り、1980年代以降のヒップホップからラップまでの歌詞変容を概観し、日本現代詩における押韻(rhyming)の復活を前提として「今、その刺激剤の役割を果たしているのが、俳人でも歌人でも詩人でもなく、ラッパーなのである」と主張した。

この主張が詩壇、歌壇、俳壇と蛸壺化した日本現代詩歌界にどれだけ受け入れられたのか寡聞にして知らないが、実質上ほとんど無視されたと思われる。
しかしながら近年の巨大なメディア変容が、この主張を予言化するであろうことは疑いない。
文字以前「うた」はまず音律として存在したであろうし、出版(紙)文化以後、それは映像として一般化するからである。
そのかぎりにおいて、詩歌の「身体性」が復活するのである。

ところで現代詩から出発して『ことばあそびうた』(1973年)『ことばあそびうた また』(1981年)など、音律を身体表現上の可能性として実現した谷川俊太郎は、次のように発言している。

「現代詩は終わっているんですよ、でも詩は残っています。私小説が終わったのと同じようなものじゃないか」
「もう詩人じゃなくなりつつあるというのがおれのうまい転身の仕方だと思うね。もう芸人になってるんだもの。活字に頼らないで声に頼ってやっているわけでしょう」
(谷川俊太郎・高橋源一郎・平田俊子『日本語を生きる』21世紀文学の創造・別巻、2003年、pp.241-242)

ヴェルレーヌや萩原朔太郎は詩の「音楽性」にこだわったが、谷川俊太郎はまずひらがなだけの作品でイノセントな言葉の身体表現の扉を開いてみせた。
その詩人の出発が、かの三好達治の推薦による(『文学界』1950年12月号)ものであったとはアイロニカルな話である。

「ソネット」拙作は音数律のみの14行詩で、押韻したわけではなかった。
それは音楽性以前の、律動であった。
そこに目指されていたのは詩の音楽性ではなく、詩の身体性である。
しかしながら昨今頻りに頭に浮かぶのは、交互韻(クロス・ライム)をもつ次の4行である。

Are you going to Scarborough Fair
Parsley, sage, rosemary and thyme
Remember me to one who lives there
She once was a true love of mine

わが短詩と音律は「行ゑもしらすはてもなし」ではあるけれど、短詩あそびとラップが流入し合う地平を夢想してもいる。

残菊やニッポン混血すればよい (『天軆地圖』2020、p.181)

話をもとにもどして、三好達治によって三番煎じついでに「私にはいつかうつまらなかつたといふこと」と切り捨てられた「マチネ・ポエティク」の試みだが、私には結構おもしろかった。
それはとりわけRONDELSと脇付け題された、加藤周一の「雨と風」そして「さくら横ちよう」の2篇である。

雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい
火鉢につぎ足す炭もない
今晩ばかりは金もなく

食べるものさへ見当らない
飢ゑと寒さのていたらく
雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい

どうなることかと情けなく
つらく悲しく馬鹿らしい
どうせ望みも夢もない
道化芝居のそのあげく
雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい
(雨と風, 1943)

春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう
想出す 恋の昨日
君はもうこゝにゐないと

あゝ いつも 花の女王
ほゝえんだ夢ふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう

会ひ見る時はなからう
「その後どう」「しばらくねえ」と
言つたつてはぢまらないと
心得て花でも見よう
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう
(さくら横ちよう, 1943)

三好は日本語詩における「音楽」の不可能を強弁して止まなかったが、「マチネ・ポエティク」の試みのいくつかは、実は中田喜直によって曲がつけられて立派に「音楽」となっていたのである。
すなわち福永武彦「火の鳥」、加藤周一「さくら横ちょう」、原條あき子「髪」そして中村真一郎「真昼の乙女たち」の4歌曲である。
このうち「さくら横ちょう」だけは、別宮貞雄および神戸孝夫も作曲しているから、音楽家にはずいぶんと入れ込まれた詩と言えよう。
ただしいずれも「歌曲」であって、残念ながら素人が口ずさむというわけにはいかない。

そうして「さくら横ちょう」は、歌曲のみならず詩碑としても存在するのである。
渋谷区東1丁目、金王(こんのう)神社前の八幡通りから東南に分岐し常盤松小学校へ下るゆるい坂露地の左手ビル前に、それは2016年4月に建立された。
下の写真は現在の「桜横丁」で、写真奥の電柱と電線が被る高層ビルは國學院大學の校舎。
当の詩碑は写真1枚目では左下、羊をかたどったという繭型の花崗岩碑である。

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加藤の生家は金王町にあり、この横丁が常盤松尋常小学校への通学路にあたっていた。
桜並木は一掃され面影もないが、横丁の突き当り、八幡通り沿いの「魚玉」は現在四代目によって維持されている、この地で百年以上つづく魚屋である。
また金王八幡境内は中世城郭跡、その前の八幡通りは北は勢揃(せいぞろい)坂につづき南は目切(めきり)坂を経て目黒川に架かる宿山(しゅくやま)橋に向かう、古鎌倉街道と目される経路で、中世の今様に通う味わいの詩にはまことに相応しい場所だったのである。

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