そのヴェルレーヌの、「詩法」(Art poétique)と名づけられた9詩節の短詩は、「何よりも先に、音楽を」という詩句で始まる。
De la musique avant toute chose,
Et pour cela préfère l’Impair
Plus vague et plus soluble dans l’air,
Sans rien en lui qui pèse ou qui pose.
何よりも先に、音楽を。
そのために、奇数を好むこと。
おぼろげで、大気に溶け込みやすく、
奇数の中には、重さも、固定した感じもない。
(https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/から引用)
上掲は冒頭から4詩節のみだが、原文は文字をみただけでも脚韻が踏まれているのがわかる。
フランス象徴詩は音楽性を重視し、なかでも「ヴェルレーヌ自身大変に音楽的な詩人であり、彼の詩は数多くの作曲家によって曲を付けられ、現在でもしばしば歌われている」(同前)という。
三好が「萩原朔太郎氏へのお答へ」で意図的に日本語詩の「音韻」と「音楽性」を否定したのは理由があった。
それは1935年4月に第一書房から刊行された萩原の『純正詩論』において、ヴェルレーヌが言うように詩の「音楽性」がとりわけ強調されていたからである。それは同書の一篇「和歌の韻律について」(1976年刊全集第九巻、pp.19-38)では、「音楽」という言葉が12箇所に使われているのでもわかる。
三好にとっては先輩大詩人の発表した「詩論」であったが、その先輩は「第五高等学校(熊本)第一部乙類(英語文科)浪人入学も翌年落第、第六高等学校(岡山)第一部丙類(ドイツ語文科)転校も翌年落第退学、慶大予科も中退」という「学歴」の持主であるから、フランス詩についてはもちろん三好のほうが圧倒的に「専門家」なのである。
『帝大新聞』において大詩人の新著の瑕疵を暴き、その説を貶めることによって自らの詩人としての地位上昇を謀るのはある意味で当然の所作であった。「萩原朔太郎氏へのお答へ」とは、その末文に「お需めにより、先日の拙文を細説した」とあるように、『帝大新聞』掲載文への萩原の疑問ないし質問に対応した再説明であった。
三好のこの手法は、戦時期をはさんで23年後に後輩たち(中村真一郎と福永武彦は東大仏文、加藤周一は同医学部出身)に再応用される。「マチネ・ポエティク」のソネット押韻の試み、すなわちその音韻、音楽性への否定である。それはまず冒頭において「同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。」と一蹴される。この三好の三番煎じ応用ハードブロウによって、彼らの試みは文学史において「エピソード」として葬られた。
しからば、三好の立論はまっとうなものであったのかと言うと、決してそうではなかったのである。
萩原の「和歌の韻律について」は、三好も「この論文は、本書中白眉のもの」(「日本語の韻律 萩原朔太郎氏著『純正詩論』讀後の感想」『帝大新聞』)と認めるように、今日においてもなお正鵠を射たきわめて重要な指摘として読むことができる。そこには日本語の伝統的な定型詩の音韻効果が具体的かつ実証的に示されているのである。
さらに言えば、三好自身の代表作「雪(太郎を眠らせ)」と「甃(いし)のうへ」が対句と対韻、脚韻による、極めて音楽性をもった詩篇であることも自己矛盾であった。
陸軍幼年学校から同士官学校に入学した経歴をもつ三好の軍人エトスは筋金入りで、三島由紀夫は三好の喧嘩は「文壇最強」と言っていたらしい。
自らを棚に上げ、冒頭においてとりあえず対象への攻撃に集中する手法は常套だったろう。
しかしその攻撃の拠って立つ堡塁は、先に紹介した「朗讀音」云々に似た経験則で、言語学的根拠薄弱にして牽強付会、しかしながら人口に膾炙し易い「日本語特殊論」だったのである。
前掲の三好達治の文章、すなわち日本語詩歌における韻(rhyme)の否定は、直接には中村真一郎や加藤周一、福永武彦らが戦時下に試みた日本語定型押韻詩の戦後の発表(『マチネ・ポエティク詩集』1948年)に対する批判である。
日本語の単語と文法の構造上、詩の押韻は無理無謀とするその主張の核芯は、しかし20年以上前の書きものの二番、否、三番煎じであった。
その初回は1935年5月6日号の『帝国大學新聞』に発表した「日本語の韻律 ー萩原朔太郎著『純正詩論』讀後の感想」であり、次は同年11月号『四季』に掲載された「燈下言」(後、「萩原朔太郎氏へのお答へ」と改題)であった。
1935年と1958年、ほぼ四半世紀の間に存在したのは、国家国民の「総力」をあげて遂行された15年間にわたる戦争とその結果としての敗戦であることは注意されてよい。
中村らの『マチネ・ポエティク詩集』は、ヨーロッパのソネット形式を範として、日本語14行詩での押韻を試みたのだが、wikipediaの「ソネット」の項は、その末尾で「近代日本では蒲原有明が初めて紹介したが、音韻体系が全く異なる日本語とはうまく合わず、立原道造らが行数を取り入れたにとどまる。その後は福永武彦らのマチネ・ポエティクが本格的な日本語ソネットの創作を試みたが、三好達治による厳しい批判を受け、日本語ソネットの試みは頓挫した」と書いている。
「本格的」というのは、それまでの日本語の「ソネット」が、おおむね単に4+4+3+3=14という行数あわせにとどまっていたのに対し、実際に脚韻を踏む詩作を行ったことを指している。wikipediaの書き手が三好の説を「厳しい批判」と言うからには、それが当を得ているという判断が前提だろうが、果たしてどうであろうか。
そもそも三好達治の「萩原朔太郎氏へのお答へ」は、萩原の唱える「日本詩歌の音楽性」に対し、それを「無用の要素」と退けるものであった。
マチネ・ポエティク批判はその焼き直しにすぎないが、注目すべきは「お答へ」の冒頭に披瀝されている自説の「具体的な動機」で、それは日本語詩朗読の放送やレコードの「悉くが、文字通りの意味で、聞くに耐へない、非藝術的な、醜陋な感銘を與へるのを、爭ふ餘地のない確かさで實感」したが、それに対して「フランスあたりの俳優が、ヴェルレエヌやボオドレエルの詩を朗讀してゐる、そのレコードを時折聽いてみますのに、決して、我が諸君子の朗讀を聽く場合のやうな、嫌惡を感ずることはないやうです。もともと、唐人の藝術は解りにくいもの故、自主的に、好惡の感情を働かせる境にまで、たち到り難いのかもしれません。だがとにかく、それらの朗讀によつて、それらの詩歌の、意味なり價値なりを、補足され深められたやうに覺えることが、一再ではありません。總括していつて、耳に聽きながら、樂しいのです」というのである。
三好説の根拠には、自身の対照的な二様の「音の経験」があると言う。
それらをまともに聴く機会をもたない者にも、三好の言う「経験」は想像できないものではない。日本の詩歌はたしかに音としては平板であろう、と肯ずる者が大半だろう。
それは何故だろうか。
結論を先に言ってしまえば、それは我々のほとんどが、もっぱら日本語の音と意味の中に浸かり、その音と意味をあたりまえ(平俗)として疑わない島国の日常に生きているからである。そうして「規範」は常に島の外、海外にあって、いくつかの周期波長を以て拝外主義と排外主義を繰り返してきたからである。さらに言えば、拝外主義と排外主義周期の動源には、常に「日本語」による「日本(語)特殊論」ないしは「日本(語)特殊意識」が横たわっているからである。
日本における詩の規範は、かつては漢詩であり、近代にあってはフランス象徴詩であった。
三好は「マチネ・ポエテイクの試作に就て」の末尾近くで次のように言っている。
「最後に斷つておく、定型押韻詩を以て、詩型の至上完璧なものと考へるのは、私と雖もマチネ・ポエテイクの諸君子と共に同感だ。これを邦語に移して可能と考へない點で諸君と異なるのみ」
東京帝国大学文学部仏文科に学び、卒業研究にヴェルレーヌを選んだ三好にとって「詩型の至上完璧なもの」とはフランス象徴詩にほかならなかった。
音楽の発生は「音の律動」にあり、詩歌の根源には「ことば(音)の律動」がある。
律動とはリズムであり、リズムとは音の長短、高低と強弱(アクセント)を含む同音ないし類似音の繰り返しである。
個の魂の震えが先であったか、共同性の効用ないしは必要(婚姻や狩猟、祭祀や戦いなど)に発したかは措くとして、「うた」はまずもって「音」であり、その律動であった。
日本語詩歌における律動の基本は音数律(正確には音節数律)であり、漢詩および欧米詩におけるそれは押韻律である。
いずれにおいても「定型詩」とは、この律動の伝統的な形式に沿ったものを言う。
しかしながら、定型詩における音数律と押韻律の違いはどこに起因するか。
三好達治は次のように言っている(「マチネ・ポエテイクの試作に就て」『三好達治全集』第四巻、1965年、pp.130-141から。初出は『世界文學』1958年4月号)。
「(日本語の)押韻そのものの、聲韻的價値が、ヴァルールが、甚だしく貧弱にすぎるからだと見たい。由來日本語の聲韻的性質が、さういふ目的のためには困つた代もので、單語の一語一語に就て見ても、母音が常に小刻みに、語の到るところに、まんべんなく散在してゐて、常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に單調に連續する、――かういふ語の聲韻上の性質を、言語學の方ではどう呼ぶか、とにかくその點、徹底的に平板に出來てゐる。子音の重責集約が語を息づまらせるといふ障碍作用もなければ、母音の重疊纍加が語の發聲をその部分で支配的に力づけるといふ特色もない。」
簡単に言えば、日本語の母音は5つしかなく、音節の基本はその数少ない母音によって成り立っていていわば母音が遍在するため、韻を踏もうにもその効果がなく、詩歌にそれを用いるのは適さないとする。
さらに日本語の構造の面から、日本語詩脚韻の試みに対し、次のようにたたみかける。
「問題は措辭法に関聯する。邦語に於ける措辭法は、主語客語の後に、命題の末尾に到つて動詞を以て修束する。これを語法の通則とするが、通則は散文韻文を通じて原則と見なしていい。措辭の轉置はもとより許されるにしても、これは例外で、本來雅正でなく、奇警膚淺の弊があつて、特に連用を忌む。これ位のことは誰しも承知のこととして、さて、命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中國語や歐羅波の場合當然その位置を占めるべき名詞の數に比して、比較にもならぬ位その語彙は少數だ。しかもその上いけないことに、その少數の動詞中、極めて少數の數箇のものは、排他的に、壓倒的の頻度をもって必ず常に顔を出す。邦語における語尾(文章語口語を通じて)の單調は凡そ筆をとるほどのものの常になやまされているところで、我々はその點でほとんど鈍磨した神經を以て平素文章を草してゐるといつてもいい位だ。/この語法を以て詩に於ける脚韻を押さうとするのは、無理だ。一言にいつて、元来が無謀だ。/私は詩に於ける押韻、――脚韻を踏まうとする試みの前途をはばむ障碍として、過去にも現在にも、また未來にも、この點を最大の難關と考へる。この宿命は致命的だ。改革の餘地がなく、工夫の餘地がない。」
日本語の基本センテンスの末尾は外国語に比べて類の少ない動詞や形容詞・形容動詞となるが、それは脚韻を踏むには致命的な構造である。したがって日本語の詩歌に押韻を試みるのは無謀であると言うのである。
前回「出来はよくない」と言ったのは、苦心惨憺しても情景を適切に構成し得ないからだが、一方では「音」の選択と排列に満足を得ていないからでもある。
31音(短歌)部に限定し、ローマ字表記にして見ると、「アブラナハーー」の音は
aburanawa kinotadanakani hashiariki dotenokodakaki nawatachimachiki
と第2句目から4句目の末尾の母音がすべて i、しかも第3句から第5句の尾音節はみな ki 音で揃えている。
つまり1首5句中、第3、4、5句で韻を踏んでいるのである。
また全体を通して使われているもっとも多い母音は a で16、次に多いのは i 母音 で9、それぞれ63文字中25パーセント、14パーセント強を占める。
しかしながら、この1首中もっとも強い音韻上のアクセントは2句首部におかれた ki にあって、それは音のみならず、文字(漢字)としてもカラーイメージとしても、もっとも強烈に全体を統御している。
最多 a 母音は、喉を拡げ外に向かう強い外向性をもつ。すなわち対象へのデザィアを象徴し、次に多い i はその反対向きのベクトルを特徴として、閉じ、制止する。未知の領域へ踏み出す恐れを反映した母音である。
憧憬の下に不安が盤踞している、幼い恋情のかたちを描きえたと思う。
こうした音韻上の細工は「愉しかりしーー」の場合、第3句目の末尾「消ゆ」と第5句末尾の「梅雨(つゆ)」で押韻したこと、また第4句頭と第5句末に連続する u 母音を置いたことである。
u 母音はくぐもり、停滞性を暗示する。長雨のなか、消失した時間と空間の間に佇む抒情を表わし得たとは言えるだろう。
しかし「アブラナハーー」の a 母音とそれを制動する i 母音、そして ki 音連打のリズムには到底及ばないのである。
失敗は当然として、20年前の拙著で「言語表現の実験」の挙句「軽みのある定型に到達」、とは今回上野千鶴子さんからいただいた葉書の評言である。
『短詩計畫第二 天軆地圖』は平仮名書きとし、 5 7 5 を1篇とする表現が圧倒的に多い。つまり「俳句」が卓越する。
また前作では旧字や片仮名を原則としたため、今度の本とは印象がだいぶ異なるのである。だから「軽みのある定型」つまり俳句に「行った」と思われるのは致し方ないことかも知れない。しかし僭越ながらよく眺めていただければ、軽みとは対極の情念を将来する17音が1つや2つでないことはすぐわかるはずである。
これも今度の本を差し上げた結果いただいた黒田杏子さんからの郵送物だが、「句集拝受」とメモがあって、「藍生(あおい)俳句会」の会誌『藍生』と投句用紙が同封されていた。主宰される結社へのご招待に与かったわけで、恐縮の至りである。
しかし、この「第二」は句集ではなくあくまでも詩集で、ただし日本語の 5音と7音を主体とする、定型短詩の「実験」であるのは前著と変わりはない。
俳句であれ短歌であれ、それをプロパーとしてやっている自覚も、これからやるつもりも実はない。
世話役を担っている仲間内句会の行きがかり上、17音形が多くなってしまったが、わが表現の領域に俳句も短歌も川柳も、区別はない。
それらは日本語に拠る定型短詩のヴァリアントにすぎないからである。
48音節1篇の試みは、現在もときどき手掛けることがある。
出来はよくないが、「アブラナハーー」の幼時初恋の記憶に対となる、近時認めた結婚直後の回顧は以下のとおりである。
「愉しかりし露地奥小家跡は消ゆ
古き直道(ひたみち)駅見えぬ梅雨
新婚の線香花火二袋」
画像は2000年8月に刊行した『短詩計畫 身體地圖』の函のおもて面である。
深夜叢書社版で、社主の齋藤愼爾氏が過分の帯文を書いてくださった。
また氏の奨めにより、幾人かの方々にこの本をお送りした。
そのようなものをいただけるとは思ってもいなかったのだが、礼状というか感想というか、何人かの方々から葉書や手紙を頂戴した。
哲学者の木田元さんや社会学者の上野千鶴子さん、漫画家のみつはしちかこさん、そして先だって蛇笏賞を受賞された柿本多映さんなどであった。
木田さんの葉書には具体的にこの句がいいと書いてくださって、感激した。
しかししばらくして鬼籍に入られてしまい(2014年)、先般刊行した『短詩計畫第二 天軆地圖』をお目にかけることは叶わなかった。
上野千鶴子さんからは、今回も葉書をいただいた。
20年前の拙著を憶えていてくださって、あれは詩の「実験」とあった。
なるほどそうか、勝手な試みのつもりだったが、実験ととらえたほうが明晰だなと感心した。
この『短詩計畫 身軆地圖』では、すべてにわたって1ページに3聯から成る短詩1篇を掲げ、全110篇を収めた。たとえばp.120は次のごとくである。
「アブラナハ 黄ノ只中ニ 木橋(ハシ)アリキ
土手ノ小高キ 汝(ナ)ハ立チ待チキ
息ツメテ 木橋目指シケリ 六ツノ春」
ご覧のように、5 7 5 / 7 7 / 5 7 5 の3行、計48音節で構成される。
つまり31音の短歌1首と17音の俳句1句の組合せなのである。
「短詩計畫(第一)」は全体を通してこの「短歌+俳句」を通した。
この形式は、長歌(5 7 5 7 5 7 ・・・・5 7 7)に対して反歌(5 7 5)を添える形式にヒントを得、仮名はすべて片仮名としつつ、短歌にも俳句にも与せぬ方途を試みたつもりであった。別の言い方をすれば、古典である「長歌+31音反歌」形式に対して、「短歌+17音反歌」を1セットとする俳句でも短歌でもない、新しい日本語定型短詩の「実験」であった。
ちなみに上記の1篇は、今月8日の本欄「春暈」とほぼ同舞台であるが、同じ「木橋」とは言ってもこちらは170mほど離れ、用水のいわば本流(七郷堀)の高土手の間に設けられた、大きいほうの橋を指している。
さてこの「実験」が失敗、成功いずれに帰したかといえば、世上流通する俳句、短歌および現代詩の3潮流の狭間に零れ、どこからも一顧だにされなかった、つまり当然ながら失敗したとしか言いようがないのである。
梅雨の隙(ひま)
空には光
天の際
刷毛の薄藍
雲少し
浮び躊躇(ためら)ふ
尾根外れ
羊歯(しだ)葉の間(あはひ)
谷地下り
なほも下れば
かの光
かなたし梢枝(こずゑ)
知らぬ鳥
此彼啼き交はす
葦原に
蛇柳(じゃやなぎ)点じ
半夏生
花穂並(な)む湫地(くてち)
榎枝
木陰休らひ
いにしへの
干潟過ぐれば
入江はや
上げの漣(さざなみ)
岩棚に
散り群れる蜷(にな)
踏み避(よ)けて
波食窪(はしょくくぼ)触(ふ)る
『短詩計畫第二 天軆地圖』pp.224-227から
写真は三浦市小網代の谷戸と入江 2019年6月13日撮影
写真は自作の踏み台で、Step up and downと呼ばれるフィットネス・エクササイズのための器具である。
蹴上(高さ)15cm、踏面(奥行)14.4cm、段幅42cm。木質稠密な本棚の棚板の余りを束ねてガムテープで巻いただけのもので、そのための制作費は0円。重いが、使い心地は悪くない。踏面と段幅が狭いのは、裸足のエクササイズには土踏まずを刺激してむしろ効果的である。
踏み段の上り下りを、10分間すなわち600秒で1000歩以上、1日2~3セット。
今どきの気候だと、1セット終了後にはどっと汗が噴き出す。
日当りと風通しの両方に恵まれた寓居で、エアコンを作動させることはめったにないからでもあるのだが。
日課のエクササイズはこれ以外は機器不要で、SquatとPush-ups、ならびにyoga式自己流腰痛対応のStretchで1コースである。実行の順序は如上の逆で朝のStretchからスタートする。
ただしその日のうちに徒歩や自転車で相応のカロリー消費がある場合は、Step Up and Downはスキップする。
これらは、感染症市中蔓延下の梅雨時、フィットネスジム通いや自家用機器のための金もなく気持ちもなく、エアー縄跳びもはばかられる古マンション住まいに適い、とりわけ当方のような低体温、低血圧体質には欠かせないプロセスである。
「踏み台昇降」でインターネット検索すれば、ただちに2千円から2万円までAmazonなどの運動グッズの画像ページが出現するが、とりわけ課税回避を追求するほとんど反社会的グローバル・ガリバー企業主にはすこしでも利益を与える気はない。版元としても、現在Amazonにはほとんど商品提供はしていない。システムに電話などのヒューマン回路を完全シャットアウトしている企業は、こちらから願い下げである。
そもそも手触りや重量、温湿度感、匂いなどのFetishismを経由することなくモノを買うのは、ヒトの感性ないし身体性への冒涜である。
液晶画面とヒャッキン店頭に並ぶモノの大半は、身辺から追放したいプラスチック製品でもある。腐らない、錆びないモノはまずは疑い、とりあえず買うことはなさざるべし。
前記事にひきつづき『短詩計畫第二 天軆地圖』所収「春暈」にかかわる旧写真。
1951年頃
1954年頃
1957年頃
板垣囲ム
汝ガ家前ハ
白樫小藪
曲ル瀬ノ渦
吾ガ家裏ハ
櫻ノ小川
木橋ニ腹這ヒ
見詰メテヰタ
水面瓣渦(ミヅモハナウヅ)
立チテ指呼セン
雙水ノ閒
木立家影
茫々タリ黄
菜ノ花ノ渦
*最新刊『短詩計畫第二 天軆地圖』pp.218-219から、14行詩(Sonnet)「春暈」。
1954年頃の生家裏の記憶。
生家旧住所は、仙台市南小泉八軒小路92の10(西文化)。
用水路を隔てて、旧伊達家の農園「養種園」がひろがっていった。
貨物鉄道敷設にかかり1958年に同南小泉字屋敷14の22に転居。
上掲写真は1955年頃の生家裏、下は同所2020年、いずれも初夏。
手前の用水路は七郷堀の分水「鞍配アンバイ堀」(この名は最近知った)。