10月 7th, 2020
下僕国家
摘発の予感におびえ政治の表面からトンズラしたアベの最大の功罪というより罪悪は、意のままになる官僚のみの体制をつくりあげ下僕化させたことだが、それをひきついだアベアバタースガが日本学術会議の下僕化をあらわにした。
学術会議メンバーは公務員だから任免権は政府にあるという論理だ。
バカを言ってはいけない。
首相は企業の社長だと言っているというか思っているのだが、そうだとすれば政治家が政治のイロハを弁えていないということになる。
ソーリダイジンは私企業のトップとは異なる。
公共性のトップでなければならない。
こんなことはプラトンの『国家』を読むまでもない。
学術は科学性以外の下僕であってはならない。
そうして公共性は科学にもとづかねば破綻する。
したがって次の定式のうち、左項が常に上位でなければならない。
科学≧学術>公共性≧国家>首長
権力は、自身の恣(私)意性を束縛されなければならない。
モンテスキューはそれを「三権分立」として定式化した。
それは一種の技術だが、アベ政治のもとでそれすら弁えていない政治家や官僚が近年の列島に叢生した。
「憲法」や「立憲」の意味を知らない選挙民と政治家も叢生した。
式をもっと単純化すれば
客観性>恣(私)意性
となる。
ヒトが歴史的に積み上げてきた英知、これを学術と言い換えてもいいが、その英知が上の二つの定式に込められている。それは、権力は常に恣意の誘惑にさらされていて、権力者は上の式の逆の磁場に存在するからである。
これらもっとも基本的な定式を了解せず、恣意の誘惑に抵抗しない政治は破綻を運命づけられている。
学術をおのれの下僕と見做す国家に未来はない。
「学問の自由」という言葉は「自由のはきちがえ」などといって誤解される。
むしろ「学の独立」こそが適切だが、さてその文句を「校歌」にもつどこぞの大学のトップは、この事態に対してその「精神」を示すのかどうか。
「経営」や「経済」なんぞを理由に逡巡するようなら、そんな「大学」はツブレてしまっていいのである。
わが加盟するいくつかの学術団体が、この事態にどう対処するかも見物である。
ドレイの主人はそれ自身がドレイである。
この格言は永遠である。
「学の独立」を』虚偽看板にしている、そんな「大学」はツブレてしまっていい、同様に昭和24年の決意表明が風化した日本学術会議も解散して何の不都合もないと、背広を着た「学者」に私怨を抱く私は思います。
菅首相は「10億の税金を使っている団体の人事には国民の負託を得た俺が責任を持って決める」と言っていますが、昨6日の官房長官会見で、10億のうち210人の会員手当てが4500万円、事務局常勤職員50人の人件費が4億円(旅費等別)と開示しました。微々たる報酬の貴族学者200人に800万平均の高給官僚が50人(4人に1人、幼稚園・重度障害者以上)下僕としているわけです。実質は官僚の忖度思惑作文を「学術提言」に箔付けするために臨時会議に出席する「学者」がすでに下僕化しているのです。歴研や歴科協が政府官邸の介入に反対するのは是としても学術会議を守れと言ってはいけません。件のフクシマに如何なる「提言」をしてきたか、現代史としてつぶさにたどれば、山本義隆のいない学術会議などに期待できないことは歴然でしょう。
ドレイの主人はそれ自身がドレイです。日本人民の解放のためには天皇の人間的解放が必要だと『五勺の酒』を酌んだ中野重治はそれを直感していました。
学術会議を本来の姿に再生させる以外に勝ち目はないでしょう。
先のコメントに、念のため誤解回避の補足です。
東大解体のスローガンが機動隊と文部省によって実現するのを喜んではいけないのと同じく、学術会議が菅官邸によってスポイルされるのは阻止されなければいけません。安倍・菅政権に対する批判・抗議は必要です。首相の成功体験にしてはいけません。
希望的ですが、学術会議の会員自体が下僕の地位に甘んじるのを拒否して闘う、あるいは辞任すればいいと思います。その定員割れの補欠選任を国民環視の下で実施すれば、それこそ「見物」です。
そのような気骨ある会員が一人も出ないようなサロンは即刻解散して、あの豪勢なビルは感染症隔離施設にして、贅禄を食んでいた50人の国家公務員を改めてそこに出向させるべきです。