話をもとにもどして、三好達治によって三番煎じついでに「私にはいつかうつまらなかつたといふこと」と切り捨てられた「マチネ・ポエティク」の試みだが、私には結構おもしろかった。
それはとりわけRONDELSと脇付け題された、加藤周一の「雨と風」そして「さくら横ちよう」の2篇である。

雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい
火鉢につぎ足す炭もない
今晩ばかりは金もなく

食べるものさへ見当らない
飢ゑと寒さのていたらく
雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい

どうなることかと情けなく
つらく悲しく馬鹿らしい
どうせ望みも夢もない
道化芝居のそのあげく
雨が降つてる 戸をたたく
風もどうやら出たらしい
(雨と風, 1943)

春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう
想出す 恋の昨日
君はもうこゝにゐないと

あゝ いつも 花の女王
ほゝえんだ夢ふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう

会ひ見る時はなからう
「その後どう」「しばらくねえ」と
言つたつてはぢまらないと
心得て花でも見よう
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちよう
(さくら横ちよう, 1943)

三好は日本語詩における「音楽」の不可能を強弁して止まなかったが、「マチネ・ポエティク」の試みのいくつかは、実は中田喜直によって曲がつけられて立派に「音楽」となっていたのである。
すなわち福永武彦「火の鳥」、加藤周一「さくら横ちょう」、原條あき子「髪」そして中村真一郎「真昼の乙女たち」の4歌曲である。
このうち「さくら横ちょう」だけは、別宮貞雄および神戸孝夫も作曲しているから、音楽家にはずいぶんと入れ込まれた詩と言えよう。
ただしいずれも「歌曲」であって、残念ながら素人が口ずさむというわけにはいかない。

そうして「さくら横ちょう」は、歌曲のみならず詩碑としても存在するのである。
渋谷区東1丁目、金王(こんのう)神社前の八幡通りから東南に分岐し常盤松小学校へ下るゆるい坂露地の左手ビル前に、それは2016年4月に建立された。
下の写真は現在の「桜横丁」で、写真奥の電柱と電線が被る高層ビルは國學院大學の校舎。
当の詩碑は写真1枚目では左下、羊をかたどったという繭型の花崗岩碑である。

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加藤の生家は金王町にあり、この横丁が常盤松尋常小学校への通学路にあたっていた。
桜並木は一掃され面影もないが、横丁の突き当り、八幡通り沿いの「魚玉」は現在四代目によって維持されている、この地で百年以上つづく魚屋である。
また金王八幡境内は中世城郭跡、その前の八幡通りは北は勢揃(せいぞろい)坂につづき南は目切(めきり)坂を経て目黒川に架かる宿山(しゅくやま)橋に向かう、古鎌倉街道と目される経路で、中世の今様に通う味わいの詩にはまことに相応しい場所だったのである。

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