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どうってこたあねえよ
朝鮮野郎の血を吸って咲く菊の花さ
かっぱらっていった鉄の器を溶かして鍛え上げた日本刀さ
何が大胆だって、お前は知らなかったのか
悲愴凄惨で、まったく凄惨このうえもなく凄惨悲愴で
凄惨な神風もどうってこたあねえよ
朝鮮野郎のアジュッカリを狂ったようにむさぼり食らい、狂っちまった
風だよ、狂っちまった
お前の死は植民地に
飢(ひ)あがり、病み衰え、ひっくくられたまま叫び燃える植民地の
死のうえに降る雨だよ
歴史の死を呼びよせる
古い軍歌さ、どうってこたあねえよ
素っ裸の女兵が素っ裸の娼婦の間に割りこんでつっ立ち
好きなように歌いまくる狂ちがいの軍歌さ
(「アジュッカリ神風 ―三島由紀夫へ」)

*金芝河(キムジハ)著、渋谷仙太郎訳『長い暗闇の彼方に』(1971年初版)のエピグラフ。訳注「アジュッカリは植物のヒマ。これからとれる油で第二次大戦末期のガソリン不足を補おうと朝鮮でも大々的に植えさせた。神風も結局は朝鮮人の犠牲の上になりたっていることをさす」。三島由紀夫こと平岡公威(ヒラオカキミタケ)の死は1970年11月。

三島由紀夫の死に反対する。三島の死が含んでいるあらゆる意味、政治的なものであれ、芸術的なものであれ、いっさいの社会的な意味に対して私は反対する。ただ、個人的なもの、ひとりの人間の生命の終焉がもたらす悲しみのみ受入れる。
ある者は、かれの死をひとりの真の芸術家の美しい自己完成だと讃嘆する。またある者はかれの死を政治的なものとしてではなく、きわめて個人的な動機によるものとして認めるべき点もあるという。私は反対だ。これらすべての逃げ口上にたいして断固として。なぜならばかれの死はあきらかにわれわれの死。韓国民族のいまひとたびの魂の死を呼ぶ身の毛もよだつ軍歌であるからだ。
この種の素材を師に扱う場合、いつも感じる難しさがある。いまだにわれわれは現実と現実のさまざまの衝撃からあまりに遠くはなれていて、それらを息づまるほど、そして余裕綽々と取り扱うにはそぐわない詩形式のあるパターンのなかにとじこめられている。これを打ちこわさなければならないのに。打ちこわし、たたきのめさねばならないのに、いまはまだその時期ではないかにみえる。未熟なままではあるが、書くべきものは書かねばならない。やはり形式より内容が重要なのだから。

**同前、エピグラフ裏面。

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