3月 19th, 2021
3月 19th, 2021
2月 27th, 2021
成増台の大露頭
大森昌衛監修『東京の自然をたずねて 新訂版』(日曜の地学4、1998年)カラー口絵から
以下はキャプション
「成増露頭(板橋区、1981年撮影) 武蔵野台地の代表的地質断面。地層は下から東京層、武蔵野れき層、関東ローム(茶褐色の部分、下限は黄色のPm-1軽石層)。現在、この露頭はコンクリートでおおわれてしまいました(36ページ参照)。」
上掲同書36ページの一部。「百段階段」のある赤塚四丁目の崖は、「かつての成増大露頭」と注記されている。
百段階段は、地上4階建てのマンション「東久パレス赤塚」2棟の東側を上下する。
露頭写真が1981年、マンション竣工は1983年5月だから、マンションの新設と擁壁工事は辻褄が合う。
岩盤ではなく、泥や砂礫、火山灰(ローム)主体の崖は生成後幾許もなくして緑に覆われ、露頭を目にする機会はめったにない。首都圏の露頭は、ほとんどが工事による「一時(いっとき)露頭」である。
長大な崖地は、人家の少ないところは行政体が土地を買い上げて公園とするのがもっとも望ましいが、人家の既に密集しているところでは擁壁を設けて崩壊に備えるほかない。マンション建設は、都による擁壁工事に合わせて行われたものであろう。
以下は拙著『江戸の崖 東京の崖』の冒頭、7ページに掲げた写真とそのキャプション。写真は百段階段の途中から、その西側を撮影した。初刷りは2012年8月だから、擁壁工事約30年後の様相である。それからさらに10年近くを経て、さて「崖」の今日の状態は如何であろうか。
2月 26th, 2021
雛段と階段
照葉樹林北限地に鎮座する陸奥一宮
鹽竈(塩釜)神社の202段石段
雛人形の段飾り1セット7段は「日本文化ヒエラルキー」の端的な発露だが、百段階段と称してその延伸を試みたり、逆にランダムな人形配置でそれを崩してみたりする例もあるようだ。
百段階段と言うと東京は目黒雅叙園のものが有名だが、実際にはその一部しか目にしたことはない。
建物内部に幾層も設けられた、木造階段である。
茨城県北西部、袋田の滝が有名な大子町(だいごまち)の百段階段は、一列の石段に赤毛氈を敷き雛飾りを並べる。
横浜市青葉区美しが丘のそれは雛飾りとは無縁で、「100段階段」と表記からして異なり、「美しが丘小学校下の「百段階段」とそれに続く遊歩道は、この地域のいちばん標高の低いところ (標高49㍍) から一番高いところ(標高83㍍)を包含し、”丘の町・美しが丘”を最短距離で体感できる場所」として名づけたようだ。
巷間「百段階段」と称する所は処々に存在し、拙著『江戸の崖 東京の崖』で紹介した板橋区赤塚四丁目の階段もその例。こちらは北に開けた河成の急斜面に設けられたもの。近年都内で増殖傾向にあるタヌキの出没地帯でもある。
講談「寛永三馬術」、曲垣平九郎で知られる愛宕山の上り坂は俗に「出世の石段」と言うが、こちらは100段に14段不足の86段。
寛永年間に石段が整備されていたか否か実は不明なのだが、海食崖の通例として傾斜は垂直に近く、勾配70%、傾斜角約35度もある。
同じ海食崖斜面でも、陸奥一宮鹽竈(塩釜)神社の表参道石段は、勾配46%、約25度。
しかしながらそれは202段の大階段で、斜辺距離87メートルは、愛宕山27メートルの3倍以上。
つまり比高は36.29メートルと、同15.4メートルの愛宕山の倍以上なのである。
こちらも石段がいつ設けられたのかは定かではないが、おそらく当初は直登坂でなく、いまもある裏参道や七曲り坂のような曲折した坂道が参道だったのだろう。
しかし敢えて塩竃湾入江の谷に向いた大崖に、表参道石段は設られけた。
陸奥国府多賀城政庁前に設けられた階段も緩傾斜なれども大階段で、いずれも蝦夷に対する最前線の祭政庁の前舞台装置。
人をして畏仰せしむる演出である。
雛段は、ミニ・クラシフィケーションのジェンダーデバイスといったところか。
人形一般に言えることだが、「嫁入り先」がみつからないと処分に困るシロモノである。
2月 8th, 2021
My favorite things
わが方丈書斎の木製bureau書台の上に据えた密封ガラス瓶の中身は、本夕仕上げた自家製プリックナンプラーである。
トラチャン(天秤)印ナンプラーに、青唐辛子、ニンニク、レモンを加える。
青唐辛子は2、3掴みを刻み、ニンニクは1玉摺りおろし、レモンは2個ほど絞る。
(砂糖を入れる人がいるが、私は砂糖は使わない)
これで明日から1月以上はもつ。
これがないと、食事そのものに差支える。
小瓶に移して、泊りの遠出にも持参する。
写真向かって左側はアンモナイトの化石、右側はAFN(旧FEN)を聴くための小型ラジオ。
事のついでに、わがbureauまわりの普段は以下のような状態。
上位の棚に並んでいる本のうち、真ん中から左寄りのA5判ハードカバーの3冊は藤森栄一の三部作『かもしかみち』(1972年重版)、『古道』(同)、『峠と路』(1973年)で、黒い箱背はシュライバーの『道の文化史』(1962年)。真ん中あたりが地学関係書、そして中央右寄り「599 BOOK」とあるのが高尾山の博物館で出している『TAKAO 599 MUSEUM 599 BOOK』(大黒大悟、2015年)。
下の段の左端はCartographical Curiosities(Gillan Hill, 1978)で、その棚の中央にみえるグレーのベレー帽の中身は自転車用折畳レザーヘルメットである。
自転車は地下駐輪場に置いてあるから写っていないが、ブリジストンのマークローザ7S、26インチ。
クロスバイクまがい7段ギアのチャリだが、国分寺駅周辺の坂道(国分寺崖線)の大方はローギアでなんとか立ちこぎせずに上ることができる。
この「なんとか」が大事。
1日のうち1回は、息も絶え絶えの時間が必要である。
国分寺市と小金井市の境、結構車が通る西の久保通りの一部は水平距離約250m、比高17.7m、勾配7.1%(約4.1度)の「くらぼね坂」で、これはギチギチ上れるが、西隣の通称「地獄坂」は、背後ないし対面から来る車につい足を突き、結局立ちこぎしないと上れない。
上る途中で、背後にひっくり返る妄想にとらわれる。
傾斜のきつい部分は水平距離約118mで比高16.6m、勾配は約14%(8度)もある。
シニアサイクリストのヨロヨロ走りにはヘルメットが必須だが、それでも干支はもう六巡。
車が来たら下りて曳くほうが賢明だろう。
さてまたまた事のついでだが、木製bureauの多くはパイプオルガンの奏部にも似、左右対称でロマネスク建築の教会礼拝堂を想起させる。
それらは決して無関係ではないだろう。
敢えて言えばビューロー型書見台は、デスクやテーブルなどの水平面確保ではなく、垂直軸につながる祭壇ないし龕や厨子の、祈りの系譜の末裔(すえ)なのである。
1月 16th, 2021
ホテル生活必携
感染症蔓延拡大の真最中だが、東京から仙台に来て5泊目である。
不要不急の逆で、至急必要の用務は、昨年末80歳になったばかりの認知症の従姉のケアのためである。
戦争未亡人の一人娘で、母子ともに実家である私の家に入りびたりだったため、幼時は実の姉と思っていた。
今ならば引籠りという言葉があるが、就職も結婚もしたことがなく、15年前に母親が亡くなってから一人暮らししていたものの、一昨年ころから被害妄想を訴えるようになり、昨春には母親が帰ってこないと言い始めた。
昨秋からは預金通帳や保険証などが見当たらず、聞くと母親が持っているから大丈夫と言う。
ケアの側が何度家探ししても、それら肝心のものは出てこない。
というわけで、保険証を再発行してもらって私が預かり、それをもとに通帳類を再発行してもらう手続きと当座の生活費手渡し、そして今後のケア体制づくりのため、11日から仙台に来ている。
しかし当日は仙台降雪。
とは言え30センチも降った昔と比べればちゃちなもので、翌朝の積雪は気象台発表9センチである。
もちろん東京よりはだいぶ寒く、地下鉄の駅から結構歩くその家までは道も滑る。
しかし東京のマンションの北向きの、ロク暖房なく命を縮めるような部屋にくらべれば、土井晩翠旧邸近く、仙台の中心部にある定宿ホテルの一室は天国である。
14日には地域福祉の責任者やケアマネジャー、行政書士など数人で従姉に関してZoomケア会議をもった。
地裁に後見制度を申し立てるにも専門医の診断書が必要だが、病院は何ヶ月も待ちの状態。感染症のため東京から来る者は病院には入れずケアマネジャーが付き添うが、病院まで連れ出すため私は来月半ば過ぎにまた来ないといけない。
15日は本人を連れて預貯金を扱う支店2ヶ所に出向き、通帳再発行手続きを済ませたものの、後日書留郵送されてくる再発行申請照会状(地方銀行の場合)や再発行通帳(ゆうちょ銀行の場合)を受け取り、それを保管できるかどうかが、またもうひとつのハードルである。
なにせいつ届くか確定できないものを、独り住まいの認知症本人が受け取るしかないのだから、確保の保証がない。ともかくも1週間後にはまた仙台に来ざるを得ないだろう。
というわけで、上掲写真はホテルの部屋の机の一シーンである。
奥の黒っぽい板は部屋備え付けの鏡で、これはZoom会議の準備(自分の写りの確認)とレフ板代用。
後列左から、蓋付きガラス瓶3本は、ダージリン、ウヴァ、アールグレイの紅茶3種(スリランカ産無農薬茶。農薬基準がゆるすぎて輸出できない日本のお茶類とくにペットボトルの緑茶は飲用不可)、蜂蜜ボトルの中身は自家製プリックナンプラー(これがないと私にはまともな食事とならない)、白いのは紅茶携行用ステンレスボトル、そしてホテル備品のカップ(緑茶、紅茶、コーヒー兼用)。
前列左から、ホテルでの食事用ステンレス食器とスプーン(Seriaで購入)、モンベルのマルチツール(いわゆるn徳ナイフ)、ホテル備品のカップ蓋(ないしソーサー?)と使用済ティーバッグ。
そして手前は、仙台に来て買ったダイソーの鼻毛ハサミとマルチツール。
左端、右端はホテルの備品でティッシュ箱と電子レンジのそれぞれ一部が写っている。電子レンジの上には電気湯沸し器が、そして机の右下には小型冷蔵庫がある。
この定宿は食堂がなく素泊まり専用だが、設備が新しく備品もそろっていてリーズナブル、これまで何軒か何回か使った仙台の老朽安ホテルと比べれば、格段によい環境である。食べものは駅ビルやデパ地下、コンビニや近くの古い雑貨店で適宜選べばよいのである。
さて、ここで言いたいことは、手前に写っているマルチツールとハサミのことである。
いずれもホテル生活には必携なのだが、100キンで買ったのが大失敗だった。
両者ともほとんど役に立たないのである。
分類としては刃物であるのだが、これらは「刃」そのものがない。
マルチツールはエンピツを削れず、リンゴの皮を剥くのにも難渋し、リンゴを断ち割るくらいが関の山、ハサミは鼻毛を引っ張ってしまい、買いものの正札紐を切り離したりほころび出た衣類の糸を切る程度にしか役立たない。
所詮100キンに、「刃」を求めたのが失敗であった。
高価なスイス製マルチツールが真中に鎮座しているのは、その失敗の結果である。
1月 1st, 2021
御 慶
宮城県美術館前庭の列柱『マアヤン』は1995年、広島原爆投下の日に落成式が行われた。「『マアヤン』は環境彫刻であり、広島の犠牲者にささげられる」(作者:ダニ・カラバン)。県知事の移転撤回発言で、本館とともに破壊から免れたようだ。
新年のご挨拶を申し上げます。
感染症はヒト世界の様相を否応なく変容させつつあるようです。
2020年は諸講座講演がとりやめとなり、いくつかの事柄に集中できた、というよりそれ以外に仕様もなかった年で、之潮からの新刊も『天軆地圖』と『123箇月』の2点のみ(ともに極少部数の短詩集)でした。
しかし10月末には拙著『新版 古地図で読み解く江戸東京地形の謎』(二見書房)が上梓、11月初めには季刊『武蔵野樹林』(No.5,角川書店)に「武蔵野地図学序説」の連載を開始し、本年にかけてささか考究整理ができつつあるように存じおります。
なお、早稲田大学エクステンションセンター中野校の講座「都心の微地形」は今年度春から再開講の依頼がありOKと返事しましたが、どうなるでしょうか。
皆様のご自愛と清祥そして変わらぬご厚誼を念じ上げます。
12月 16th, 2020
椋鳩十『大造じいさんとガン』と戦争
本年7月2日の本欄で「ハクチョウ、トンデモ大発見」の記事を書いたら何人かから反応があった。
今度の記事はその「続」のようなものだが、「大発見」ではない。
知る人ぞ知る「トンデモ」ではあるのだが、児童(動物)文学の定番で公共図書館の検索ではその作品が収録された書籍は、1館につき10~20種類が楽にひっかかる。
影響力は前例の短歌の比ではない。
椋鳩十(本名久保田彦穂、1905-1987)という児童もの作家の作品である。
鹿児島県立図書館長も務めた人物で、代表作のひとつ「大造じいさんとガン」は小学校5年生の教科書にも掲載された。
それが今回の「話題」である。
基本は前回のハクチョウ同様、「肉食/草食」の誤りとして本欄の「続」なのだが、それだけではなく、物語全体が意図的な感動話としか言いようがないのである。
そうであるにもかかわらず、いやそれであるがゆえに、読者はいとも容易くとりこまれてしまう。
動物擬人化・感動ものとしては新美南吉の「ごん狐」がすぐに思い浮かぶが、近年まで動物物語は結局のところヒト文化の反照にすぎず、イソップ寓話の昔から教訓が主流、近代日本の出版文化においては「泣かせ」や「英雄譚」が売りとなっていた。
いずれにしても自然ないしは野生に生きるもののリアリティは、周到な観察と研究をもとにした動物行動学の成果以前は、ゼロというよりマイナスと言って差支えない。
ディズニーの「ライオンキング」はもちろんのことだが、シートンの『動物記』も、たとえば「オオカミ王ロボ」などは動物に仮託した虚構の人間話ではないかと疑っている。
その動物物語のなかでも、本作は別格の「ウソ話」である。
物語は栗野岳(霧島山地西端部、鹿児島県姶良郡湧水町)の麓に住む老狩人の大造じいさんの話、という設定である。
幸い小峰書店の椋鳩十動物童話集第6巻『大造じいさんとガン』(ほか2作品収録。1990年刊、上掲。表紙画藪内正幸)の巻末に、今泉忠明氏の「この本にでてくる動物たち」という10ページほどの解説がある。
この作品の「矛盾」については、今泉氏は以下のように控え目な「批評」をしている。
「大造じいさんは残雪(ガンのリーダーの仇名)を捕らえるためにタニシを糸で結び、ガンを釣ろうとしていますが、ガンの主食は植物質で、ハクチョウやカモのようにはタニシを食べませんから、ガンをおびき寄せるのはとても難しかったと思います。」
折角の解説だが、「ハクチョウやカモのようには」というところは、「ある種のカモのようには」としなければ正しいとは言えない。
既述のようにハクチョウの主食は植物であり、魚ないしタニシのような巻貝類を食べるのが目撃されたとすれば、それは個体による特異例である。
他方、カモは種によって草食、ないしは雑食、またもっぱら魚類などの肉食と三類があり、一概に「タニシを食べる」などとは言えない。
作中、おとりの餌として「タニシを五ひょうばかり」、挙句の果ては「いきたドジョウをいれたどんぶり」まで登場するのには笑うほかない。
さて、問題のもうひとつはその舞台である。
マガンやヒシクイなどのガン類は渡り鳥の典型だが、九州地方で越冬するかといえばそうではない。
日本列島に飛来するガンの8割が越冬すると言われるのは宮城県北の蕪栗沼などを含む伊豆沼一帯であり、他は各所に少数ずつ、それも本州どまりで九州は現在飛来数ゼロである。
九州も南では歴史的にも珍しく、まして南西諸島で見られることはないのである。
気候の変動要素もあり、過去に鹿児島に飛来したガンは絶無と断言できないまでも、継続的な越冬地は存在せず、仮に飛来した例があったとしても10羽以下、「大(たい)ぐん」(作中の表現)などはあり得ない。
ガンは雁(かり)の別名で小学唱歌でも親しまれているので、全国的にありふれた存在のように思われているが決してそうではない。
決定的な問題点は、このストーリーの主人公とも言えるガンの群れのリーダー「残雪」と、おとりのガンを襲ったハヤブサとの「戦い」にみられる(注記すれば、山形有朋の号が「含雪」であったことからもわかるように、「雪」は旧日本軍人好みの雅号の一部である)。
そもそも猛禽とは言え中型の鳥であるハヤブサが、体重も異なる大型鳥類のガンを空中で襲うという設定からして眉唾もので、おとりを救おうとして「残雪」がハヤブサに体当たりする行為にいたっては、「肉弾英雄譚」の擬制にすぎないのである。
自然界にもしそうした行為が見られたとすれば、それは群れの生存を最優先すべきリーダーの義務の放棄であり、とっぴょうしもない恣意的逸脱である。
話ではその勇姿に打たれた大造じいさんは、狙っていた鉄砲を下ろし、仇敵であったはずの「残雪」を保護して翌春放鳥する。
以下は作品の末尾近く、大造じいさんの言葉である。
「おーい。ガンのえいゆうよ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたで、やっつけたかあないぞ、なあおい。ことしの冬も、なかまをつれて沼地へやってこいよ。そうして、おれたちは、また、どうどうと、たたかおうじゃないか。」
この物語は、大造じいさんとガンのリーダー「残雪」の積年の知恵比べないしは戦いと、ハヤブサと「残雪」の戦いと、二重の「戦い」で構成されている。
その戦いのリアリティは人間の「歴史」以前、すなわち自然ないしは野生においてはゼロなのであるが、ストーリーテリングの基層には古色蒼然とした集合的無意識(「武士道」や「騎士道」の類)が横たわっていて、物語は当時そして現在もなお著者と読者が共有するそれによって成り立っているのである。
この作品は泥沼の日中戦争勃発4年後、「日本人」だけで300万人以上の死者を生む太平洋戦争突入1ヶ月前、雑誌『少年倶楽部』(11月号)でリリースされたものである。
そのことを念頭に置くとき、この物語が戦争という舞台の「書割」を利用しつつそれ自身も戦争の書割にすぎなかったことに気が付く。
椋鳩十の、それこそ無垢な動物と児童にことよせた虚構売文の戦争責任は、いまだ問われることはないようである。
それは『声に出して読みたい日本語』(2001年、草思社)が大ベストセラー(250万部)となった明大の齋藤孝が、『齋藤孝のゼッタイこれだけ!名作教室 小学3年下』(2012年、朝日新聞出版)や『小学生のうちに読んでおきたい名作101』(2020年、日本図書センター)をはじめとする数冊の自著で、何の疑念もなくこの作を喧伝していることでも明らかであろう。
こしらえものの安直な感動話でない動物譚の一例として、クレア・キップスの Sold for a Farthing をあげておこう。邦訳は『小雀物語』『ある小さなスズメの記録』と2種類ある。この作品は第二次世界大戦のロンドン空襲下で書かれた物語である。一方、幸田文の少女時代の回想「アカ」は小学校6年生の教科書に採用された犬の話だが、感動動物譚のなかではウソがなく、率直に評価できる作品である。
12月 13th, 2020
潜在自然植生 その2
2020年9月30日の本欄で、宮脇昭編『日本植生誌 7 関東』(1986年)の附図KarteⅡ「関東地方の潜在自然植生図」(縮尺50万分の1)の一部を掲げた。
『武蔵野樹林』No.5(2020、11月)への連載寄稿「武蔵野地図学序説 その1」に引用した図は、さらにその一部であった。
同誌次号は来年2月刊行予定だが、「その2」の原稿は1週間ほど前に仕上げた。
今回は説の展開素材として5万分の1地形図を基図とした『東京都潜在自然植生』(東京都環境保全局、1987年)の一部を使用した。
以下がそれである。
ただしこれは文字などを加筆した手稿の段階である。
中央線国分寺駅を中心としたエリアをとり上げたが、宮脇図では武蔵野エリアは基本的に「シラカシ群集」のみであったのを、この図では開析谷や窪地、玉川上水および国分寺崖線部を析出し、その部分(小丸付:3)を「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」としている。
自然植生においては武蔵野台地はシラカシが優占するが、崖線や谷地などの斜面ではそれにケヤキが混じる。つまりケヤキは傾斜地を本籍とする樹木なのである。
ケヤキをシンボルとする自治体も多く身近な樹木と思われているが、それは街路樹植栽などの結果であった。
コナラやクヌギなど今日では武蔵野を代表するとみられる樹林も、むしろ近々三百年ほどの人為つまり薪炭原木栽培の残照である。
さて、左半中央に斜めU字ないし「音叉」型をつくる2つの谷に注目されたい。『国分寺市史』(上巻、1986年)によれば、北側の谷をさんや谷、南を恋ヶ窪谷という。また国分寺駅の東側で北につき出しているのは本多谷である。
恋ヶ窪谷とさんや谷が交わるU字の底辺に平たいV字めいた小図形がみえるが、これは日立中央研究所の池をあらわしている。この人工池の植生は凡例では水生植物の「ヒルムシロクラス」とされている。玉川上水や日立の池に見られるように、人為的に改変された地形であっても、当然ながら潜在自然植生に影響を与えるのである。
残念なのは国分寺駅の南側一帯が大雑把にひと括り(小丸付「シラカシ群集、ケヤキ亜群集」:3)とされ、殿ヶ谷戸谷や丸山台(通称)などの重要な起伏が省略されてしまっていることである。
正しくは小丸の付かない薄緑(「シラカシ群集、典型亜群集」:4)の島状エリアが存在しなければならない。
上図ではその部分を赤く着色し、殿ヶ谷戸谷も識別できるようにした。その結果見えてくるのは、さんや谷と恋ヶ窪谷、殿ヶ谷戸谷、本多谷が野川の上流部であった様相である。
つまり中央線国分寺駅付近の約1.1キロメートル間は、国分寺崖線は複雑に途切れた地形をなしている。
「国分寺崖線とは、国分寺に最も良く現れている崖線を意味している」(角田清美『国分寺崖線―その地理的・地質的特徴』2002年)といった俗説があるが、その典型的地形はむしろ小金井市以東に存在するのである。
(以下、詳細は『武蔵野樹林』2021年2月号)
11月 5th, 2020
『武蔵野樹林』vol.5
10月 23rd, 2020
二枚橋 その9
話が前後してしまうが、その7で掲載をしておくべきであった地図を以下に掲げる。
その7で挙げた東京都建設局による1953年の都市計画図にほぼ対応する範囲の、「1:2500 東京都地形図 26-15 国分寺」(2015年度版)の一部である。
約60年の間隔をおく両者を比較すると、旧岩崎別邸の南端部と西北部が切り売りされ、西南部は公園(夜間閉鎖される庭園ではなく、一般開放公園)とされていたことがわかる。
馬頭観音の石塔の位置は、上掲図の「殿ヶ谷戸庭園」という文字の「谷戸」の中間で小径が南側に撓んだ先である。なお、現在は「ヶ谷」の文字が掛かる小径は存在せず、馬頭観音の石塔のところで途切れていて旧本館(現管理事務所)に向かうことはできない。
「谷」の文字の上に丸みを帯びた逆凸型の記号が見えるが、この図の凡例によればそれは「園庭」をあらわす。実際にはここには芝生の広場がひろがっているのであるが、コース入口からそこを横切り次郎弁天池に至る最短経路は、1975年の整備工事の際に廃止されたという(住吉𣳾男『殿ヶ谷戸庭園』)。そうだとすれば、その結果がこの地図に反映されていないのは、園内路については旧図ないし旧資料をそのまま用い、調査や更新がおこなわれなかった可能性がある。
結局のところ馬頭観音は庭園の中央の段丘面上にありながら回遊コースから外され、開析谷の途中から谷壁斜面に設けられた段を上って至る、もっとも奥まった場所とされたのである。
上の写真は現在の殿ヶ谷戸庭園内馬頭観音石塔への道標と坂道。この道標から、急斜面に設けられた木製土留めの階段51段を上って石塔に至る。身体すなわち目の高さを使った簡易水準測量では、道標と石塔の高低差は約9メートルである。
ネット上などでは、国分寺市の説明をはじめとしてこの庭園を「国分寺崖線の南側斜面を利用し、湧水と植生を巧みに生かした回遊式林泉庭園」と説明しているのがほとんどだが、地形学的にはそれは誤りで、この庭園は国分寺崖線の段丘崖斜面にかかるものではない。
「国分寺崖線」の構造とその形成過程が理解されていないため、誤認が流布している。
段丘崖のあちこちからは湧き水が流れ出るが、それは段丘崖すなわち国分寺崖線が形成されて後のことである。
湧き水のいくつかは湧出口の上層を崩落させ、崖壁の谷頭侵食を開始する。
本来の「ハケ」とは、この段丘崖からの湧水とその初期侵食地形の謂いである。
その多くは段丘崖を直角に切り込む小さな谷となる。さらにいくつかの谷は成長していく。
そのひとつの谷の谷壁斜面を利用したのがこの庭園である。
つまり、形成史的には国分寺崖線と開析谷の間には何万年という時間差が存在し、かつ構造としても傾斜の方位、傾斜角およびその深度(高低差)は異なり、この斜面は段丘崖(国分寺崖線)とはまったく別ものなのである。