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怪しい地図記号 その5

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図は『風俗画報』 臨時増刊第244号(1902年:M35・1月25日発行)の「新撰東京名所図会 第33編」(芝区之部・巻之二)所収図の一部である。

制服制帽の鉄道員3人が、乗客の乗った車輛と格闘している。
どうやら脱線したらしい。
向こう側は川で、数隻の舟が舫(もや)っている。
橋の袂(たもと)である。
それにしてもこの車輛、せいぜいが数人乗りの箱とみえる。
だから脱線しても乗客を乗せたままでなんとかできるのだろう。
キャプションにあるように、橋は渋谷川下流、古川河口に架かる金杉橋である。
ということは、車輛が走っているのは旧国道1号つまり東海道である。

「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴(りん)を振立てゝ、みじめな痩馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りましたが、今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手気侭に停めてくれました。馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈に脱線する、其都度跡の車台から馭者や車掌を招集して、はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールへをさめるのでありましたが、狡猾な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の首府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関であったかと思ふと、全く情けないやうな心もいたします」

これは『都史紀要33 東京馬車鉄道』(1991年)に引用されている喜多川浅次『下町物語』(1916年)の一節である。「小さな馬車鉄道」と言うからには馬がいないといけない。図の右下に描かれているのは馬の尻と尻尾、そして曳具の一部のようだ。

次の図は金杉橋を南下すること約450m、入間川(いりあいがわ)河口に架かる芝橋付近は「芝浦之景」と題された「新撰東京名所図会 第33編」見開き図の一部で、路上の鉄路も馬車の全体も一応描かれている。

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橋の上天秤棒を下げた2人の行商人らしき人影の上には「芝橋」、左手の二階家には「松金」と短冊状の詞書(ことばがき)があり、同誌の記事によると後者は鰻屋という。橋の袂にはガス灯らしきものが立ち、3台の人力車と3本の電柱がみえる。芝橋は木造橋である。図の左上は東海道線の鉄道橋で、その橋脚は堅牢な石造りである。

時は日露戦争前、国道1号といえども舗装も排水溝も無きにひとしい道路はその大部分が関東ローム剥き出しで、雨が降れば泥濘、霜柱が融ければまた泥濘。軌道施業は「幅八尺、深さ一尺二寸三分ほど地面を掘り下げ、砂利を五寸五分の厚さに敷き、手木でこれを三寸まで突き固める。その上に栗の横材(枕木)を四尺間隔に敷き、この上に桧の縦材を敷き・・・」と念入りのようだがその程度ではレールに浮きや歪みが生じるのは自然の摂理。逆に「線路ノ両側尺余ノ地ハ泥土深クシテ近ヅク可カラズ」(『朝野新聞』)の有様となった。しかしマガダム法(砕石道方式)による道路改良も、蔵前通り以外は実施されずに終わる。その反面「東京馬車鉄道」の利益は莫大で、株式配当は3割5分がつづいたという(「都史紀要33」)。

汐留に本社をおいた東京馬車鉄道会社の設立は1880年(M13)、新橋-日本橋間の開通は翌々1882年6月で、軌道が上野、浅草へと延伸し全工事が終わって開業式が行われたのは同年12月2日である。
大森‐新橋間は1889年(M22)設立の品川馬車会社がレールを敷設して1897年(M30)に品川馬車鉄道会社となったものの、翌々年東京馬車鉄道に吸収合併されその区間は支線の品川線とされた。「新撰東京名所図会」に描かれたのはさらにその3年後の景ということになる。
しかしこの時すでに鉄道馬車全盛の勢いは失していた。事故や道路毀損、糞尿被害のみならず、私企業による公道のなかば独占使用に対する批判は根強く、東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道株式会社と改称し、路面電車の時代が開幕するのは1903年(M36)から翌年春にかけて、日露開戦約1年前のことであった。

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