6月 4th, 2021
怪しい地図記号 その4
怪しい地図記号(触角+黒窓付四角)から触角を取り去った黒窓付四角の記号は、輯製二十万分一「東京」の1906(M39)年図では停車場を表していた。「国有鉄道法」は1906年の3月31日公布で、地図は同年11月30日の発行であるから、「東京」図における地図記号の変化は法と連動していたとみるのが自然である。
この年、日本列島上の主要な鉄道(レール)や汽車・列車のみならず駅舎も改札口も「国有物」となり、職員は官員となった。
だからそれ以前の1888(M21)年図では、記号の様相はまた違っていたのである。
下掲はその一部だが、鉄道に関連して3個所に黒窓付四角が描かれている。
右上、不忍池の東側の「停車場」と右下は新橋の「停車場」、それぞれ山手線の当時の「終点」に、黒窓付四角が見える。そして形は多少異なるものの、左下「中渋谷」近くにも黒窓付四角を指摘できる。
上野と新橋はターミナル(終端)を表したものと推測できるが、この渋谷付近の記号は何をあらわしたものか。ちなみに東京駅(計画では「中央停車場」)の開業は1924(T13)年、最後まで残った未接続上野-神田間が開通して現在の山手線が環状運転を開始したのはその翌年で、この図の37年後である。ついでに触れておくならば、東京駅東側の八重洲口の開設は1929(S4)年のことであった。
実は上掲範囲外の「東京」図幅には、ターミナルの黒窓付四角記号は横浜停車場にも描かれている。当初の横浜停車場は現在の桜木町駅の位置にあり、後の東海道本線に対して小脇に突き出した盲腸のような存在となった。この当時、列車は横浜停車場でスイッチバック運転を行っていたのである。
そうして渋谷型の黒窓付四角記号は、北から順に蓮田、上尾、大宮、赤羽、王子、板橋、目白、大崎、大森、川崎、戸塚、藤沢の各停車場と目される位置の鉄道記号の片側、すなわち左右ないし上下のいずれかに見出すことができる。
つまりこれは当時の停車場そのもので、鉄道記号に付された位置は改札口のある側を表したものと考えることができる。当時停車場の改札は、原則1ヵ所だったのである。だからこの記号そのものは、四角は建物を、黒窓は出口をあらわしたものと推測できる。そうしてよく目を凝らせば、内藤新宿の青梅街道と甲州街道の股の内側に、ほんの申し訳程度であるが、停車場はたしかに描かれているのである。
『地図記号のうつりかわり』には、渋谷型の記号は鉄道等の節の迅速図式に「小憩場」、仮製図式に「停車場」とあり、また明治28年式の項を見れば、今日に一般的な旗竿式鉄道記号の中央に白い四角で駅を表わすのはその時以降であるとわかる。近代初期は、地図記号も試行を重ねた時期で、それ以降に埋もれ、忘れ去られた記号類も少なくなかったのである。
すくなくとも「東京」図幅に関するかぎり、1888年図では、ターミナル以外の停車場は線路をあらわす「旗竿」記号(白黒だんだら)の改札口のある側に外付するかたちで表現されていたが、1906年図においては停車場はすべてターミナル型に変わり旗竿線の中央に位置するようになった。それがやがては今日に一般的な白の横長四角に変化する記号変化のプロセスが存在した。それは言うなれば停車場の具象型から、より抽象化された駅記号への歩みであった。
ちなみに、鉄道が白黒交互の旗竿式で表わされるのは明治24年式からで、旗竿の「国鉄」、ゲジゲジ状の「私鉄」の区別は昭和30年式からと『地図記号のうつりかわり』には記載されている。南海鉄道(現南海電鉄)は国有化されることなく最古の私鉄として知られるが、輯製二十万「和歌山」の1941年(T3)発行図を見ても、路線記号は国有鉄道と違いのない旗竿式である。「明治24年式」図式に発するとされるこの独特の旗竿式記号の由来について同書にとくに注記はない。
巷間には鉄道建設測量の標尺(ポール)や国旗掲揚の旗竿(白黒だんだら)に由来するといった説があるようだが、地図記号としては同年式の鉄道の「建築中」を示す記号、つまり節付二条線(梯子ないし竹棒状)とのセットで、その開通区間は節ひとつおきに墨入れすれば原板をそのまま利用できるという利点があったと思われるのである。
鉄道国有化1906(M39)年、国鉄分割民営化は81年後の1987(S62)年、JRは今や民間企業で「私鉄」にほかならないのである。今や旗竿式は「怪しい地図記号」と化した。意味不明の地図記号を旧套墨守する必要は、さらさらないのである。
一方ターミナル型の停車場記号全盛期、とは言ってもそれは列島の近代地図史上一瞬のことに過ぎなかったが、「国鉄駅」記号に陸軍所轄を表す「М」を被せて旧陸軍施設を表そうとしたのはどのような意図が存在したかは依然として判然しない。ただしすべての停車場をターミナル型で示した輯製二十万分一「京都及大坂」(1908年再版)図には、大坂城の東に「М」の記号を付し、南に「練兵場」と文字記載するのみで、触角付の怪しい地図記号は見つけることができないのである。